第26話 余韻と余熱
思わぬ地雷を踏んでしまったが、陽香さんはコラボカフェ自体は十分に堪能したようで、店を出る時はお肌がツヤツヤになって見えるくらい満足そうな顔をしていた。
「河井くん、今日はありがとう。おかげでいっぱい楽しめたわ」
帰りの道すがら、陽香さんの表情は穏やかだった。
「私が誘ったのに、私ばかり楽しんでしまった気がするけれど」
「それならそれで、僕がいる意味もあるというものですから」
「久々に胸の内が凄くスッキリしてる感覚があるわ」
「そりゃあれだけ話してくれたんですから。もしかして陽香さん、今まで高校時代のことは誰にも話せなかったんじゃないですか?」
「そうかも。思い出すたびに過去にタイムリープしてあいつらの頭にドロップキックしたくなるから……!」
ストップ、ストップ、と、僕は再び陽香さんが復讐の鬼神と化するのを必死で止めた。陽香さんには色々な顔があるな。でも、大人とはそういうものなのかもしれない。
「昔の陽香さんがどんなだったか知ることができましたし、有意義でしたよ」
そういう意味では、今日のコラボカフェでの出来事は、僕の人生の中でも大きな部類に入る出来事だった。
「ポップアップストアも、コラボカフェも楽しかったですよね。陽香さんなんか、料理一品でどれだけ撮るのってくらい写真撮ってましたし。あれ? インスタやってましたっけ?」
「学生の頃まではね。教師になってから、色々めんどくさそうだからアカウント消しちゃったけど。だからあの時撮った写真は単なる記念よ」
じゃあ、アカウントを復活させて趣味の投稿をするようになれば、生徒からも怖がられずに済むようになるのでは?
そんなアイディアを思いつくのだが、口には出せなかった。
プライベートな陽香さんのことをみんなに知られるのが嫌だったのかもしれない。
幼稚な独占欲だ。
でもほら、僕は入学して間もない高校生だから、子供っぽいくらいがむしろ普通だよね。
などと自分に言い聞かせていると、駅が見えてきた。
周囲の人々は慌ただしくあたりを行き交っていて、人混みの中の一組でしかない僕らのことなんて誰も気に払っていないように見えた。
リスキーだけど、とてもドキドキするいたずらのアイディアが湧いてくる。
「陽香さん、ついでと言ってはなんですけど、ちょっと頼みがあるんですよ」
「なにかしら? 今日は迷惑をかけたところもあるし、私にできることなら聞いてあげるけれど」
僕は陽香さんに向けて、手を差し伸べる。
「ついでなので、手を繋いで帰っちゃいませんか?」
「あなたね……」
呆れる陽香さんは、頭痛でもしているみたいに頭を抑える。
「いくら気を張って警戒するのをやめたからといって、バレたら面倒なことに違いないのよ? それに……それだとまるでデートみたいになってしまうわ」
「僕としては、デートってことにしてもらいたいんですけどねえ。今後陽香さん以上の美人と二人でお出かけする機会なんてないでしょうから」
「変に褒めるけれど、私の本当の姿なんて、あなたに見せたアレよ?」
「僕にとっての陽香さんは、今目の前にいる陽香さんですよ」
「……童貞のくせに生意気」
「あっ、教育者として言ってはならないこと言いましたよね?」
「はいはい、お詫びに手くらい繋いであげるわよ。可哀想な河井くんのためにね。もう夜で暗くなってるし、どうせ私達のことなんて誰も見てやしないわ」
すると陽香さんは、繋ぐというには乱暴に僕の手を握ってきた。
雑……。
「初めては、もう少し優しくしてほしかったです……」
「言い方が気持ち悪いわねえ……。あんまり本気な感じの手繋ぎじゃ色々問題でしょ」
「ていうか陽香さん、緊張してません? 手汗の感触があるんですけど」
「手汗なんか出てないわよ! どうせあなたの汗でしょ」
「もしかして陽香さんも初めてなんじゃ……。あれ? 陽香さん二十四歳ですし、流石にそこまで異性経験ないわけじゃないですよね?」
「あなた、今日だけでやたらと調子に乗るようになったわね? 今すぐこの場で粛清してあげてもいいんだけど?」
陽香さんの瞳からハイライトが消えた。
これ以上いじってくれるなというサインだ。
「すみません。親切な陽香さんに甘えてしまいました。ああ、陽香さんの戦利品、僕のリュックに入れてくれていいですよ。それだと両手が塞がって不便ですよね」
機嫌を取りたいわけではないが、本当に不便そうだったからそう提案した。改札通る時とか困りそうだし。
「あなたをそのリュックに詰められればいいのに」
「僕よりリュックの方がずっと小さいんですが。事件性高そうなこと言わないでくださいよ」
「ふふ、冗談よ」
未だハイライトが消えた瞳を向けてくるので、僕は余計なことは言わないようにして陽香さんから受け取ったグッズをリュックにしまう。
それから駅にたどり着き、改札を抜け、ホームで電車を待つ。
「…………」
その間、僕らの会話はなくなってしまっていたけれど、陽香さんはしっかり手を握り直して繋いだままでいてくれた。一度言ったことを守る責任感が強いのだろう。
会話がなくても陽香さんが手を繋いだままでいてくれるというだけで、僕は満足してしまう。
安い男だからかも。
いや、僕にとって陽香さんの価値が高いからだ。
いずれにせよ幸せなひとときに違いなかった。
最寄り駅を降りて、アパートのすぐ目の前までたどり着く。
「河井くん」
陽香さんが言った。
「なんです?」
「今日は、ありがとう」
二階へ続く、赤錆が目立ち始めている階段を登っていく。
狭い階段なので、並んで登っていると肩同士が密着してしまう。
「僕も楽しかったですよ。二回目、僕はいつでも待ってますからね」
「二回目なんかないわ。今日はちょっと気を緩めちゃったけれど、私とあなたは教師と生徒という立場に違いはないのだから」
いつもみたいに、またしょうもないこと言っているわ、という感じで口にした言葉のようで、そこには名残惜しさがあるように思えるのは、僕の自意識過剰だろうか。
アパート二階の手前の部屋、つまり僕の部屋に差し掛かる。
陽香さんとの特別な時間も、これで終わりだ。
「…………」
僕の部屋の前で立ち止まると、陽香さんは僕の手をじっと見つめたまま離そうとしなかった。
「河井くん、あなたの方から手を離しなさい」
「陽香さんに譲りますよ」
「あなた、年下でしょ」
「年長者として率先するべきなんじゃないですか? 教師なんですから、生徒を教え導かないと」
「……そうね、あなたは私の生徒だわ」
陽香さんは、頭を振ると、素直に僕から手を離した。
「じゃあ、明日学校でね」
陽香さんは背を向けて、手際よく解錠して部屋へと入っていく。
このまま素直に別れるのが名残惜しい僕は、解錠に手間取るふりをして、陽香さんが先に部屋に入るのを見届けていた。
自分の部屋に戻ってきて、安らぎより寂しさを覚えたのは始めてだ。
手のひらをじっと見つめる。
少し前まで陽香さんの手と繋がっていたそこは、まだ微かな体温が残っている気がした。
「なんか冷えるな」
片側に染みた暖かさを失った僕は、体温まで下がったような気がしてしまうのだった。
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