第10話 陽香さんからのお誘い その2
僕のドキドキを返してくれ、と思ったのは、陽香さんに連れてこられたその店にたどり着いた時だった。
僕は、隠れ家的なお店と聞いて、薄暗く落ち着いていてムーディなジャズなんかが流れているような場所を想像していたのだ。
けれど実際は、会社帰りであろうサラリーマンが大集合して、会社への不満なり品性下劣な会話に興じるような実に程度の低い地獄だった。
いわば大衆酒場ってやつ。
確かに、大人率高いけどさ。
教職員ウケしなさそうな環境だから、陽香さんの同僚に見つかることもないでしょうよ。
でも、青春真っ盛りな高校生として、こんな人口比率がおっさんに傾いた場所、居心地悪くて仕方がないよ。
「河井くん、どうしたの?」
向かい合う位置でやきとりにかじりついている陽香さんが首を傾げる。
僕と陽香さんは、おっさんどもの喧騒から離れた座敷席にいた。
酒に合うかどうかの基準で料理を注文した陽香さんと違って、僕はあんかけ焼きそばを注文してもそもそ口にしている。
「なんでもないです。ちょっと、思ってたのと違ったなって思って」
「でも、こういうところの方が気を使わなくて済むんじゃない? ほら、今の私は、あなたが言うような自然体に近いと思うんだけど?」
「まあそれはいいんですけどねえ。普段の僕なら、きっと喜んでますよ。よかったね、陽香さんって。でも、一つ言わせてください。僕のドキドキを返して!」
「ふーん、じゃあ今度は、あなたが期待するようなおしゃれなバーにでも連れて行ってあげるわ」
「あっ、待って。やっぱりナシで」
「どうして?」
「なんか、陽香さんに異性の存在を感じさせるような場所に連れて行かれちゃうと、僕の方が怖気づいてしまいそうで。今度は僕の方が自然体でいられなくなっちゃいますよ……」
「めんどくさいわね」
陽香さんは、うっざ、という顔でため息をつきながら、ジョッキに入ったビールを煽った。
「だいたい、私はあなたと違って大人なの。傷つきたくないのなら、そういう詮索はしない方がいいと思うけれど」
「だってしょうがないじゃないですか! 陽香さんの年齢の男女交際って、バカえっちなことするの前提でしょ!? 高校生ならまだ手を繋いだだけで終わっちゃったぁ、って可愛らしい結末で終わることもありますけど、陽香さんの年齢じゃ繋がりがもっと体の下の器官まで行っちゃうじゃないですか!」
「こ、こら! 場所を考えなさい!」
陽香さんが真っ赤になって抗議する。これはお酒のせいで赤くなっているわけではなさそうだ。
「僕のせいじゃないですよ。周りに卑猥なトークばかりしてるおっさんしかいないせいです!」
僕は一切アルコールを口にしていないけれど、周りのおっさんのアルコール臭に酔ってしまったのか、いつもと違う自分が顔を出してしまう。
「あっ、そういえば陽香さんはまだ異性関係の実績解除一つもしてなかったんですっけ? よかった、それなら安心だ」
「ふ、ふん、言ってくれるじゃない」
陽香さんは、ダァン! とテーブルの上にジョッキを叩きつけた。
「確かに、女子校育ちの私はロクに異性の経験なんてないけど、あなたにバカにされる筋合いはないわ」
「どうですかねえ。なんか色々言ってますけど、陽香さんは本当は大人の社交場なんて全然知らなくて、この社会の荒波に疲れたサラリーマンたちの憩いの場が知っている精々なんじゃないですか?」
「あっ、言ったわね。だったら」
陽香さんは立ち上がり、僕のすぐ隣へやってくる。
なんということでしょう、僕の腕に胸を押し付けているんじゃないかと勘違いするくらい身を寄せてきた。
「私だって、本気を出せばあなたをドキドキさせるくらい造作もないことなんだけど?」
女帝と呼ばれる陽香さんらしくないノリ。
ダメだ、酔いに酔っている。
これはノーカンだ。
僕は、酒の力を借りて無理やり陽香さんを自然体にさせたいわけじゃない。
もっと、自分自身の意思で上手く力を抜く術を学んでほしいわけだ。
だからここは、「やめるんだ、陽香さん。僕はそういうことを望んでいるわけじゃない!」とスパッと突っぱねるのが陽香さんのため。
「えっ、ふふ、ふひっ、いやぁ……」
でも無理でした。言葉にならない童貞の鳴き声みたいなのを出しながらキョドるだけで精一杯。
だって腕に当たる未知の感触があまりに心地よすぎて、酔っていないのにまともに呂律が回らないのだから。
おかしいな。仕事終わりのスーツ姿だから、陽香さんは当然ブラはしているはずなのに、ノーブラなんじゃないかってくらい感触が柔らかい……。
「河井くん、もしかしてこの程度で照れてしまっているのかしら?」
陽香さんは得意になって、身を乗り出して僕の顔を覗き込んでくる。
間近で見て改めて思うんだけど、陽香さんは顔の造形が整っているのはもちろん、肌だってきめ細やかで真っ白で柔らかそうだ。
こんなの、直視できるわけがない。
それに、この程度、などとのたまう陽香さんだが、女子校育ち異性経験ナシなだけあって男子高校生の生理というものをちっとも理解していない。
おっぱいを押し付けられて冷静でいられる男子高校生なんて、いません!
「河井くんの態度次第では、つつくくらいならさせてあげようかと思ったのに」
マズいぞ、とうとう教師として大事なモノまで失いかねない発言まで飛び出した。
「あのですね、僕はですね、酔った状態で生徒と接するのはよくないと思うわけですよ。だから早く僕を解放してください!」
「私、酔ってないけど?」
「酔ってますよ。普段の陽香さんなら、そんなことしませんから」
「河井くん、それはおかしくない?」
陽香さんが、咎めるような視線を、超間近で俺に向ける。
「普段の私? 河井くんは、学校の外では、教室とは違う私でいてほしいから頑張ってくれているのよね?」
「それは……」
「じゃあ、こういう私でいることを、あなたは喜ぶべきなんじゃない?」
「違います。酔った陽香さんはノーカンですよ」
「そこまで言うなら、私が本当に酔ってるか確認しなさいよ」
「確認するも何も、今目の前でまたジョッキをグビグビやったでしょ。現行犯ですよ」
「いいから」
陽香さんは俺の腕から離れ、ようやくおっぱい固めを解く。
安堵と寂しさのツープラトンを食らう不思議な気分になった俺だが、さらなる驚きに遭遇してしまう。
「ちょっ、陽香さん!?」
なんと、正面に回り込んだ陽香さんは、僕の首に腕を絡めてきた。いわばアレだ、対面座位みたな姿勢になってしまっている。
「飲酒運転疑惑で警察に止められた時、なんか計器を使って息にアルコールが入ってるかどうか測るでしょ? 河井くん、あなたが確かめて」
「ええっ!?」
僕が混乱している間に、陽香さんは僕の鼻先に、ふっ、と吐息を吹きかけてきた。
美女の吐息が、僕の鼻先をくすぐる。
生暖かさと、むずむずした感触は、これはこれで癖になりそうだ。
これが、ちょっと遠慮願いたい臭いがするようだったら、ピュアでナイーブな僕としては幻滅ものだが、陽香さんの吐息は甘い香りがしたのでおかわりを所望したい気分だ。
そして案の定、アルコールの匂いが強かった。
まあ、当然といえば当然だ。
目の前でガッツリとビールを飲んでるわけだし。
やっぱり陽香さんは、酔って正気を失っているらしい。
「んふふ、どう?」
「……陽香さん、もう帰りましょう。このままじゃ陽香さんは今日だけで黒歴史を量産してしまいます」
「あっ、怖気づいたんでしょ?」
「もうそういうことにしてくれていいですよ」
本来僕は、ここまで受け流せるほど大人じゃない。
これに乗じて、陽香さんがもっとエスカレートしてさらなるえっちイベントに遭遇できる期待だってあった。
でも、陽香さんと関わろうと決めたのは、困っているらしい陽香さんを僕なりに助けたいと考えたからだ。
そこはおふざけじゃなくて、僕なりの純粋な誠意があったわけで、欲にまみれて台無しにするわけにはいかない。
僕には若さゆえのいい加減さと自分勝手なところだってあるけれど、誰に言われて決めたわけではない綺麗で正直な気持ちだって大事にしているのだから。
「ほら、陽香さん、帰りましょう。お代は僕が建て替えておきますから」
「え~、もっと飲みたい~。河井くんをいじりたい~」
「僕に構おうとしてくれるのは嬉しいですけどね。でも、怖い陽香さんは苦手だけど、媚びないカッコいいところも好きですから。朝起きた時に恥ずかしい思い出に悶え殺されてしまわないように、今日はこれでお開きにしましょう」
納得していない様子の陽香さんは、なおもグズる。
それでも店の外まで引っ張ってタクシーを拾い、どうにか帰宅できたのだった。
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