第14話 陽香さんの変化

 この日、僕は社会科教師に呼ばれて職員室に来ていた。


 別に、宿題を忘れたとか、授業態度が著しく不真面目だったとか、そういう理由があるわけじゃない。

 どうも僕は人からモノを頼まれやすいらしい。


 同じ頼まれ事でも、陽香さんなら全然いいんだけど、相手は中年のベテラン教師。愛想がないタイプで、常に厳しい顔をしているから、僕も憂鬱だった。


 陽香さんといえば。

 職員室のちょうど真ん中の席に、陽香さんの座席があった。


 最近は結構プライベートな姿を目にしているから、女帝の恐怖一辺倒なイメージもだいぶ薄れているけれど、学校にいる時の陽香さんは相変わらず近寄りがたい孤高の雰囲気を発していた。誰も寄せ付けず、同僚相手ですら緊張させそうなくらいピリ付いたオーラがあった。


 そういえば、陽香さんが女帝として教室を支配するやり方を、同僚の教師たちも咎めることなく見て見ぬふりをしていたのだった。つまりそれだけ、陽香さんの恐ろしさは知れ渡っているのだろう。


 そのせいか、陽香さんの周りに人が寄り付くことはない。

 今はノートパソコンと向かい合っていて、飲み物が入ったカップを片手に何やら作業をしている。


 まるで、人類を絶滅させる計画でも立てているみたいに、表情に穏やかさがない。

 ここ最近の愉快な面もある陽香さんのことを忘れそうになってしまう姿だ。


 つい、声を掛けたくなってしまう。

 学校外でするようなやりとりをして、本当の陽香さんは決して冷徹な孤高の人じゃないのだとわかってほしい。


 けれど、親しくしていいのは、学校の外、他の教職員や生徒の目がない場所でだけ。

 そういう約束である。


 女帝として振る舞うのは、陽香さんなりの考えがあるはず。

 踏み込んで良い領域を間違えてはいけない。


「おい、河井。何してるんだ。行くぞ」

「ああ、はい、今行きます」


 せっかちな男である。

 美人教師の幸せを願う尊い気持ちを邪魔しないでほしいものだ。


 授業用ノートの山を抱えて社会科教師の背中を追いながら、最後にちらりと陽香さんへ視線を向ける。


 陽香さんは、作業の手を止めてこちらを見ていた。

 そして、誰にも見えないようにこっそりと、僕に向けて手を振る。


 手を振る、と言っても、軽く指先を動かす程度のささやかなものだ。

 おまけに能面のような無表情。


 それでも、陽香さんは初めて、学校内のみんながいる前で僕にだけわかるかたちでコンタクトを取ってきた。

 僕は嬉しくて両手をブンブン振りたい気分だったけれど、あいにく想像以上に重いノートを両手で抱えた身だ。


 仕方がないので、首を左右にスライドさせる奇妙な動きでこっそり応えた。

 まあこれは僕の気分の問題なので、陽香さんから反応がなくたって構わない。


 そう思っていたら、なんということでしょう、陽香さんが口元を隠しながらもくすりと微笑んでくれたように見えた。

 何事もなかったかのように作業に戻っていくのだけれど、僕は確かに、これまでと違う陽香さんの姿を目にした。


 陽香さんも、少しずつ丸くなってくれているのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る