ReferenceError01:Chloe is not defined

 何も見えない。身体を冷たい水が覆っている。解されるように意識と実体が引き離されていく感覚がする。動こうとしても触覚を感じられない。今どうなっているんだろう。大切なものを……守ろうとして、いたような気がしたのに。やがて、心を満たすように暖かい温度が広がっていく。安心して、眠りに落ちそうな心地がして……。


 はっとして瞳を開くと、眼前すべてに青色が広がった。

 

「……?」

 思わずきょろきょろと視線を巡らせ、周囲を見回した。上下左右、四方八方、どこを見渡しても青、青、青一色。蛍光色に近い寒々しい彩りが、バケツをひっくり返したように世界を塗りつぶしていた。

 青の荒野のなかに場違いなものもあった。薄黄色をした球状の光体が、一定の距離をおいてふわふわと浮いている。照明か何かだろうか。随分とメルヘンティックな世界だ。


 酷くぼんやりとして、しばらくの間、自分が誰なのかさえ認識できなかった。徐々に自分の名前や記憶を思い出していく。動かすことができる身体はあったが、実物の感触ではなかった。この色は、【塔】の上層階から上方を眺めると流れてくる三次視像、かりそめの空に似ている。気持ちが安らぐ。

 幼い頃から空が好きだった。それが例え、偽りであっても。



————クロエは資産家の両親のもとに生まれ、愛されていたが、ある重大な問題を抱えていた。

 先天性の換装身体パーボディ適合障害。生身は虚弱で女性種体じょせいしゅの換装身体にしか適性を持たないクロエには、エルゼノアで職業選択の自由がほとんどなかった。

 男性種体や軍用種体を扱えないことで、最も安定的な職業と言われる、軍職の道は絶たれる。機械エンジニア系は技術種体ぎじゅつしゅの適性が必要で、同じ理由で親の事業も継げない。研究職・教育職は競争が激しく、事情に付け込まれて蹴落とされるのが容易に想像できた。


 クロエは残されたうちから、エアライナー選手の道を選んだ。アマチュア大会で成績を収め、育成学校を卒業。プロライセンスを取得して、レースへの出場を重ねた。女性種体の選手がベテラン選手を抜き去ったことが鮮烈だったのか、すぐさま話題を呼んだ。しばらくの間は順調そのもので、レースへの出場依頼も途切れなかった。

 ところが、あるときを境に風向きが変わる。

偏愛性主義者アガラートフィリア』————そう揶揄され始めた。上層階の活動家を中心に広がった〝均等運動〟。換装身体のあらゆる種を平等に使用するべきだという風潮が、クロエを苦しめた。


「なぜ女性の換装身体しか使わないのか?」

「性的差別主義者!」「女性換装身体の偏愛性主義者アガラートフィリアはレースを止めろ!」

 メディアに批判的な見出しが踊るようになり、街を歩いているだけでも罵倒されるようになった。実家にまで記者やアンチファンが押し寄せるようになると、両親に迷惑をかけないため、巻き込まないために家を出た。移り住んだ先でも状況は変わらず、むしろエスカレートしていく。

 上層階に居場所がなくなり、追い詰められ、レース出場の依頼も入らなくなった。苦しかった。ストレスで食事ができなくなり、眠れない日が続いた。


 あるとき、思わぬ来客があった。小奇麗な格好をした男三人組がやってきて、自宅の前に立っていた。優しい顔付きの痩身の男が進み出て、慇懃に申し出た。

「クロエ・アルトワさんですね? 私は下層階でエアライナーレースを運営しております、アナスタと申します。よろしければ下層階でレースに出場されませんか?」

「下層階……で……?」

 光明が差した。行く先を見失っていたクロエにとっては、ようやく訪れた機会だった。


 アナスタの案内に従って遷移エレベータに乗り込み、下層階に降りていく。上層階生まれのクロエにとっては下層階行きは初めてのことだ。下層階にエレベータが到着した、まさにその瞬間のことだった。アナスタの連れていた男たちに突然、両腕を拘束された。

「えっ?」

 振りほどこうとする前に、換装身体の頭脳部へ何かを差し込まれた。

「うっ⁉ あ、あ……!」

 途端、天地がぐるぐると回り出し、吐き気が止まらなくなった。

 初めてのことだが、おそらく脳ユニット外付け型の薬物(ドラッグディスク)だ。一時の快楽と引き換えに頭と心が破壊される代物で、上層階では禁止されている。クロエは脳みそを振り回されるような不快感に立って居られなくなり、倒れた。

「じゃあ、後はお前らでやれ。ちゃんと払わせろよ」

 アナスタは先ほどまで見せていた紳士的な態度から豹変して、部下に尊大に命じて立ち去って行く。クロエはその後姿が遠ざかっていくのを見ながら、意識を失った。


————虚ろな視界のなかに映ったのは、薄汚く錆びた床と最低限の照明。目だけで辺りを探ると、あちこちに資材が積み上げられているのが見える。どこかの倉庫のような場所に思えた。動こうとしたが、固い感触とともにぎち、と音がする。椅子に座らされて、手足が拘束されているらしい。


「やっぱり上層階仕様の換装身体だと拒否反応の方が強いなあ……」

「じゃあ次、これにするか。……お、ちょうど起きたな」

 アナスタが連れていた男三人組がこちらを見てニタニタ笑った。さっきエレベータで入れられたドラッグはそのままらしく、男たちの会話で思い出してしまって、再び吐き気が押し寄せてくる。視界がぐらぐらして落ち着かない。

「クロエ選手。言うことさえ聞いてくれればすぐ解放しますよ。ご両親に連絡させてくれるだけでいいです。思念通話開いてもらえますか?」

 男の一人がクロエの顔の前まで屈み、そう言った。この要求で目的がはっきりした。身代金だ。企業を経営している両親に、息子を捕まえているから解放してほしければ金を払え、と言うつもりなのだろう。クロエ家では例の批判が始まってから、こういったことを防ぐために外界との連絡手段を絶っていた。脅そうにも思念通話をさせるしかないので、直接自分を連れてきたのだろう。

「断る……」

 どうにか吐き気を堪えて睨み上げても、目の前の男は全く動じていなかった。すると別の男が近付いて来て、頭脳部の薬物を引き抜いて別のディスクを挿しこんだ。今度は身体中がかあっと熱くなり、手足はがたがた震え出した。

「あああ! や、やめ……ううっ……」

 呻こうにも呼吸すら上手くできない、苦しい。汗が噴き出してきて額から伝った。

「中枢神経を興奮させる新製品なんですよ。あ~あ、もう痛い思いするしかなくなっちゃったなあ」

 男は早々に言葉遣いを崩して笑い、首元を掴んできた。軽々と身体を持ち上げられる。掛けていた椅子はどこかへと蹴り飛ばされた。

「ほら、早く通話しろよ。助けて~! ってよ」

「……ほざい……てろ……」

 悪態をついたのが気に障ったのか、首元を掴んでいたぱっと手が離されて、クロエの身体が力なく床に倒れ込んだ。地に打ち付けられた拍子に、口から吐瀉物が飛び出した。

「オイ、何吐いてんだよ!」

 横に立っていた男に靴先で顔を蹴られ、仰向けに転がされる。口の中に血の味が広がった。

 一瞬途切れかけた意識をかき集めていると、身体に何かされていることに気付く。何かを割くような音が聞こえて、服を脱がされているんだと分かって、総毛立った。


 そうか。いまオレ、犯されそうになってるのか。

 信じられない。いま、この時代に?

 女性種体だから、女だから? いや、傷つけやすいから————『偏愛性主義者』————あの言葉が頭に浮かんだ。


 換装身体の機能には何百年も前から、同意のない性行為、薬物への安全装置セーフティがある。薬には耐性が備わっていて、万が一使われても大した影響は出ないようになっている。だから性暴力と薬物問題は、上層階ではとうに過ぎ去った問題、の筈だった。

 ノフィアが持っていたのは、安全装置でも間に合わないほど、薬効が回るような強力なものだった。つまり下層階ではいまだに、薬物と暴力は現役なのだ。クロエにはなすすべが無かった。


「おい! お前ら何やってる!」

 そのとき、倉庫の入り口側からしわがれた男の声がした。懐中電灯でこちらを照らしている。

「ちっ、〝アウリス〟か? ズラかるぞ」

 男たちは、身体を離してそそくさと立ち去っていく。

 足音が遠くなるとともに、別の足音が近づいてくる。先ほどの男性のものだろうか。

「おい姉ちゃん、しっかりし……うわっ薬か。こりゃ酷ぇ。俺なんか抜いたら死んじまうか」

 しわがれた声が間近で聞こえる。不健康そうな痩せぎすの男性。身体に何か服を被せてくれてから、呼吸を確認しながら通信機器を使って何か話しているようだ。手慣れている。

「ノフィアにやられたのか? おい、生きてるか?」

 男性の顔がこちらを向いた途端、強烈な酒の臭いがして、お陰で意識が少し戻った。

「……レースに……ゲホッ……」

「あ? レース? ……おい、しっかりしろって」

 自らの喉から出る声は存外細く、途切れ途切れだった。話そうとして吐き気で咳き込むと、男性はうろたえながらも背を擦ってくれた。人の良さそうな御仁だな、と頭の片隅で思った。


「……なんで……どうすりゃ……また、飛べる? オレ……は……」


 なんとか声を絞り出すと、勝手に涙が流れ出た。

 屈辱だった。付け込まれ、追い詰められて、やっと希望が見えたと縋っても、結局は心身を傷つけられただけだった。

 どうしてこんな目に遭ってるんだ。弱いから……何も知らず、無力で惨めで、愚かだから。弱い人間は生きられないんだ。非力に生まれついた自分のことが、嫌で嫌でたまらなかった。


「あんた、まさかクロエ選手か? 何で、こんなトコに……」

 男性が呆然とそう呟いたのが聞こえたが、身体はもう限界だった。虚ろな視界が閉ざされていき、意識がふたたび途絶えた。

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