第18話 やっぱりダメでした

 陽香さんの授業は、相変わらずピリつく緊張感の中で行われている。


 決して私語を許さず。決して居眠りを許さず。教室の支配者たる女帝の命令には絶対服従しなければいけない監獄。もちろん、毎回出される予習・復習プリントは提出厳守だ。


 そんな中、僕は陽香さんの、タイツに包まれた脚に視線を向けてしまっていた。

 見惚れているのが半分。

 もう半分は、歩き回った疲労はないらしいという安心だ。


 陽香さんは、生徒みんなを監視するように教室中を巡回して回るのだが、特に足を痛めているような感じはしない。


 もしかしたら、教師になる前は運動部でガンガン体を鍛えていたりして。

 陽香さんのことは、まだまだ知らないことだらけだ。


 それでも、少なくともクラスメイトの中では一番陽香さんのことを知っている自負はあって、そんなことで満足感に満たされてしまうのだった。


 ★


「しまった。分量間違えてつくりすぎた」


 キッチンに立つ僕は、夕食用のカレーが入った鍋を前にして困っていた。


「この量だと、寝かせて食べるにしても3日連続カレーとかになりそうだ。流石にキツい。かといって、捨てるのも勿体ない」


 カレー鍋の前で考えた結果。


「そうだ、陽香さんにおすそ分けしよう」


 日頃お世話になっているお礼になるし、夕食づくりの手間が省けることで陽香さんの負担を減らすことができる。


 カレー鍋を抱えた僕は、すぐ隣の家のインターホンを押すのだが。


「あれ? 出ないな。出かけてるのかな。そんなことないよな」


 部屋のキッチンがある側の小窓は廊下と隣接していて、在宅を示す部屋の明かりが外へ漏れているのだから。

 もう一度押すのだが、陽香さんの返事は聞こえてこない。


「……もしかして、何かあったんじゃ?」


 心配になった僕は、失礼を承知でドアノブをひねる。

 施錠されていないようで、扉はあっさり開いた。


「陽香さん!」

「ごめんなさい、河井くん。今出ようと思ったのだけど……」


 弱々しい陽香さんの声。

 さらに衝撃的だったのは、陽香さんの体勢だ。


「ど、どうしたんですか!?」


 陽香さんは、床に臥せっていた。


 部屋着のショートパンツのせいか、ぷりんとしたお尻が目立つのだが、今はどうでもいいことだ。


「いくらおっぱいが大きいからって、胸で床掃除は効率悪いですよ!」

「気持ち悪いわねぇ……掃除してるつもりはないわ」

「じゃあいったい何があったんです? あ、すみません、お邪魔させてもらいますね」


 リアルガチで心配になった僕は、カレー鍋を一旦玄関脇の棚に置いて、靴を脱いで部屋に上がった。


「……笑わない?」

「笑いませんよ」

「あなたの言う通りだったわ」

「えっ?」

「お昼まではね、全然平気だったの」


 めそめそしながら、陽香さんはのろのろと体を起こして、ペタンと女の子座りをする。


「それが……夕方になった途端、ふくらはぎがカチカチになって、ほとんど動けないの」

「なるほど。動いた当日じゃなくて時間差で足に疲労が来たんですね――痛っ」


「おばさんって言うなって言ったでしょうが!」

「急にチョップしないでくださいよ。言ってないんですから。モノローグでも、おばさんなんて言ってません」


 年を取ると筋肉痛が遅れてやってくるとは聞く。


「あなたの顔に書いてあったわ」

「僕の顔には、『HARUKA 4 EVER LUV』としか書いてませんよ。きっと国語の先生だから英語は読めなかったんですね」


「ふざけるつもりなら帰ってくれる?」

「帰りません。そんな状態の陽香さんを放っておけませんよ」


「……それは、私のことが好きだからかしら?」

「えっ? い、いやぁ、ふひ、り、隣人として? あと教え子ですし?」

「肝心なところでヘタれるのねえ……」


 だってしょうがないじゃないかぁ。

 濡れた瞳の陽香さんにじっと見つめられたら、キョドり方もマックスになるというものだ。


「とにかく! 今日は陽香さんのお世話をさせていただきます!」

「悪いわね」


 陽香さんは、力なく微笑む。

 弱っている陽香さんを見るのは辛いものがあった。


 これは、全力でお世話をしないといけないみたいだ。


「あっ、カレーいります? ちょっとつくりすぎちゃって、よかったら食べてもらおうと思って持ってきたんですけど」

「助かるわ。今日はキッチンに立つのもちょっと辛いから」

「わかりました。じゃあ……」


 僕は、陽香さんのそばに片膝をついて屈む。


「一旦、ベッドまでお連れした方がいいですか?」


 匍匐前進じゃないと異動できない状況なら、いっそ僕が運んだ方がいいに違いない。


「……あなたにできるかしら?」


 ぷいっ、と陽香さんは、頬を染めながらそっぽを向いてしまう。

 変に意識させないでほしいところ。


「まあ、お姫様だっこなら、おぶっておっぱいが背中に当たるようなこともないので……」

「そうじゃなくて。それもあるんだけど……」


 もじもじする陽香さんは、膝を抱えて体育座りをしながら僕を見上げる。


「私が、あなたが考えてるより重かったらどうするの?」


 そんなことを口にする悔しさや、それでも運んでもらいたい申し訳無さがまぜこぜになった恥ずかしい顔をしてくる。


 陽香さん……なんて、女の子っぽいことを気にするのだろう。


「陽香さんの体重より、僕の陽香さんへの善意パワーの方が上です。絶対に陽香さんをベッドに運んで安静にさせるという強い気持ちがあるので……平気です!」

「そこはウソでも、先生は重くないですよ、とか言うところじゃないの?」

「あ、そうでした。すみません」


 別に陽香さんのことを土のうだとか酒樽とか思わないけれど、なにぶん胸のサイズがサイズなので、羽のように軽いイメージを持つことができなかった。


「あなたはデリカシーに欠けるところがあるけれど、まあいいわ、それくらい素直だから気を遣いすぎないで済むところがあるし。それに……」


 寛大な人だ。でも、この優しさに甘え続けるわけにもいかない。


「あなたはまだ高校生なのだから、その辺の機微はわからなくたってしょうがないわ」


 微笑む陽香さんに、悪気はないのだろう。

 物を知らないこどもを許す大人な態度で接してきているだけだ。


 けれど、ここ最近の関わりで少しずつ陽香さんと対等になれた気がしていた僕にとって、自分の未熟さを痛感する態度ではあった。


「陽香さん、ちょっと体に触りますね」


 自らへの怒りを力に変えて、僕は強引に陽香さんの両脚を掬うようにして抱き上げた。


 僕の生涯初めてのお姫様抱っこの相手は、クラスで恐れられている美人教師でした。

 などとラノベのタイトルみたいなことを考えてしまうのだが、実際に抱き上げてみると、やはり羽根のように軽いなんてことはなかった。


 落としてしまわないように、僕の側に寄せて抱える格好になっているから、陽香さんの顔は僕の胸元に寄っている。


「重くない?」


 陽香さんは恥ずかしそうだった。

 陽香さんの柔肌に直接触れてしまっているせいで、僕も恥ずかしい。


「全然です。ていうか、軽いくらいですよ」

「ウソついてるでしょ」


「いーえ、まったく。僕、ウソついたことないので」

「変なとこで強情なのね」


 もうすぐでベッドだ。部屋が狭くてよかった。


「でも、そういうところは男の子っぽくて好きかも」


 男の子っぽくて……好き……?

 切り抜かれたフレーズが、僕の頭の中でこだまする。


「は、陽香さん!? 今のは!?」


 ちょっと声音に艶っぽさがあって、冗談っぽく聞こえなかったので、ついつい僕は動揺してしまった。


「ち、違うわ! どうしたあなたは本気にするのかしら? これくらいで勘違いしていたら、彼女なんかできないわよ!」

「そ、そうですね! 猛省します!」


 しかし僕の動揺は続く。


 ついには、軸足に逆足を引っ掛けてバランスを崩してしまい、前のめりに倒れそうになる。


 ぼふっ。

 陽香さんの体が、柔らかいベッドに沈んでくれた。


 ちょうどベッドの前までたどり着いていたおかげだ。

 よかった。陽香さんにシュミット式バックブリーカーをせずに済んで……なんて安心するのは早かった。


 コケてしまったせいで、僕は陽香さんを押し倒す姿勢になってしまっていた。


 間近に迫る、陽香さんの綺麗な顔。

 呼吸をするだけで吐息が鼻先にかかりそうな距離だ。


 そんな状況に、僕がいつまでも耐えられるわけもなく。


「すみません、背中大丈夫でしたか!?」

「え、ええ、どうにか!」


 お互い気まずい感じになって、僕は背中を向けてしまう。

 どうして僕は、もっとスマートに物事を運べないのだろう?


「いやぁ、変なコケ方して。カッコ悪いところばかりですみません」


 背中を向けた僕の服が、そっと摘まれて引っ張られる感触があった。


「謝るのは、私の方だわ」

「どうして陽香さんが?」

「変に照れる前に、あなたにありがとうを言うべきだったから」


 陽香さんが上半身を起こす。

 髪の毛先を指でくるくるといじり、恥ずかしそうに視線をそらす。


「私はもう大人なのに、未だに自分自身の扱い方をよく失敗するの」


 恥ずかしそうな陽香さんと視線が合う。

 きっと陽香さんより恥ずかしいであろう僕はうつむいてしまう。


「陽香さんも、ですか?」

「ええ。私もよ」


 その言葉だけで、胸の内がスッと軽くなった。

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