第4話 地味な僕、人を救う

 波乱まみれで始まった新一年生としての生活も、約一ヶ月が経った。


 相変わらず、女帝こと氷屋間先生はとても恐ろしい。

 とはいえ、以前と比べて先生に対する印象が変わった部分はある。


 不思議なことに、氷屋間先生はあれほど無茶苦茶なわりに、担当する国語の授業では実に丁寧でわかりやすい指導をしてくれるのだ。


 特にクラスメイトの間で話題になっていたのは、新しい単元に進んだ時に配られるプリントだ。


 この氷屋間先生お手製プリントは、授業で取り上げる作品や著者について詳細に解説されていて、現代文を苦手としている僕ですら、授業へ挑むモチベーションが上がってしまうほど出来が良かった。


 24歳と教師としては若手ながら、そのスキルは高いのに、教育者としてのやり方を致命的に間違えている気がしてならない。


 だが、高校生になって、気にしないといけなくなったのは氷屋間先生に関することだけじゃない。

 当初想像したよりも一人暮らしは大変で、失敗してしまうことが多々あった。


 ちょうど今も、冷蔵庫の前で頭を抱えている最中だった。


「しまった。冷蔵庫がカラだ。買い物するのをすっかり忘れてた……」


 実家にいる時は、忙しい両親に代わって自分でも家事をしていたから、食材の管理をミスすることはなかったのだけれど、一人暮らしとなると色々勝手が違った。


 身の回りの全部を自分の力だけでやらないといけない環境になったせいで、他のことにまで頭が回らず、うっかりこんな大事なことを忘れてしまうことだってある。


「仕方がない。今日のところはコンビニで買って間に合わせるか……」


 アパートの外へ出た僕は、近場のコンビニへ向かう。


 弁当を買い、またうっかりしてしまった時のためにカップ麺をいくつか買い込んで、アパートへの道のりを歩いていた時だ。


 暗がりの路地で、前を歩く女の人の背中が見えた。


 この辺りは静かではあるけれど、夜になると人通りが少なくなって心細く思う時がある。

 男の僕ですら、そう思うのだ。


 そんな夜道を、女性が一人で歩いて危なくないのかな、などと心配していると。


 僕と、目の前の女性以外に、もう一つの人影があった。

 薄暗いけれど、影のかたちからして男性らしい。


 初めは、たんに進行方向が同じなだけなのかと思ったけれど、女性から隠れるようにして付いていく姿は不審者そのもの。


 ちょうど僕も女性と同じ進行方向だったので、注意深く観察しながら歩いていると、男が突如歩くスピードを早めた。


 外灯の調子が悪いせいか、他の場所と比べても薄暗い場所になった途端にそんなことをしたので、強い違和感を覚えた僕は、男を追いかけて距離を詰める。


 恐れていた通りのことが起きてしまった。


 男は、女性の背後から腕を掴むと、暗がりの路地に引っ張り込もうとした。


 ただ事ではない雰囲気だ。


 目の前でこんなことが起きたら、無視するわけにもいかない。


 僕は、手にしていたコンビニの袋から中身を全部その場にぶちまけ、袋を男の頭に被せて視界を奪う。


「……なっ!?」


 男が動揺しているうちに、僕は男の腕を取って、思い切り背負投げを食らわせた。


 体力づくりのために幼い頃から嫌々習わされていた柔道だけど、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。


 受け身が取れないように投げたおかげで、男は背中からまともに落ちてそのまま気絶してくれた。


 よし、今のうちに警察を呼んでおこう。


「あの、大丈夫でしたか?」


 僕は手早くスマホを操作しながら、脚がすくんでいる様子の女性に声をかける。


「……え、ええ」


 震える声で、女性が言った。

 僕はその顔を見て驚いてしまった。


 だってその見慣れたスーツ姿の女性は、教室でよく会っている、氷屋間先生だったのだから。


「……河井くん、なの……?」


 先生も僕に気づいたようだ。


「そ、そうですけど……いや、僕も氷屋間先生がこんなところにいるとは思いませんでした。あっ、すみません。まさかその人、知り合いだったり……?」

「違うわ」


 生徒の前だからか、女帝として振る舞ういつもの凛とした姿に戻ろうとしていたのだけれど、やはりどこか無理している感じがあった。


 まあ、襲われかけた直後だ。恐怖と混乱が収まらず、いつもの氷屋間先生らしい振る舞いをするのは難しいだろう。


「河井くんが、助けてくれたのよね?」

「ええ、まあ」


 先生はまだ信じられないようだ。


 まあ、僕は小柄で細いから、暴漢をぶん投げられるイメージなんて湧かないだろうしね。そもそもいくら柔道の心得があるとはいえ、普段の僕だったら、何をしてくるかわからない暴漢を相手にこんなことをするのなんて無理。火事場の馬鹿力が働いたおかげで、先生を助けることができたのだ。


「ありがとう。助けてくれて。最近、帰り道でずっと妙な気配を感じて困っていたの。気のせいだとばかり思っていたけれど……まさか本当に付け回している人がいたなんてね」

「いえ、無事ならよかったですけど……」


 先生から感謝されるとは思っていなかったから、今度は僕の方が驚かされた。


 その後、不届きなストーカー男を、やってきた警察に引き渡す。


 色々面倒な手続きがありそうだな、ここは先生に付き添った方がいいのかなぁ、なんて構えていたのだが、やってきた警察の人相手に先生が状況説明を軽くしただけで、犯人を引き取ってパトカーに押し込め、去って行ってしまった。


 さすが氷屋間先生は、優秀で手際が良かった。落ちたコンビニ飯を拾い集めているうちにすべてが終わっていた気がする。幸い、僕の食料もちょっと凹んでいるだけで無事みたいだ。


「そうだ。先生の家ってこの辺ですか? 一人じゃ不安でしょうから送りますよ」


 普段は怖くて近寄りがたい先生だけれど、こんな時だ。

 ここまで来たら、最後まで先生を守り抜くというのが男というもの。


「確かに近くだけれど。河井くん、私が一人で不安そうに見えるの?」


 普段学校で見かける時の圧倒的な圧……は不思議と感じることがなかった。


 今目の前にいる先生は、険しい顔つきこそいつも通りだけど、どこかまとっている空気が普段と違う。


 相手は僕とはいえ、一応助けた恩人なわけだし、ある程度はお手柔らかにしてくれているのだろうか。


「ええ。先生は女性ですし。あんなことがあったあとに夜道を一人で歩かせるわけにもいきませんから」


 だから僕も、思い切ったことを口にした。

 こんなこと、学校では絶対言えない。言ったら粛清を食らうだろうし。


 でも、そこは氷屋間先生のことだから、「生意気言ったから明日学校で粛清」とか言い出しかねないよな、なんて震えてしまいそうになるのだが。


「そ、そう……ありがとう。河井くんは意外と男らしいところがあるのね」


 夜道でもわかるくらい、先生の頬が赤く染まってみえるのだが、きっと僕の気のせい。


 氷屋間先生が、生徒相手に頬を染めることなんて、ありえないに決まっているのだから。


「まあ、こういう時ですからね。じゃあ先生、行きましょう」


 歩き出そうとした時だ。


「待って」

「どうしたんです?」

「……ここでもう少し夜風に当たりたいわ」

「何言ってるんですか。今日はもう早く帰った方がいいですよ。いつまでも犯行現場にいるのは気分が悪いですよね?」


 先生はしばらく、むすっとした顔を僕に向けるのだが、やがてうつむくと。


「……とても恥ずかしいのだけれど、足がすくんで動けないの」


 一段落したことで、かえって恐怖がぶり返してしまったのかもしれない。


「もう少しだけ、待ってくれる?」

「なんだったら、おぶっていきましょうか? 僕はこれでもわりと力がある方なので、家が近くならおぶってお送りできちゃいますよ」

「あなた。それに乗じて教師の体を触ろうというつもりじゃない?」


 疑惑の視線を向けられてしまう。


「ま、まさかそんな恐ろしいこと考えてませんよ!」

「本当かしら?」

「本当です! 純粋な善意で純情な感情です!」


 残りの3分の2下心より先生への恐怖が勝っているので、いやらしい気持ちになるはずがない。


 じっ、と見つめてくる先生。


「……じゃあ、お願いするわ」

「困った時はお互い様ですよ」


 安堵する僕は、先生のそばで背中を向けてしゃがみ込む。

 背中にぴったりと先生の感触がやってくる。


 教室では考えられないようなことをしていても、夜の暗がりのおかげであまり恥ずかしくならずに済んだ。


「こんなみっともないところを見せたのは、教師になって初めてだわ」

「こういう時はしょうがないですよ」


「優しいのね。だからといってテストで贔屓して加点するようなことはしないわよ」

「わかってますよ。先生は教師として凄く真面目な人ですから」


「媚びるのが上手いわね」

「違います。いつも近くで見てるんで、わかるんですよ。僕は一番前の席で、先生の授業を受ける特等席にいますから」


「じゃあこれからは、特別に誰よりも厳しくあなたを指導してあげるわ」

「そんなぁ」


 僕の耳元で、くすっ、と先生が笑ったような気がした。

 笑った? あの女帝が?


 勘違いとは思えないくらい、先生は僕の首元に優しく腕を回してくれている。

 なんだか変な感じだ。


 こんなにも、和やかな感じで会話ができてしまえるなんて。


 今日の先生は妙に素直で、教室で見せるような威圧感や恐怖を感じなくて……なんなら、可愛いとすら思ってしまった。


 いや、きっとおかしいのは先生の方じゃない。


 僕の方だ。

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