第6話 新しい学校生活

 翌日。


 授業中はいつものように、厳しい先生の独壇場が展開されていた。


 恐れるクラスメイトには悪いけれど、僕は以前ほど恐怖を感じることはなくなっている。


 それはもちろん、お隣さんとしてのプライベートな氷屋間先生……いや、陽香さんの姿を知っているからである。

 匂わせしちゃおうかな、なんて考えてしまう余裕すらあった。


「河井くん、何がおかしいの? あなたたちの将来に関わる大事な話をしているのだけど?」


 気がつくと、陽香さんが目の前にいて、険しい顔をしている。


 そうだ。何を浮かれているんだ。僕と陽香さんの関係は、他のクラスメイトにバレてはいけない絶対の秘密なのだ。


 僕の目的は陽香さんの負担を少しでも減らすこと。

 僕と陽香さんが、学校外で関わりがあることを、みんなに悟られてはいけない。


「いえ、なんでもありません」


 背筋を伸ばして、僕は言った。


「そ、そう。それならいいのだけれど」


 ちょっと気合を入れすぎたのか、むしろ不自然な感じになってしまった。

 気をつけよう。陽香さんに迷惑をかけないように……。


 ★


 その日の昼休み、僕は国語科の準備室に呼ばれていた。


 僕の目の前には、陽香さんがいた。


「どうしてここに呼ばれたのか、わかる?」


 陽香さんは、腰に手を当てて、僕を咎めるような顔つきをする。

 以前の僕なら、これだけでもビビり散らかしていたところだけれど、今は違う。


「すみません、授業に挑む態度じゃなかったですよね」

「そうよ。ちゃんとするところはしてもらわないと」


「先生の息抜きどころか、邪魔しちゃうことになっちゃいますもんね」

「先生、じゃなくてもいいわ」


「えっ?」

「今は他に誰もいないのだから、この前みたいに下の名前で呼んでも構わないと言っているの」


「いいんですか?」


 すると先生は、いじけたような視線を向けてきて。


「河井くん、私をその気にさせておいて、やっぱりナシだなんて言わないわよね?」

「そ、そんなことは! ……ていうか陽香さん、案外楽しみにしてくれていたりします?」


「は?」

「いやぁ、冗談ですよ……」


 女帝の顔が戻ってきて、僕は肝を冷やす。


「あなた、私に息抜きをさせると約束したのでしょう? だったら徹底なさい」


 陽香さんは実に真剣な形相で迫ってきて、僕は気圧されてしまう。


「私は中途半端が嫌いなの」

「わ、わかりました……」


「じゃあ試しに、今やってみせて。あなたが口先だけじゃないと証明するためにもね」

「今ですか?」


「そのために呼んだのよ」


 僕は、少し甘く考えすぎていたのだろう。


 あくまで想定していたのは、陽香さんの話し相手になる程度のこと。

 けれど陽香さんは、それでは物足りないらしい。何かしらのイベントを起こすことを期待している様子。


 困った。

 でも、僕が自分から言い出したことで、陽香さんと約束したんだ。

 何も出来ませんで済ませるわけにはいかない。


「わかりました。陽香さん、手を繋ぎましょう」


 果たしてこれで陽香さんが納得してくれるかはわからないけれど、やる気がある誠意だけでも伝えておきたかった。


「……わかったわ」


 陽香さんは、もじもじしながらも納得してくれた。


「よ、よろしくお願いするわ」


 まるで交際のお願いでもするみたいに、おずおずと陽香さんが手を差し出してきたので、僕はそれをそっと握り返す。


「――――!?」


 声にならない声を上げた陽香さんは、真っ赤になってしまう。

 なんて不慣れなんだろう。

 ちょっと手が重なっただけだぞ。


 妙にウブな陽香さんの反応を前にして、僕は強気になってしまった。

 僕は、弱き者には強気に出られる勇気を持っているから……。


 このままにぎにぎしちゃえ。


 陽香さんの手を感触を味わうように、むにむにと優しく指を動かす。


「――んっ!」


 跳ねるような陽香さんの甘い声が、口元から漏れる。

 そんなにも触られることに耐性がなかったのか。


 教室では見せない陽香さんの姿にドキドキしながらも、ちょっと心配になった。


「あの、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫に決まってるでしょ! 生徒と手を繋いだくらいで……なんとも思わないんだから!」


「じゃあ、まだ手を繋いでいていいんですよね?」

「あ、当たり前じゃない!」


 今の陽香さんに必要なのは、強がって自分を大きく見せることじゃない。

 自分に素直になることだ。

 自然体でいられるようにならないと、陽香さんの精神的負担は減らないのだから。


 手を触られるのは苦手なの、と正直に言えるようになるまで、刺激を強めていった方がいいのかもしれない。


「今度はちょっと違う触り方しますね」


 自分の手のひらを陽香さんの手のひらとこすり合わせるようにしてすりすり動かす。

 触れるか触れないかの部分でこするような感じだ。


「ん……あっ、ふうぅ……」


 さっきよりずっと媚びるような声が漏れた。

 まさか陽香さん、手のひらが性感帯だったりするのかな?


「じゃあ、今度は両手で」

「今のが……二倍!?」

「ええ。つまり倍もお得なんです」


 よくわからないことを言いながら、僕は陽香さんの両手を包み込むようにして握った。


 傷つき地面に倒れた小鳥をそっとすくい上げるような、繊細な手付きで。


「たしかに、これは倍気持ちいいわね……」


 陽香さんは、そんなことをつぶやくのだが、目はすでにとろんとしていて、焦点が定まらない感じになっている。


 僕が陽香さんの手に触れていた時間はそう長くはない。

 けれど短い時間で陽香さんの体力は一気に消耗したようだ。

 脚がふらふらの陽香さんは直立できず、バランスを崩して前のめりになってしまう。


「あっ、危ないですよ」


 咄嗟に僕は、陽香さんが床と正面衝突してしまわないように受け止める。

 正面から抱き合うような格好になった。


「……ごめんなさい、河井くん」


 途切れ途切れとした陽香さんの声が、吐息になって僕の耳元をくすぐる。

 なんてことだ。生ASMRである。やはりナマは最高だ。


「気にしないでください。それに、今の陽香さんは教師だと肩肘張らずにだいぶ自然体に近づいたと思いますよ」


 教師が生徒の前で見せていい姿じゃなかったからね。


「いいえ? 私はまだ、教師という自覚はきちんとあるわ」

「えっ?」

「だから、調子に乗ってもらったら困るわね」


 この期に及んで強気になりますか。


「でも、なんかへろへろだし、僕が支えてないと立てない状況じゃないですか」

「そう。いつまで抱きついてるの。すぐ離さないと粛清するわよ」

「す、すみません」


 粛清は怖い。だから僕はすぐ離した。

 未だに、粛清がいったいどんなものなのか、僕にはわからないけれど。


「あの、粛清っていったいどういうことをするんですか?」

「訊きたい?」


 すっかり調子を取り戻した陽香さんは、唇に人差し指を当てて微笑む。

 その姿は妖艶で、だからこそ底しれぬ怖さを感じた。


「やっぱりいいです」

「そう。それが賢明だわ。これからはあまり無遠慮に女性を詮索しないことね」


「それ、女性かどうか関係あります?」

「あら? また詮索する気?」


「滅相もないです」


 これ以上深入りして得することはなさそうだ。


 結局陽香さんは、完全には教師としての顔を手放すことをしなかった。

 やはり陽香さんは、強情がすぎるのかもしれない。

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