第7話 陽香さんが勝手に仕掛けてきた勝負 その1

 そんなことがあった日の夜。

 アパートの、自分の部屋にいた時だ。


「河井くん?」


 インターホンが鳴って扉を開けてみると、陽香さんがむすっとした顔で仁王立ちしていた。


「どうしたんです? あ、先生は今学校から帰ってきたんですよね? お疲れ様です」

「私、負けたと思ってないからね」


 ムッとした顔のまま、陽香さんが言う。


「なんのことですか?」

「今日のことよ」

「今日のこと?」

「……私の、手」


 陽香さんが腕を差し出してきたように見えたので。


「ああ、こうして手を繋いだことですね」


 すっかりクセになっちゃったのかなぁ、と思った僕は、親切心で陽香さんの手を握り返した。


「ひゃんっ!」


 露骨に、びくんっ、と体を震わせて、陽香さんが飛び上がる。


「いきなり何するの!」


 憤慨した様子で僕を咎めてくる。


「いや、てっきり手を繋ぐことがクセになってるんじゃないかと思って」

「クセになんかならないわよ。負けた悔しさがあるから」


「別に勝ち負けを決めていたわけでは」

「生徒に負けるわけにはいかない!」


 陽香さんはむっとした顔のまま、僕の部屋に上がり込んでくる。


 そして、ワンルームの部屋の中央に正座をしたと思ったら。


「河井くん。ここへ来なさい」


 ずいぶん上からくるけど、家主は僕なんだけどなぁ、なんて不満を口にできる雰囲気ではなかったので、言われた通り陽香さんのもとへ向かう。


「ここに頭を乗せなさい」


 人の家でとても偉そうな陽香さんが指さしたのは、自らの膝だった。


「どうしてです?」

「当然。膝枕であなたを打ち負かすためよ」


 膝枕。


「えっ、陽香さんが僕をですか?」

「だからそう言ってるでしょう。早くしなさい。私はこんなものまで用意しているのだから」


 得意げな陽香さんが、胸ポケットからシャキンと何かを取り出す。


 耳かきだ。


「これであなたの耳をほじり散らかしてあげるわ」


 片手に耳かきを手にした陽香さんは、それを指先でくるくる起用に回すと、膝を手のひらでパンパンとやる。


「だから、さぁさぁさぁ!」


 ぱぁんぱぁんぱぁん、とすごくいい音が膝から響く。


 陽香さんの脚はほっそりして見えるけれど、それはいつも履いている黒タイツのおかげもあり、実は太ももはわりと肉感的でむっちりしている。けれど陽香さんは身長があるから、スタイルの良さが崩れるほど太くは見えない。絶妙な太さだった。


 そんな陽香さんの脚を枕にできる。

 あまつさえ、耳をほじりくさってくれる。


 普通なら、後先考えることなく飛び込んでもおかしくない場面。

 しかし、だ。


 ここで誘惑に乗れば、僕の負けは必定。

 先生になんか、負けてたまるかよォ!


 い~や、待てよ。


 勝負勝負と言っているのは陽香さんで、別に僕はお互いのどちらかを照れさせたりドキドキさせたりした方が勝ち、という類のゲームをしているわけじゃない。


 僕はただ、陽香さんの息抜きの手伝いをしたいだけだからね。


「では、お言葉に甘えて」


 僕は、いやぁすいませんねぇへへへ、なんて顔をしながら、揉み手で陽香さんのもとへ寄って行って、肉枕のご相伴に預かる。


「そう。素直になるのは、いいことだわ」


 素直になるべきは陽香さんのはずなんだけどな。

 まあいいや。今は、めくるめく快楽の耳かきを堪能したい欲望の方が勝ってしまっているのだから。


「陽香さん、最近僕は耳掃除をした記憶がないんです。だからあんまり僕の穴見ないでくださいね」

「嫌。たっぷり見てあげるわ」


「わっ、眩し」

「スマホのライトで耳の穴の奥も照らしてあげるわね」


「異常過ぎる耳くそ掃討大作戦へのこだわり……そうか、陽香さんは僕の耳くそまで粛清しようっていうんですね」

「だまりなさい。鼓膜を傷つけることになるわ」


「いや、だとしたら下手にもほどがあるでしょ……」

「仕方ないじゃない。自分ですることはあっても、人にしてあげるのなんて初めてなんだから」


「陽香さん、よければ今の言葉、もう一度言ってくれませんか?」

「わかったわ。そんなに鼓膜を貫いてほしいのね」

「やめてくださいよぉ。僕の耳処女奪わないでよぉ」


 僕は、ついついすんすん泣きそうになっちゃう。


「あなた、可愛い顔してるくせに意外と気味が悪いのね。今までモテなかった理由がわかると言うものだわ」

「それを言われたらもう何も反論できないですよ。もう大人しくしてます」

「そうしなさい。じゃ、お掃除するわね」


 陽香さんはおもむろに僕の穴に棒を差し込んできた。


 棒の先が穴の側面をこりこりと削り、僕はそのそわそわした感触に思わず身震いをしそうになった。


「んんっ、あふぅ……」

「あらあら、河井くんったらそんなに耳をお掃除されるのが好きだったの?」

「しゅきぃ」

「呂律も回らなくなっているようね」


 一旦耳かきの手を止めた陽香さんは、僕の耳元に唇を寄せると。


「自分でするのと、私にしてもらうの、どちらの方が好きかしら?」

「その答えはもちろん……陽香さんにしてもらう方です!」


「じゃあもうあなたは私ナシではロクに耳かきもできないということよね?」

「そうかもしれません。人にしてもらう気持ちよさを知ってしまったら」


「それなら、今日の勝負は私の勝ちね」

「もうそれでいいですよ」


 そもそも僕は、勝負なんかしていないわけで。

 陽香さんが勝手に言い出したわけで。


 でも、僕は負けた気がしなかった。

 美人教師に秘密の耳かきレッスンをしてもらったのだ。


 ぶっちゃけ、僕の勝ちという解釈まである。

 それからは、何の変哲もない普通の耳かきが繰り広げられた。


 しかし僕だけ気持ちよくなっているだけの絵面の、いったいどこに需要があるんだ?


「はい、河井くん。次は反対の耳。ごろんってしなさい」

「陽香さんのお腹がある側に顔を向ければいいってことですか?」

「わざわざどういう状況かわかるように言わなくたっていいわ。ほら、早く」


 僕は言われた通り、体の向きを変える。


 目の前に広がる、陽香さんのお腹。

 このお腹の向こうには、いつか陽香さんそっくりな赤子様が鎮座まします予定のお部屋があるんだよなぁ。


「ん? 今、気持ちの悪いこと考えなかった?」

「いいえ。未来に思いを馳せていただけです」

「そう。これ以上は訊かないことにするわね。怖いから」


 うーん、あんまり陽香さんを不安にさせるのは本意じゃないんだけど、ついつい頭に浮かんじゃう。


「じゃあ、またじっとしててね」


 そして再開される耳穴ダンジョンから宝物をハントしてくるトレジャー。絶対配信してほしくない冒険である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る