第5話 抜きフレの始まり
先生が暮らしているという二階建てアパートにたどり着いた時、僕は呆然としてしまった。
「えっ……ここが先生の住んでる部屋ですか?」
「そうだけど? どんなところに住んでいると想像していたのか知らないけれど、独身の若手教師が住んでいるのなんて、だいたいこの程度の部屋よ。県立校のお給料なんてたかが知れているんだから」
「いえ、別にお家賃手頃なアパート住まいなことに文句はなくてですね……」
そんなことは、まったくどうだっていいことだ。
「先生、僕の隣に住んでたんですね」
「えっ? じゃあまさかこの部屋って河井くんが住んでたの?」
「はい。表札を出しているわけじゃないので、わからなかったと思いますけど」
「そう、知らなかったわ。まあ私も、あまり個人情報を知らせたくなくて付けていなかったけれど」
なんと、先生は僕のお隣さんだったのだ。
入学して以降、色々バタバタしていて気づかなかった……。
「おじゃまします」
先生を連れて、先生の部屋に初めて足を踏み入れる。
クラスで圧政を敷く先生のことだ。
女性らしいアイテムや家具はいっさいなく、なんなら拷問器具や用途不明の凶悪そうな道具の数々が陳列されているのではと不安だったのだが。
「あの、先生」
「私の部屋の感想は禁止」
「あ、はい。でも、意外だなぁと思って」
そう、想定外だった。
先生の部屋は中世の拷問部屋みたいな戦慄の空間なんかでは決してなかった。
いい匂いがするのはもちろん、鏡台の周りには化粧品があって、ベッドがあるのは僕の部屋と同じだけれど、多くのぬいぐるみが占拠している点が全然違う。教師らしくないグッズが目立つけれど、今はまあいいだろう。
身近な感じがして、なんだか好感が持ててしまうし。
「可愛いもので溢れてますね」
「だから言うなと言ったでしょう?」
首をぎりりとスリーパーホールドで締められてしまう。
「す、すみません! でも……可愛い部屋に住んでる先生は好きって言うか」
「か、可愛い!? ――痛っ」
「わ、すみません!」
急に先生が暴れ出したので、手から離れてしまった。
尻もちを着いたままこちらを見上げる先生に手を差し出すと、僕の手を跳ね除けることなく握り返してくれた。
「いいのよ。……まさか生徒から『可愛い』なんて言われると思ってなかったから」
でも実際可愛いですよ、と心の中で思ったけれど、また先生の機嫌を損ねたらコトなので黙ることにする。
「生徒じゃなかったら、いいんですか?」
「良くないわよ。どうしてあなたに可愛いなんて言われなきゃならないの? ナメてるの?」
「い、いえ、ナメてません……」
所々女帝の顔を出してくるから怖いんだよなぁ。
「まあいいわ。今日はあなたが何を言っても許してあげる。私が無事に帰って来られたのは、河井くんのおかげだから」
「いえ、僕はたいしたことはしていませんよ」
「あれがたいしたことじゃないのだとしたら、何がたいしたことになるの? あなたは身を挺して人助けをしたのだから、もっと誇っていいのよ」
先生は真剣に褒めてくれているのだろうけれど、教室で見せる圧が少し出てしまっていて、僕は身震いしそうになった。
「でも、あなたを危険に巻き込んでしまったのは、私が不注意だったせいもあるから、それは本当にごめんなさい」
そう言って、先生は頭を下げた。
生徒であるはずの、僕にだ。
氷屋間先生は、別に理不尽な暴君なんかじゃなくて、想像よりずっとちゃんとした大人に違いない。
それがどうして、教室ではあんな怖がられるような振る舞いをしているのか、僕にはわからなかった。
「先生、あの」
僕は放っておけなくて、つい口を挟んでしまう。
でも、それが氷屋間先生のためになると思ってしまったんだ。
「先生は、教室でも、今日みたいな感じでいた方がいいと思うんですよ。……だっていつもの先生は」
「私が怖いとでも言うの?」
「……氷屋間先生は、もっと親しまれるべき人だと思ったんです。僕には、今の先生の姿こそ本当で、教室での先生は無理をしているんじゃないかって思うんです」
「河井くん。今日は本当に助かったけれど、だからといってなんでも言ってわけじゃないわ。私は教師として、自分なりのやり方があるの。生徒にどうこう言われる筋合いはないわ」
確かに、その通りではある。
氷屋間先生は教師として仕事をしているわけで、たんなる生徒でしかない僕が、仕事のやり方に注文をつけるのはおかしなことかもしれない。
でも、所々氷屋間先生が垣間見せる可愛らしい部分は、彼女が血も涙もない人間ではないことの証明に思えた。
実はこちらの姿の方が素に近いのであって、僕らに見せている女帝の姿は、実はキャラづくりをしている結果なのではないか?
だとしたら、先生はずっと無理をしてきたということになる。
その疲労は、相当濃いはず。
「わかりました。先生にも事情があるんでしょう。今は深く追求する気はありませんし、今後氷屋間先生のやり方に注文をつける気もありません」
だから、と僕は続ける。
「学校じゃない場所で、先生じゃない時の先生でいる時だけ、今のままの感じでいてください」
「……どういうこと?」
戸惑いながら、先生が訊ね返す。
「氷屋間先生には、仕事のガス抜きというか、息抜きが必要だと思うんです」
「…………」
「そのお手伝いを、僕にさせてくれませんか?」
先生はしばらくの間、黙っていた。
「あなた、私がそんなに疲れてたり無理をしてたりするように見えるの?」
「見えます」
圧を掛けてくる先生に負けることなく、まっすぐ僕は答えた。
ここは、譲ってはいけない一線だと思えたからだ。
「僕は、先生が誤解されたままでいてほしくありません」
「生徒のくせに、生意気ねえ」
「氷屋間先生の生徒だから、心配してしまうんですよ」
「……別に、私は疲れているとか、仕事を嫌々やっているわけではないけれど」
そして、僕の方をしっかりと見つめ。
「私の生徒になったばかりのあなたに、そこまで心配されるくらいなら、少しはあなたの言い分を聞いたほうがいいのかもしれないわね」
「先生……! ありがとうございます!」
「どうしてあなたが感謝するのよ」
くすりと先生が笑う。
「それと、言ったそばから先生呼びはマズいんじゃないの?」
「そうですね! じゃあ、氷屋間さんって呼んだ方がいいですか?」
「あなた、私のことは氷屋間先生と呼んでるでしょ。それだと学校にいるのと変わらないじゃない」
これは……まさか名前呼びをしろというのだろうか?
これまで異性を名前で呼んだことなんてないというのに、まさか初めての名前呼びが女帝相手になるとは。
でも、自分で言い出したことだ。
ここは、責任を持つべきだ。恥ずかしがってなんかいられない。
「……私、下の名前は『
不安そうな顔で、先生が教えてくれる。
まるで、覚えてくれてないの? とでも言いたげだ。
「お、覚えてます! 先生の下の名前はちゃんと覚えてますから! ええ、陽香さんってこれからは呼びます!」
「そ、そう……」
すると先生……いや、陽香さんはうつむいてしまい、頬がほんのり上気して見えた。
「私、身内以外の男の人に下の名前で呼ばれたの、初めてかも」
男の人……僕は成人すらしてない単なる男子でしかないんだけど。おまけに、童顔なせいで身内からはよく、実年齢より子供っぽいだなんて言われる始末だ。
でもまさか、美人の陽香さんにそんな秘密があったとは。
「わ、私、中高と女子校で、そのままのノリで大学生になったから、あまり異性と触れ合う機会がなくて!」
止せばいいのに、言う必要のないことまで暴露してしまう陽香さん。
「だから……たとえ生徒からでも、名前呼びをされると緊張するわ……」
瞳を潤ませてしまう陽香さん。
実は異性にすごく不慣れな人だったんだなぁ。
「い、いえ、こちらこそ、よろしくお願いしましゅ……」
そう。
僕だって、今まで異性と深い仲になったことはない。
こんな素の陽香さんを見せられたら、今度は僕の方がどうしていいかわからなくなってしまう。
「僕も実は、こうして女子のお部屋にお邪魔するの初めてですから」
陽香さんとバランスを取ろうとする気持ちが、僕に余計なことを言わせた。
「そ、そう。じゃあ初めて同士なのね」
「はい、初めて同士です……」
その後しばらく、2人揃って頭から湯気が出そうな状況でお見合いするはめになってしまった。
ようやく平常心を取り戻した時、すっかり夜中近くなっていた。
「わ、こんな時間! 陽香さん、じゃあ今日はこれで失礼します!」
これ以上女性の一人暮らしの部屋にお邪魔するわけにはいかない、と慌てて玄関へ向かう。
「ま、待って」
慌てて陽香さんも玄関まで追いかけてくる。
一体、どうしたというのだろう。
「明日、また学校で会いましょう」
背筋がピンと伸びた、凛とした振る舞い。
そこには、さっきまでのふにゃりとした姿はない。
学校で見かける姿と同じようで、それでいて少し雰囲気が柔らかい、なんともいいバランスの陽香さんが立っていた。
「はい、先生。また明日」
僕は頭を下げる。
「明日から、息抜き友達……抜きフレとして、よろしくおねがいします!」
「何そのいわくありげな略称。粛清するわよ」
「ひっ! やだな、ちょっとしたおふざけですよ……」
「あなたの提案には乗ったけれど、だからといって調子に乗って教師を困らせないことね」
女帝の顔が戻ってきた。
しばらくの間は、怖い女帝としての陽香さんの顔になるのを如何に回避するか苦心することになりそうだ。
「じゃあ、今度こそ僕はこれで!」
自分の部屋へと戻る僕の足取りは軽かった。
明日出会う陽香さんは、女帝である氷屋間先生だというのに。
「……話せばちゃんとわかってくれる人だってわかったから、安心したのかもしれないな」
もはや陽香さんは、意味不明な圧政を引く単なる暴君じゃないのだから。
こうして、僕は陽香さんの息抜き友達(抜きフレ)になるのだった。
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