function Empathy(){ var files=

 クロエとヘレンは、互いの記憶を垣間見ていた。

 廃墟層へ落ちて、撃たれて、資源分解槽に落ちたはずだった。人に見せまいとしていた過去が、ふたりの頭に勝手に流れ込んできた。


 ヘレンは真っ黒な空間内に座り込み、耳を塞いで怯えている。クロエには、彼女の身に起きた筆舌に尽くしがたい出来事は、心を壊すのには充分すぎると思った。換装身体であれば精神を護る機能があるが、生身で、たった数度の意識のなかで、大事な人を全て喪うことに耐えられるわけがない。


 クロエはヘレンとの間に距離を空けたまま、床に胡坐をかいて座った。ヘレンの座っている位置から線引きするように漆黒に染まり、クロエ側は青色となっていた。相変わらず奇妙な様相で、まるで悪い夢でも見ているようだ。

「……正直、オレの方は恥ずかしくて。周りから逃げて、世間知らずで騙されてさ。人に話したことないし、見られたくないと思ってた」

 クロエは苦笑しながら、ヘレンの背中に向かって呟いた。

「アンタのせいじゃ、ないでしょ」

 鼻を啜っている音を鳴らしたあと、ヘレンがむすっと言った。

「……恥ずかしいじゃなくて、辛かった。じゃないの? 何よ、なんでもないみたいにヘラヘラして」

「うん? いや……そういうのは……逆に辛いし」

 あまり人に言おうとしない気持ちを口にした途端、消え入りそうな声が出て、クロエは自分自身に困惑した。


「私は……」

 ヘレンは喋ろうとして、声が詰まったようだった。クロエは黙っていた。

「……私は、自分が憎い。憎くてたまらない。護りたいと思っていた人たちも護れない、家族の死も受け入れられない、自分自身に嘘をつかなければ生きられない。なんて弱い人間なの、って……」

 語る口調は徐々に弱々しくなっていき、涙声にとって代わられた。

 弱い人間なのは、自分も同じだ。クロエは内心そう思っていた。本当は弱いと分かっているが考えないようにして、何も恐れがないフリを精一杯やってるだけだ。

 ヘレンを見ていると、弱いとはとても思えなかった。目的を果たそうという信念に満ちていて、時には暴力を伴ってまで感情を表現できる。自分とは真逆だ。


「……そのままでいいだろ。オレも強くない、一人でいたらポックリ死んじまうだろうし。誰かが傍に居てくれるから、何とかなるんだよ」

「……アンタは誰か居るかもしれないけど」

「お前にだって、オレがいるだろ」

 かけられた言葉に驚いたのか、ヘレンは息を呑んだようだった。考えているのだろう、固まったままで、やや乱れた呼吸音だけが聞こえてくる。やがてぼそぼそと、遠慮がちに話し出した。


「……見たでしょ? 私はもう肉体を棄ててしまった。アノン、なの。だけど、本当は全然嘘で……」

「ああ……」

 クロエはヘレンの言おうとしていることを何となく察する。ヘレンの記憶の中で、本来の肉体に戻っているときの身体の体格、姿形は……。

 クロエは再び立ち上がり、ヘレンの傍へ近寄ろうとした。


「来ないで‼ アンタが近付いてきたら、私がアノンじゃなくなる。そんなの嫌よ……!」

 震えながら拒もうとするヘレン。クロエは静かに首を振った。

「お前はさ、『私はヘレンだ』って、何度もオレに言ってきたじゃねーか。お前はヘレンなんだよ。本当は、分かってんだ」


 そう伝えた瞬間、ヘレンの身体の震えが止まった。


「お前が嫌がってるのは『アノンが死んでる』って理解することじゃなくて、本当の自分がひとりになること、じゃねえかな」


 言い終わった後、時が止まったように音が消えて、きぃんと耳鳴りがした。乱れた呼吸で必死に大気を取り込んでから、ヘレンが振り向く。

「だって……!」

 ずいぶん長い間泣いているのか、顔にくっきりと涙の跡がついていた。どんな仕組みかはわからないが、換装身体の姿にノイズが走るようにして、生身の姿が混在して見えた。



 短い赤毛で背格好のいい、の姿。



「私が、私が軍人なんてやってたから。唯一、息ができる場所だったのに。私が女になりたがったせいで、私が気を抜いてたせいで……あの上官を放っておいたせいで……みんな死んだ!」

 時々、ざざざ、と映像ノイズのようにして姿が切り替わる。不可思議な現象だが、これが今のヘレンなんだろうか。受け入れたくない、でも分かってしまっているという、中途半端な精神状態。

「軍人してて、女になりたかったから殺されたって……ンなことあってたまるかよ。その気になれば誰だってどんな姿にでもなれる世の中なんだぜ。おかしいだろ?」


 身体は女性、精神は男性として生きるクロエ。

 女性として生きたいと望み、姉と同一化し、男性の身体を棄てたヘレン。


 クロエは思わず俯いてしまう。自分達はひどく似ている。換装身体が普及しても、人間同士の意味のない蹴落とし合いに巻き込まれて、思うまま生きることができない。大切な命すら誰かの都合よく奪われる。


「なんでお前がそんな……お前にそうやって言わせて、思い込ませて泣くことを強いてる、この世界の方が、よっぽどさぁ……」

 何処ともなく言って、ぎゅ、と拳を握る。

「オレは……憎いよ」

 クロエは勢いよく立ち上がると、今度はヘレンの反応は無視して近寄り、すぐ横にどかりと座った。当然、ヘレンの肩はびくりと跳ねた。


「だからさ、オレと一緒にヤツらをブン殴りにいこうぜ。大丈夫、あんな目に遭わされたんだ。何回殴ったっておあいこだぜ」

 握り込んだ拳を手元で振り上げるようにして、意地悪く笑って見せる。ヘレンは目を丸くして驚いたが、すぐに地へと視線を落とす。


「何で、そこまで私を助けようとするの? 今までアンタに、ひどいことばっかり言ってきたのに……」

 ヘレンが訊くと、クロエはう~ん、と唸って腕を組む。そのままの姿勢で、やや自信なさそうに話し出す。

「お前が誰で、どんな見た目で性別ってよりかは……人が人を好きになるのは、身体ガワよりこころの方だろ」

「綺麗事ね」

「そりゃあな。真剣になったら綺麗な言葉になっちまうもんだろ。だって今、必死だぜ? オレはお前に死んでほしくない。『自殺病』からも救いたい。どうすりゃいいかなってさ」

 クロエはヘレンからは視線を外して話し続けた。これまで下層階でフラフラしてきたせいか、いざという時でも言葉が薄っぺらくて嫌になる。恥ずかしくて顔が見れそうになかった。ぬるま湯に甘んじて自分に向き合おうとも、進もうともしなかったことの現れなんだろう。


「……死んでほしくない、って、どうして?」

「そりゃ、お前のことが好きだからね」


 だから、口から飛び出た台詞は心そのままだった。

 ヘレンはぴた、と固まってから、信じられないという顔を持ち上げて、隣のクロエを覗き込む。


「好き……って?」

「いや、だからお前がだよ。わっかんないかなあ。気が合うと思わねえ? 性別とか関係なく、大事なんだ。そういうのは、ちょっとの事じゃ揺らがねえよ。ま、壊れ者同士、一緒にいようぜ。案外治っちまうかもしれねえじゃん?」

「はあ……?」

 今度は、『何言ってんだこいつ』の顔になったヘレン。言ってしまったら、普段から軽い口がぺらぺらと止まらなくなってしまった。クロエは殴られる気がして、顔の前に手を構えようとしたが、ここは我慢した。目を閉じる。言っちまったもんは仕方ねえ。死なばもろとも、だ。


 だが、拳は飛んでこなかった。恐る恐る目を開いてみると、涙でぼろぼろになったヘレンの表情が幾分か和らいでいた。もう呆れ果てて笑うしかないような、弱弱しいが優しい面差しだった。

「うおぉ……」

 クロエは思わず呻いてしまった。すぐにヘレンはムスリとした顔に戻る。

「何よ」

「や、何でも……。はは、お前、可愛いよな」

「うっさいわね。私、アンタがうっかり資源分解槽に落ちたの許してないわよ。強がりは向いてないから、私の前では止めなさい」

「うげ……」

 いつもの勝気な調子が戻ったヘレンに言い負かされるクロエ。おかしくなってしまって、ふたりでくすくすと笑った。しばし無言の時間が流れてから、ヘレンの方がぼそりと喋り始める。


「……ありがたいけど、私、家族以外に理解されたことがないわ。なよなよした兵士は要らないから。家の中でだけこの喋り方でね。……絶対振り回すわよ。本当に後悔しない?」

「そんなの今さらだろ。オレにとって今、重要なのは、お前が笑ってくれることだけだよ。好きに振り回せ!」

 がはは、とクロエが笑うと、ヘレンはもう言うべき事がなくなって、呆れ気味に溜息をついた。


「うし!」

 クロエは勢いよく立ち上がって、ヘレンが自身の膝を抱えたままになっている手を無理やり引っぺがした。ヘレンはしぶしぶといった様子で、重い腰を上げる。


 青と黒だけが支配していた空間を裂くように、光が射した。

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