第9話 陽香さんからのお誘い その1

 その日、僕は困っていた。


「うーん、それじゃ昨日と同じだよなぁ。栄養のバランスは取れてるけど、毎日似たような味だと飽きるし……」

 

 それまでずっと実家ぐらしだった男が、急に一人暮らしになった時の弊害はこんなところにある。


 毎日の献立決めるの、ちょうめんどくさい。


 僕は、アパート近くのスーパーに来ていて、食料品コーナーでうろうろしながら悩んでいた。

 食材がいっぱいある場所にいれば、何かしらのアイディアが湧いてくるかもと期待してやってきたわけだけれど、あいにく何も思い浮かばない。


 ピカピカすぎて鏡みたいになった床を見つめながら悩んでいると。

 目の前の床が、黒いタイツの二本脚を映し出していた。


 このなだらかな脚線美が美しいふくらはぎ。その奥に伸びる、関心を誘い込むような見事な太ももの持ち主は、決まっている。


「あら? 河井くん?」


 仕事帰りらしい陽香さんである。


「先生も、今帰りですか?」

「ええ。ちょうど冷蔵庫のストックが尽きてた事に気づいて寄ったの。河井くんも?」

「僕の場合は、献立を決められなくてつい来ちゃいました」


 僕は、一人暮らしキャリアが浅い高校生がどれだけ毎日の献立に苦心しているか伝えた。


「わかるわ。私も、大学に進学して初めて一人暮らしを始めた時はそうだったから」


 陽香さんが、大学時代の思い出の一部を語る。

 その時の陽香さんは、教室で見かけることのない柔和な顔をしていた。


 やはりこちらの方が、彼女の素の姿なのだろう。


「ごめんなさい。長話をしたわ」

「いえ、参考になりましたよ。陽香さんも同じようなことで悩んでたとわかって、安心しちゃいました」


 陽香さんは、ふと考える仕草をすると。


「……ねえ、河井くん。あなた、自炊するのは健康のため?」

「いえ、そんなストイックには生きてませんよ」


「それなら、たまには外食なんてどうかしら?」

「なるほど。駅前にはファストフード店がいっぱいありますもんね。うーん、それも一つの手ではあるか」

「そうじゃなくて」


 陽香さんは、心なしかもじもじしていた。


「近くに、いい店があるの。もちろん、あなたみたいな学生でも入れるお店なんだけど。そんなに献立に悩んでいるのなら、一緒にどうかしら?」


 まさかのメシのお誘い。

 これは、言ってみればデートに近しいことで、僕は興奮してしまっていた。


「ぜ、ぜひ!」


 前のめりになって、僕は言った。


「あっ、でも陽香さんと二人でいるのを学校の人に見つかりでもしたら……」


 僕と陽香さんがお隣さんなのは、みんなには秘密だ。

 どこに人の目があるかわからないから、二人で食事をするのは都合が悪いように思えた。


「大丈夫よ。これまで一度も同僚と遭遇したことがないし。隠れ家的なところだからね」

「隠れ家的!」


 僕は興奮してしまった。


 だって、とっても美人な大人の女性が知っている隠れ家的な食事処だよ?

 きっと、僕には想像もつかないおしゃれな場所に決まっている。


 そんな、大人の社交場に陽香さんと一緒に洒落込む。

 まかりまちがえば、僕も今夜にでも大人の仲間入りができてしまえるかもしれないのだ。


「陽香さん、ヤバいですよそれは。メインディッシュにいたいけな高校生をいただいちゃおうってことですかぁ?」

「またあなたは気持ち悪い想像をしているのね。いいわ、この件はなかったことにして。家でカップ麺でもすすっていなさい」


「ウソですよ! ほら僕ってまだ十代なんで! イタいことの一つや二つ、息をするようにしちゃうものなんですよ!」

「あなたの場合、若さを都合よく免罪符に使っているようにしか見えないけれど」


 呆れる陽香さんだけれど、怒っているようには見えなかった。


「余計なことを言わないと約束できるのなら、連れて行ってあげるわ」

「言いません! 余計なことは言いません! だから先生とおしゃれバーに、ぜひ!」

「おしゃれバー?」


 僕は興奮しすぎて、陽香さんが怪訝そうにしたことすら気づかなかったんだ。

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