scene(2,Ⅴ);
ヴァンテの家は清潔で埃一つ落ちていなかった。入り口すぐの四角い家の方は研究用の道具ばかりで全く生活感がなく、寝室は奥の丸い家の方のようだ。ヘレンがシャワーに入ったのか、乱暴に扉を閉める音が聞こえてきた。
研究所でも感じたことだが、ヴァンテは組織内での職位が高いのか住居内の設備や家具調度品まで、値が張りそうなものが多い。家の中には膝丈くらいまでの家事支援ロボットが二、三基いて、思い出したように稼働している。丸い家に入ると、大きいベッドが一つ置かれていて、クロエは少し考えてから敷布を探しに行った。
「アンタさぁ……どこで寝てんのよ」
寝支度を整えいざ寝る、という頃になって、ヘレンが不満げに声を荒げた。ベッドから離れて、フローリングに敷布を重ねて寝転がっていたクロエは、思わぬ文句を喰らって驚いた。
「何か不満あるか? 換装身体が同性でも、中身は異性なんだろうから気を使ったつもりなんだけど」
「チッ面倒ね、どっちでもいいでしょ。そんな所で寝たら余計に疲れるわ。許してあげるから早く入りなさい」
ヘレンはベッドの逆端に向かってもぞもぞと進みつつ、苛立ちを隠さず言い捨てた。クロエは逡巡したものの、せっかく許しを貰ったのでお言葉に甘えることにした。ベッドは三、四人程度は入れそうな大きいもので、下手に触ってしまう心配は無いようだった。
「結構優しいトコあんだな、お前」
クロエが呟いた途端、ヘレンは顔をこちらに向けてぎろっと睨んだ。
「フン! 普段は優しくなくて悪かったわね」
「あ⁉ 褒めただろ! 揚げ足取んなよ!」
「うるっさいわね~! 黙って言うこと聞いておきなさいよ! また殴るわよ」
「やめろ! オレの美しい顔が潰れちまうだろ!」
不毛な応酬を何回か繰り返してから、クロエとヘレンは互いにふん、と不満げに背を向ける。
(本当なんなんだよこの暴力ヒステリック女は〜!)
(本当煩い、キャンキャン吠える金髪野郎ね)
ふたりは互いに怒りが収まらない様子で、悶々としていた。クロエはとにかく性格が真反対すぎると思った。助けてやってんのに、という気持ちもあるが、つい上層階にいた時の大人しい姿を思い返してしまう。
「大体アンタ、何でわざわざ
ヘレンは反対方向を向いたまま、怪訝そうな声を投げてきた。
女性種体というのは
「女にしかなれねーし、使えねーんだよ」
「女しか? どういうこと?」
「生まれつきそうなんだ。
クロエはベッドから手だけ持ち上げてひらひらと振ってみせる。ヘレンが言葉に詰まったような空気を感じたので、そのまま話を続けた。
「オレは身体は女にしかなれないんだけど、精神はほぼ男だと思う。でもそんなことは関係なく、思ったようにしてるだけさ。オレからすれば、上層階の連中が言ってる〝均等運動〟っていうのもワケわかんねーけどね。好きな身体で居たらいいだけなのに、わざわざ男女とか性自認とか、他人に気を使って自分たちの首を締めてる。不自由な奴らだなって思うぜ」
つい吐き捨てるような調子になった。〝均等運動〟は、換装身体は整った外見のものだけでなく、老若男女のものを均等に使用するべき、という主義思想だ。近頃の上層階ではスタンダードな考え方になりつつある。
換装身体の登場は、身体と性別に関するあらゆる問題を解決した。一方で本当の自分は何者なのか、どんな嗜好、才能、アイデンティティを持っているのか。それが分からずに思い悩む者、他社を脅かす者、権利を侵害する者達を生み出し、一種の社会問題となっている。
「そう……嫌な言い方して悪かったわね。しかし、そんな弱っちい身体で私を助けようなんて、よく考えたわね? その拳銃もまともに撃てないでしょう」
本当に悪かったと思っているのか? と言いたくなるような辛辣な言葉が飛んできたが、クロエはいったん我慢した。殴り合いになったら負ける。ヘレンは答えを受け取る準備をするように、ベッドの反対側でごろんと身体を反転させ、こちらを向いた。
ヘレンに拳銃を持っていると気付かれていたことには正直驚いた。護身用にと少佐から貰ったもので、上着の内ポケットに入れている。実際、彼女の言うことも最もだ。女性種体は戦闘を考慮していないので、拳銃を発砲した反動だけでも耐久がゴリゴリと減ってしまう。とにかく戦うことに向いていないモデルなのだ。
それにも関わらず、なぜヘレンを助けたのか。『自殺病』の人間を助けて匿っていると知れたら、軍部から追われる。クロエに限ったことではないが、誰も『自殺病』の人間を助けようとはしない。軍部の方針に逆らえば、逮捕勾留、拉致監禁、何でもありだ。素知らぬふりをするしかない。
あの時は必死だった。ヘレンが目の前で飛び降りようとしていて、止められるなら止めたかった。もう、人を見捨てるような————目を背けたくなかった。
「……わかんねえけど、オレはとにかくお前に死んでほしくなかったんだよ」
クロエはヘレンの方へ再び向き合って、明確な答えが見つけられないまま声にした。あの時の気持ちが何か少しでも伝わるように。真剣だった。
ヘレンは目を瞠るようにしてから、なぜか再び背を向けて、視線を逸らしてしまった。嫌悪感によるものではないようで、何かを言わんとして考えている様子を感じたので、口を挟まずにいた。
「……私の換装身体の姿、姉のものなの」
ベッドの反対側で、ヘレンは背を向けてうずくまっている。
「姉のアノンは……『自殺病』で身を投げたわ。止めようとしたけど、間に合わなくて……。大好きなの。私の言うことを何でも受け止めてくれて。仕事から帰ると手の込んだ料理を用意して待っていてくれたりしたわ」
ぽつぽつと語る声色がわずかに震えた。
「姉が飛ぶ瞬間を見て、受け入れられなかった。気づいたら、姉の換装身体を着ていたわ。ヴァンテは死んだって言っていたけど、なら何故ああやって死んでしまったのか……それを知りたい」
決意の固さを表すように、ヘレンが身体にかけていたブランケットの端をぎゅっと握りこむのが見えた。
「……そっか。姉ちゃんのことも、お前の症状のことも、解決策が見つかればいいよな。それまでは、傍に居てやるからさ」
「……」
クロエは極力優しく声をかける。ヘレンの方は何も言わず、深く呼吸を繰り返している。気持ちを落ち着けようと息を整えているのが窺い知れた。数回の呼吸音が聞こえたあと、再びヘレンが口を開く。
「……アンタには感謝してるわ。上に戻ったら私はまたお荷物ね。見捨てていって」
「見捨てるかはともかく、上に戻るって?」
「匿われているとはいえ、ずっとここには居られないでしょ。一旦下層階に戻った方がいいわ」
「ああ、そういう……」
返事をしながらクロエは大きくあくびをした。今日の疲れが出ているのか、急激に眠気が来た。
「ま、明日の事は、明日……考えようぜ。おやすみ……」
眠りに落ちる前のふにゃふにゃした声色で何とか返答をして、睡魔に抗えなかったクロエは、そのまま眠りに落ちて行く。
「……」
ヘレンの目は開いたままだ。廃墟層に薄暗いままの朝がやって来ても、彼女はベッドの上で悩み続け、眠れずにいた。
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【用語解説】
・
・〝均等運動〟:換装身体を優れた外見の者に限らず、老若男女のものを均等に使用するべき、という主義思想。上層階ではスタンダードな考え方。
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