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 クロエは、助けに入ってくれたベルヌーイという男性のお陰で、病院に運ばれた。

 

 着ていた換装身体は壊れてしまい、三次視像プリセットを移行して付け替えられていた。安全装置が多少動いていたらしく、大きな後遺症は残らなかった。しかし意識を失っている間に、例の男たちに霊子金融口座を荒らされていて、金が無くなったのは心底困った。治療費も払えない。

 

 すると、ベルヌーイから会わせたい人が居るといって、行先を指定したメモを握らされた。〝下層階おれたちのボス〟だぜ、と。



 ノフィア連中に痛めつけられてすぐだけに警戒をしたが、メモの場所には立派な高層建築が建っていた。すでに話が通されているのか、名乗っただけで最上階への案内がなされる。エレベータが上昇していく間、下層階の様子を見ていた。この建物がある付近だけが煌びやかな繁華街となっており、他はトタン屋根ばかりだ。


 最上階の部屋に入ると、すぐ正面に車椅子の女性が待っていた。脇を挟むように2人居るのは、用心棒か護衛あたりか。クロエは下層階に来てから世間知らずっぷりを痛感していたが、この女性に対しては一目で察するものがあった。眼光が明らかに一般人のそれではない。あまり歳を取って見えないが、どっしりと肚の座った態度。彼女が〝ボス〟、なのだろう。



「てめェがクロエって坊ちゃんか。少佐から聞いてるよ。レースに出たいって?」

 女性は口の端を僅かに上げながら、老女のような声で喋った。少佐というのは多分、ベルヌーイの事だ。


「は、はい。そうです」

「お前が会った奴等は、〝ノフィア〟って組織の一味でな。下層階は、アタシの“アウリス”とノフィアで縄張り争いしてんだ。エアライナーレースは、奴等の資金源になってんだよ」

 ボスは眉間に皺を寄せた。下層階ではこの〝ボス〟とノフィアが対立しているらしいが、エアライナーはそのノフィアの金ヅルになっているようだ。口調からして良い印象は持っていないらしい。それならば、役に立てる余地はあるかもしれない。クロエはしばし思案を巡らせてから、切り出した。


「ボス。だったらオレを選手としてレースに出してくれませんか? レースでオレが勝てば、売上金のいくらかが賞金としてこっちに入ります。八百長も止められるし、観客に払戻しされてノフィア側にはあまり入らないはずです。オレもいま金が無いし……上には戻れないんで、互いに得になるかなって」


 こちらの提案にボスは黙り込み、考えているようだったが、やがて大きなため息をついた。


「また襲われに行くってのか? 何でもするって姿勢は嫌いじゃあないが、愚かなのは好かない。家族に守ってもらうでも、別の仕事でも身体売るでも何でも、探しゃあるだろ」

 声には呆れの色が強く、しっしっと手の平で追い払う仕草をした。上層階の箱入りは帰れ、と言わんばかりだった。


 どいつもこいつも。クロエの胸の中で、なにかが燃え上がった。

 なんで負ける前提なんだよ。守ってもらうべきって決めつけるんだよ。弱い人間は生きる場所も自分で決められないってのか。

 上層階の批判も、下層階での暴力も、クロエの意思を押し込めてこうあるべきと決めつけ、傷つけてきた。うんざりする。ああいう奴らに怯えて諦めるなんて、真っぴらごめんだ。弱くって結構、絶対にやる。



「飛ぶためには何したらいいですか? 薬の売人とか? それとも靴でも舐めますか」

「おい……」

 言う事を聞かずにまったく退こうとしないクロエ。ボスは渋い顔だが、無視して続けた。


「オレにとっては飛ぶ以外にここに価値がない。上層階でレースするには評判が命なんです、批判が続くとスポンサーが離れて出場できないんでね。ならアンタの機嫌さえ取ってれば飛べるんでしょ?」

 挑発的な態度が気に障ったか、ここまで不動だった護衛の1人がピクリと動いたが、ボスがすぐに制する。そして大声で笑い出した。


「バカだね。なめんじゃないよ、こっちだって簡単じゃねェ。だが、その無謀な度胸だけは買った。何とかしてレースに出してやるよ」

 思わぬ言葉が返ってきてクロエは息を呑んだ。だが、この傑物がタダで希望を聞いてくれるとは思えなかった。案の定、ボスは『ただし』と続ける。


「条件がある。レースで稼いだ金の半分を下層階に流せ。やり方は何でもいい。下層階は皆、食うものに困って苦しんでんだ。お前だけが儲かるのは都合が悪い」

 告げられた条件は意外なもので、唖然としてしまった。この女性、それこそ裏社会のボスという風体だが、思ったより、というか予想外に善人かもしれない。ベルヌーイから会いに行けと言われた理由が、少し分かった気がした。


「……分かりました。その話受けます。ありがとうございます」

 軍隊に倣って心臓の上に手を持っていき礼をした。初めてやったことだが。ボスは面白がるように薄い笑みを浮かべる。


「あと、1個いいですか」

「何だい?」

「〝ボス〟の名前、何て言うんですか。勝利インタビューの時に、名前で言わなきゃ失礼なんで」

「はっはっは!」

 今度は至極愉快そうに笑われた。



 クロエはボスという後援者を得て、下層階のレースに踏み入った。勝ちを積み上げていくうち、下層階でも名が知れるようになっていく。

 ノフィアの影がちらつくと、色々な方法で身を守った。アウリスの後ろ盾を使うこともあれば、銃弾を避けて逃げることも。恐怖を感じても弱味は見せない。それが身を守る手段だった。


 ボスに言われた通り、金を流すためにスラムとロストラへ通うようになった。クロエの換装身体に関することで批判を浴びせる者はいなかったが、その理由は明白だった。下層階の人々はいつでも、今日死ぬか明日死ぬか、という暮らしをしていたからだ。スラムには死体がどこにでも転がっているし、食べ物も水もない。自分がいかに恵まれていたかを思い知った。


 いくら分け与えても何の解決にもならないが、そうしなければ自分は生きられない。傲慢で業の深い行いだと思いながら、進みも変わりもしない日々を送るしかなかった。無力感から焦燥に駆られると、飲み歩いたり、肌を合わせたりして埋めた。

 

 それでさえ、充分幸福だと思っていた。あの日ヘレンに出会って、すべてが変わるまでは。







──「うぇ……」


 己の過去を鑑賞させられたクロエは、思わず呻いた。普段は極力考えないようにしていることをまざまざと見せられる。ただでさえ、自分のことなど好きになれないのに。

 

 それでも突き動かされるようにして、青に染まった空間をあても無く進んでいく。

 クロエは自身の記憶に混ざって、別の記憶も見た。

 どこかで彼女が泣いている気がして、行かなくては、と思った。

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