第六章:生きる苦しみ、死の安らぎ
第57話 マリウス大河を越えて
カインを見捨てて。
クリスティは言われていた通り、法王領から南下していた。街までの距離がどの程度とか隠れねばといったことは考える余裕がなく、砂地をとにかく進み続けた。日が沈んでからは、天幕が無いので仕方なく着衣を敷き布にし、その上で睡眠をとった。陽が昇ればすぐに移動をはじめ、それをもう一日繰り返した。
朝の寒さが和らぐころ。遠方にようやく集落らしき、並び立つ建物の影が見えた。記憶通りならばトリアがあった辺りだ。
だが近付くにつれて目に入ったのは、ラ・ネージュ法王領の兵士や、僧兵達が闊歩する姿だった。さらに奥には見た事もない大型の兵器が鎮座していた。建物は大方が破壊されて崩れかけており、兵士用の天幕は別に張られているようだった。“水の都”トリアの面影はない。クリスティは状況の全てが分かった訳ではないが、恐らくトリアが法王領の軍勢に攻め込まれて占領されたのだろう、ということを理解した。
トリアへ駆け込む事は出来なくなった。二晩を歩き詰めたクリスティには体力が残っていない。幸い、まだ遠方で砂丘の影に隠れているクリスティのことは、哨戒の兵士達にも気付かれていない。
クリスティは、力を失ったようにへなり、としゃがみ込んだ。トリアに置かれている兵器は、投石器や弩砲とも違うものに見えた。あれだけの大きさの兵器が使われると思うと恐ろしい。人死にも相当なものだろう。クリスティは自らが抱えた責任の大きさに震えた。
「……カイン……」
砂の上で、自らの膝を抱え込む形で座ると、その膝に額をぶつける。ラ・ネージュ法王領で、自分を放り投げた後、叫んでいた声を思い出す。いくら強いといっても、あれだけの数を相手するのは難しいだろう。それでも一縷の望みにかけてカインはクリスティを逃がした。ユリアスを止めて、カインを助けることが出来るのは今、自身しかいない。不安を振りはらうように、頭を左右に振る。
「……クリスティ!」
そこへ、背後から突然声をかけられて、クリスティは驚愕した。すぐさま短剣を抜き、振り返って立膝のままで低く構えた。だが、目の前に現れたのは見知った顔だった。
「う、うわ、落ち着いて! 僕だよ」
「ベニー!」
藤色の髪の、元奴隷の少年。今はトリアに居るはずだった。前に見た時よりかなり顔色が良くなっている。
「な、何してるの? こんな所で」
「それは、クリスティも同じでしょ。カインはどうしたの。何で一人なの?」
ベニーが聞いた途端、クリスティの眼からは大粒の涙がぼろぼろと零れた。ベニーはぎょっとした表情を浮かべたが、クリスティには自制が出来なかった。
「ベニー……私、何も出来なくて。カインが、カインが……」
クリスティは泣きじゃくった。ベニーは少しおろおろとしてから、恐る恐る、クリスティを抱擁した。クリスティは、細々と何かを伝えながらも、しばらく泣いた。
クリスティは、ノアで見た真実に関することを簡潔に、そして法王領で何があったのかをベニーに伝えた。ベニーは相当驚いてはいたが、クリスティの言葉を疑おうとはしなかった。
「僕はステラさんの指示で、トリアを占領している法王領軍勢の動向を探ってたんだ。君と同じように隠れていたんだけど、そしたら君が深刻な顔をして一人で走ってきたから。驚いて、声をかけたんだよ」
「ステラは、無事なんだね。良かった……」
目を真っ赤にしたクリスティが、涙に濡れた頬をごしごしと拭いた。
「まずは、僕らの居る前線基地に合流しよう。マリウス大河を越えてリットゥまで行ければ、すぐだよ。大河のせいで、法王領側の侵攻もそこで止まってるんだ」
ベニーの話を聞き、クリスティはごちゃごちゃした頭を整理させようとした。ここから南部に向かう為には、どうにかしてトリアを迂回した後、マリウス大河を超えなければならない。だが大河まで徒歩で移動して、
「大河越えについては安心して。安全な方法があるんだ。まずはここを離れよう」
彼女の憂いを察したのか、ベニーが付け加えて説明した。手を引かれ、クリスティは狼狽えながら立ち上がる。導かれるままに後に付いて行く。
ベニーはマリウス河までの間も、甲斐甲斐しくクリスティの世話を焼いた。自分の食料や水をクリスティに分け与え、夜の間は見張りを務めた。クリスティの心は安定を欠いていたが、ベニーの存在に救われた。
数日後、二人はマリウス大河を越える手前、マリウス大河の下流付近に到着した。この付近は西を聖地レ・ユエ・ユアン、南東を大河に挟まれており、戦力の移動はできないので、法王領側の警戒も薄いようだ。クリスティは、大河とともに目の前に広がる光景を見て、呟いた。
「安全な方法って、これかあ……!」
以前、帝国からエペト・グラムまでの旅で搭乗した船舶が、水面に浮かんでいた。
「実は、前線基地に帝国のお偉いさんが来ててさ。そのために船が用いられて、僕たちも使わせて貰ってるんだ」
ベニーは話し終えると、先に船に乗り込んだ。船上に待機していた船員と話し、何か交渉をしている。クリスティも続いて乗船した。船内には、南部での旅中で面識のある人間が多く居た。以前ともに大砂漠を旅した際の、旅商団の顔ぶれにも再開した。その甲斐もあり、彼らは快く船を出してくれた。一日を船の上で過ごした後、対岸に到着。ふたりはそこからまた数日移動して、前線基地に到着した。
前線基地は、天幕を並べた造りではあるものの、治療所や軍備、司令部といった機能がまとまった施設だった。帝国兵たちとすれ違いながら、ふたりが目指したのは中心に位置する司令部だった。ベニーが司令部天幕入り口の布を捲ると、見覚えのある人物がそこに居た。
「ステラさん、戻りました」
「ステラ!」
クリスティはステラを見つけた途端、堪えきれずに彼女のもとに飛びこんで、抱き着く。
「クリスティ、どうしたの? 久しぶりだね。二年ぶりくらいかな……?」
普段とは明らかに様子の違うクリスティに狼狽えながらも、ステラがそう言った。クリスティは余計に切なさがこみ上げて、胸の内で泣いた。
クリスティ達の傍らに居たベニーが、天幕内に居るもう一人に話しかける。
「殿下、すみません。彼女は……」
「大丈夫だ。構わない」
クリスティはそれを聴いてはっと気付いた。聞き覚えのある声だった。優しく受け止めてくれたステラの胸から顔を離し、身体を捻るようにして振り返る。そこには、優し気に目元を緩めた藍色の瞳の男が座っていた。
「クリフ?」
彼は、軍事大国アロダイトで出会った男性、クリフに間違いなかった。以前出会った際には帽子を被っていたが、今は被っておらず、短い赤毛を見せていた。
「ああ、そうだ。クリスティ。何があった。それに、カインは……」
「クレフェルド殿下!」
ふたりが話している所へ、天幕の外から兵士が割り込んできた。兵士は天幕に入ってから、幕内の空気を見てはっ、と気まずそうにしたが、クリフがそのまま話すように、と命じた。
「北西戦線の状況ですが、アロダイト近辺で交戦中。シャーロット氏が指揮を執り、持ちこたえているとの報告がありました」
「分かった、ご苦労」
兵士は、は、と敬礼をして、すぐに天幕から去って行った。クリスティが状況を理解できずに困惑していると、察したクリフが、口を開いた。
「クリスティ、黙っていてすまない。私の本当の名は、クレフェルド・エルムサリエ。エルムサリエ帝国第二皇子で、……マキナの兄の一人だ」
クレフェルドは、その穏やかな目元を苦し気に滲ませながら告げた。
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