第8話 陽香さんが勝手に仕掛けてきた勝負 その2

 陽香さんはコツを掴んだようで、リズミカルに耳かきを上下に動かしていく。


 陽香さんは、学校での仕事を終えた足で僕の部屋にやってきた。


 彼女本来のものであろう甘い体臭に加えて、爽やかな香水の匂いに、職員室の雑多なにおいやまだ寒さの残る初春の湿った香りが混ざる。陽香さんが生きて生活しているナマっぽい匂いがして、妙な安心感を覚えてしまう。


 何より、陽香さんの膝の柔らかさ、これが絶妙なのである。

 人を駄目にする膝だ。


「あら? 眠くなっちゃった?」

「多少……ほら、僕って真面目な生徒ですから、昼間は一生懸命授業聞いて勉強してるんで」


「私だって、真面目に仕事してるんだけど?」

「それは知ってます。真面目すぎて心配になるくらい……だから、今みたいなおふざけ感全開な陽香さんを見てると安心します」


 マズい。本格的に睡魔が僕の首を狩りに来た。物騒だな、睡魔。眠りが永久になりそう。


「……河井くん、眠たかったら寝ちゃっていいわよ。あとのことは私がやっておくから。戸締まりはもちろん、あなたに毛布を引っ掛けてあげるわね」

「はぁい、そうします」


 僕は、安心して目を閉じ、眠りにつこうとする。


 ぐぅぅぅぅぅぅ。

 悪魔の森の奥深くで遠吠えを上げる魔獣が現れたのかと思った。


「な、何事!?」


 怖くなって慌てて目を開けた僕の目に飛び込んできたものは、白い肌を真っ赤にして顔を背ける陽香さんだった。


「ゆ、夕食がまだだったから……」


 どうやら陽香さんのお腹が鳴った音だったらしい。


「き、聞かなかったことにしてちょうだい!」


 陽香さんは、耳かきを放り出して両手で顔を覆ってしまう。


「生理現象ですし、陽香さんがお仕事帰りでお腹が減っていることくらい僕だって百も承知ですから、恥ずかしがらなくたっていいんですよ」

「でも、生徒の前だから!」


「陽香さん、言ったじゃないですか。僕の前では、教師だとか教育者だとかクール系えちえち爆乳教師だとかそんなアイデンティティにこだわらなくたっていいんですよ」

「クール系えちえち爆乳教師なんてアイデンティティを持った覚えはないわ。いい加減なこと言うと耳の穴から血を流させてやるわよ?」

「ひいっ、すみません……」


 耳かきを拾い上げて、グーで握ってこちらに向ける陽香さんからは冗談ではない本気の雰囲気を感じた。


「いや、お腹が鳴ったことを気にしてないのは本当ですからね?」

「……でも、家族以外の誰にも聞かれたことないのに」


「わかりました。陽香さんは完璧でいようとしすぎるんですよ。こう考えましょう」

「どんな?」


「僕のことは、こう考えてください。いざ本命カノジョといい感じになった時に慌てないで無事コトを終えられるよう練習台として付き合っている踏み台カノジョみたいな人なのだと」

「例えは最悪だけど、なんとなくわかるわ。わかっちゃう自分が嫌になるけれど」


「つまり、気を遣わなくていいんですよ」

「初めからそう言えば?」


「冷たい視線。そうです、それです。いっそゴミムシみたいに扱えば良いんです!」

「いったい何をヒートアップしているの?」


 まじキモい、という視線を向けて、身を捩る陽香さん。ちなみに僕は未だに陽香さんのお膝を枕にしている。こいつは冬場のこたつくらいやみつきになってしまうから嫌と言われるまで離れたくないのだ。


「でもそういうことなら、お望み通りにしてあげるわ。教室の私と同じようにね」

「それは違いますよ。確かに僕は雑に扱う気持ちでいてくれとは言いましたけど、教室の陽香さんとは違いますよね? ちょっと厳しくしすぎちゃうだけで、生徒のためにやってくれているのが教室での陽香さんですから」

「…………」


 陽香さん、呆気に取られたような顔をしている。

 ただのアホかと思ったら、という顔だ。僕だって、僕なりに陽香さんの力になろうとはしているのだ。


「……あなたがどう解釈しようが勝手だけれど、教師として責任感を持って生徒と接しているのは確かね」


 言質が取れた。やはり陽香さんの女帝キャラは、生徒を思ってのものらしい。


「だからこそあなたは生徒以外の何者でもなくて、それは学校の外でも中でも変わらないわ」

「生徒だからダメなんですか? じゃあ生徒じゃなくて恋人にでもなっちゃいますかぁ~?」


 ちょっとしんみりした場を和ませてやれって気持ちでおどけてみせたんだ。


「…………」


 でも陽香さんが、頭上にボンと煙を吐き出しそうな勢いで真っ赤になっちゃうから、僕としても困ったことになる。


「返事してくださいよ。……冗談じゃなくなっちゃうじゃないですか」


 思いもよらぬウブな反応に、僕の方が体中熱くなっちゃう。


「と、とにかく! 陽香さんは遠慮したり、変にカッコつけたりしないで気楽にしていてくださいってことを言いたいんですよ!」

「そ、そう。わかったわ。あなたの前では力を抜くと決めたんだものね」


 陽香さんも、お腹が鳴った音を聞かれた以上に恥ずかしくなったようで、納得してくれた。


「……でも、お腹が鳴ったことは、誰にも言わないでね」


 僕の耳元に吹きかけるように、恥ずかしそうにつぶやく陽香さん。


 誰にも言うな? 当たり前である。

 こんな可愛らしい陽香さんのことは、誰とも共有したくない。


 クラスのみんなに知っておいてもらいたいのは、陽香さんは厳しいだけでみんなのことが憎くてあんなことをしているわけじゃないんだよ、ということ。


 僕だけに見せてくれる可愛らしいところは自分だけの思い出にしておきたい欲張りな僕である。


 そして、陽香さんが仕掛けてきた勝負は、耳に気持ちいいことをしてもらった僕の勝利に終わった。

 そんなことに気づかない陽香さんは、お腹が空いたから、と部屋へと戻っていくのだった。

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