第3話 女帝とふたりきりの危機
その日僕は、国語準備室にいた。
氷屋間先生は国語教師なので、授業に必要な資料を教室まで運ぶのを手伝ってほしいのだと言うのだが……本当かどうか怪しい。
もしかして秘密の粛清がこの場で行われるのでは? と恐れていた。
準備室とは名ばかりの、モノで溢れた狭い倉庫のような場所で美人教師と2人きり。
本来ならドキドキしそうなシチュエーションだが、相手が女帝氷屋間とあれば、このドキドキはときめきではなく生命の危険を告げるサインでしかない。
「河井くん、悪いわね」
「いえ、そんな! とんでもございません!」
声を掛けられるだけで足が震えるよ。
氷屋間先生にも悪いと感じる人の心があったんだ、と妙な感心をしてしまった僕は、さっさとこの地獄から逃れるべく、長机の上にあるダンボールを抱えようとした。
「重いから気をつけなさい。こんなところでぎっくり腰になられてもつまらないから」
口ぶりは冷たいけれど、心配する言葉に違いはない。
氷屋間先生の言葉に、ちょっと感動してしまった。
つまりそれだけ、僕にとって普段の氷屋間先生は厳しい言葉を投げかけてくるイメージがあるのだ。
「腰の心配はしないでください。まだ若いですから」
だから僕も少しだけ、調子のいいことを言ってしまう。
「若いからといって、自分の力を過信しないことね」
「はは。先生だって若いじゃないですか」
しまった。年齢の話をするのは粛清の対象か? と僕は冷や汗をかいてしまう。
「そういうお世辞は嫌いだわ。教員生活2年目の24歳なんて、あなたたちからすればおばさんでしょう?」
「そんな。お姉さんですよ」
「教師をお姉さん呼ばわり。あなたは生徒で、私は教師よ? あなた、身の程をわきまえていないんじゃないの? 大きな問題を起こす前に早めの粛清を……」
「す、すみません! 粛清だけは勘弁してください!」
急に女帝の顔になるの、やめてもらっていいですか?
それに粛清を風邪予防感覚で気軽に早めるのもやめてほしい。
油断も隙もない先生だ……やっぱり怖いよ、この人。さっさと用事を済ませてしまおう。
このまま先生と2人きりでいたら、命がいくつあっても足りない。
「ま、まあとにかく、荷物運びはつい最近も経験がありますので、力の加減がわかってますよ」
「どういうこと?」
「引っ越したばかりなので、こういうダンボールが部屋にいっぱいあるんですよ。最近よく荷解きしてるので」
「そう。引っ越しを」
「春から一人暮らしを始めたんです。高校入学した時の親との約束で。でも、親がいない環境だから、ついだらけて色々後回しになっちゃうんですよね」
おかしい。
僕はどうして、恐怖の氷屋間先生相手にプライベートなことをこんなにいっぱい話してしまっているのだろう。
久々の異性との会話だから張り切ってしまっているのか? 相手は粛清が口癖の女帝だぞ? どれだけ会話に飢えていたんだよ。
「高校生で一人暮らし。あなた、思ったより立派ね」
そして、僕の境遇に感心しているらしい先生もまた、どこかおかしい。
てっきり鼻で笑われて、ツバでも吐きかけられるものと思って期待……いや、危惧していたんだけど。
いや、氷屋間先生を常識に当てはめて解釈することがまずおかしいのだ。
これ以上余計なことを考えてしまわないように、さっさと仕事を終わらせてしまおう。
僕は見てしまった。
僕と同じくダンボールを抱えた氷屋間先生は、その胸元が立派なあまり、ダンボールの上にぽよんと乗っかってしまっているのを。
上着を着ているというのに、大きいとわかる胸。
何も着ていないリアルな大きさは、いったいどれほどのものなのか。
おまけに先生ときたら、上着の下に着ているシャツのボタンを結構外しているから、かがみ込むような姿勢になると谷間がなかなか危うい位置まで見えてしまう。
冷徹な先生のことだから、だらしないわけじゃなくて、きっちりボタンを上まで閉めてしまうと胸元がキツくて苦しくなってしまうとかそういう理由に決まっている。
でも、年頃の僕にはなかなか目に毒だ。
自然と、直立するには不都合な事態になってしまう。
くそっ、なにもこんな時に……。
「河井くん?」
「は、はい! すみません!」
「? 早く教室へ運びましょう。ボサッとしていると、授業が始まってしまうわ」
「そうですね!」
「どうしたの?」
ダンボールを抱えた姿勢のまま、その場から動こうとしない僕を不思議に思ったのだろう。先生が首を傾げる。
「いえ、僕はちょっとこのダンボールのすえた臭いが最近お気に入りでして」
「……あなた、妙な趣味があるのね。もういいわ、先に行ってるから。遅刻しないように。遅れたらもちろん粛清だから」
ゴミを見るような視線を向けた先生は、背中を向けて準備室を出ていく。
タイトなスカートのせいで、歩くたびに先生の豊かなお尻が左右に揺れているのが見えてしまう。
「……マズい。余計立ち上がりにくくなっちゃった」
それでも粛清されたくない僕は、前傾姿勢のままダンボールを抱えて廊下を歩くのだった。
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