最終章 おかえりなさいとただいまの間で

 文化祭二日目の土曜日、私は梨奈やクラスの友人たちに誘われて池田君のライブを見に来ていた。

 ライブ会場になっている武道場は他校の生徒や中学生などの一般客も入って超満員だ。

 ピンクに染めた髪を逆立ててラメの入ったメイクをした池田君が足を踏み鳴らしながらエレキギターの弦に指を滑らせていく。

 ものすごい技巧なんだろうけど、私にとっては耳を塞ぎたくなるような騒音でしかなく、リズムに合わせて点滅するライティングに酔ってしまいそうだ。

 梨奈もまわりの友達もみんな手や頭を振ってノリノリで声援を送っているのに、私はついていけなくて固まってしまいそうだった。

 でも途中から池田君が梨奈に視線を送っていることに気づいて、それを観察しているうちにアンコールを迎えていた。

 大粒の汗の滴を垂らした池田君が荒い息を整えながらマイクをつかむ。

「今日、この文化祭に、うちのクラスの森崎ってやつが参加できなかったんです。そいつは交通事故に巻き込まれて今も病院で闘っています。森崎にも俺たちのライブを見てもらいたかったんで、最後にあいつのために一曲やります」

 拍手と歓声が沸き上がり、一番ハードな曲が始まった。

「全然ショウワ君のイメージに合わないよね」と、梨奈が私の耳に叫ぶ。

「このくらいの方が気持ちは伝わるんじゃないかな」

 ライブが終わって会場を出たところで、他の友達がたずねた。

「ねえ、梨奈と池田君ってどうなの?」

 それ、私も前から聞きたかったんだよね。

「あたし?」と、梨奈は半笑いだ。「嫌いじゃないけど、いまいちタイプじゃないかな。べつにコクられてないし」

 そう言うと、私にちらちらと視線を送ってくる。

「晶保はこの後どうするの?」

「病院に行こうと思って」

「面会できるって?」

「うん、先生の許可がもらえたんだ」

「良かったね。でもまだ意識は戻ってないんでしょ」

「うん、まあね」

「あたしたちも行きたいけど大勢で行くわけにいかないもんね」

 感染症対策で家族でも自由には面会できない。

 私も同じ事故の被害者ということで特別に許可をもらったのだ。

 お客さんたちで賑やかな廊下を歩きながら梨奈が私に耳打ちする。

「耳に息を吹きかけたらくすぐったくて目覚めるかも」

「そんなイタズラ恥ずかしくてできないよ」

「じゃあ、定番のキスとか。眠れる王子は姫の口づけで目覚めました」

「酸素マスクしてるんじゃないかな」

「ああ」と、梨奈がため息をつく。「ふざけてごめん」

「ううん、心配ないって。大丈夫だよ」

 みんなと別れ、学校前の停留所から病院行きのバスに乗る。

 私の手の中には砂時計が握られている。

 なめらかに滑り降りていく砂が二往復したところで病院前のバス停に到着した。

 土曜日の午後で外来の患者さんがいないせいか、吹き抜けの広いロビーはゼラチンで固めたみたいに静まりかえっている。

 受付で名前を書いて入場許可証をもらい、私も入院していた西病棟の五階へエレベーターで上がる。

 消毒を済ませ、インターフォンを押すとお世話になっていた看護師さんが中へ入れてくれた。

「元気そうね。顔色もいいみたいだし」

「ありがとうございます。もうなんともないです」

「良かったわね」と、看護師さんは一般病室の廊下をどんどん奥へと進んでいく。「あれだけの事故だったのに、奇跡みたいよね」

 カズ君はまだ集中治療室にいるらしい。

 ナースステーションの脇を通って私を招き入れた看護師さんが周囲を囲むカーテンを引くと、そこにはベッドに横たわったカズ君がいた。

 ――やっと会えたね。

 はやる気持ちを抑えながら枕元に歩み寄る。

 私は思わず息をのんだ。

 酸素マスクをつけたカズ君の顔には頬骨や額のあたりに赤黒い痣が残っている。

 だけど目をそむけずに私はじっと怪我の様子を見つめていた。

「これでもだいぶ消えてきてるんですよ」と、反対側から看護師さんも様子を見ている。「骨折はまだ治ってませんけど、脳内出血も見られませんし、血圧や脈拍なども正常で、あとは意識が戻るのを待つだけなんですけどね」

「そうなんですか」

「ちょっと用事を済ませてくるから、声をかけてあげててください」

 看護師さんのいなくなった集中治療室は何の音もしない。

 点滴の器械も心電図記録装置も規則正しく作動しているけど、音が吸引されているかのように静かだった。

 カズ君の腕は両方ともギプスで覆われている。

 布団のかかった脚もそうらしい。

「苦しい?」と、私は顔をのぞき込みながら話しかけてみた。「痛む?」

 表情に変化はないし、聞こえているのかどうかも分からない。

 だけど今は、こうしてカズ君と一緒にいられるだけで満足だ。

 君の苦しむ姿も赤黒い痣も私は目をそらさないよ。

 きっと一緒に乗り越えていけるから。

 だから、そばにいさせてよ、カズ君。

 ちゃんと、私、君のことを見てるよ。

 床にひざまずいてベッドに肘をのせ、カズ君の横顔を眺めながら耳元で話しかけてみる。

「私は帰ってきたよ。カズ君も早く戻ってきてよ」

 でも、またこんなふうに話をできるなんて、信じられないよね。

「私たち、映画も見に行くって約束したし、来年はまた花火大会に行くんだよね。それに、山のリフトから見たあの湖にもいつか行くんだよね。二人で車の免許を取って、かわりばんこに運転していくのも楽しいかもね」

 他にもやってみたいことなんていくらでもある。

 たぶん、一生全部使っても時間が足りない。

 だから、早く帰ってきてよ。

 おかえりなさいって抱きしめてあげるから。

「水着見せるの恥ずかしいけど、まだプールも海も行ってないし。私たち、仲良くなったばかりで喧嘩もしてなかったよね」

 私、わがままだし勝手だし、振り回しちゃうけどごめんね。

 カズ君の耳に口を近づけて息を吹き込むようにそっとささやく。

「好きだよ、カズ君」と、私は指先で軽く耳たぶをつついた。

 と、その時だった。

 カズ君の耳が赤くなった。

 ――え?

 びっくりして立ち上がると、腫れた瞼がピクピクと動いていた。

 あわてたせいでベッドのパイプに膝をぶつけてしまったけど、そんなことはどうでもいい。

 目を開けたカズ君が私を見て、道端に咲いた朝顔に気づいたみたいに微笑む。

「ここは……天国?」

 引きつったようなぎこちない笑顔だけど、その声はたしかに私の耳に届いた。

「おかえりなさい。天国じゃないよ。ちゃんと生きてるんだよ」

 ギプスに気づかないのか、ベッドに横たわったまま手を上げようとして顔をゆがめる。

「まだ骨折は治ってないんだって。動かさない方がいいよ」

「体中痛いよ」

 どんな言葉をかけてあげたらいいのか分からない。

 だけど、カズ君の言葉が少しずつはっきりとしてきた。

「ただいま」と、苦しそうな表情が和らぐ。「なんか、夢を見ていたのかな。いろいろなところに行っていたような気もするし、ただ浮かんでいただけのような気もする。ずっと自分の体から抜け出してたみたいなんだ」

 ――うん、そうだよ。

 君は覚えていないのかもしれないけど、大冒険だったんだからね。

「でも、帰ってこられたんだから良かったじゃない」

 うなずこうとして痛むのか口元がゆがむ。

「いつも遅れてごめんね。僕はずっと待たせてばかりいるよね」

「ううん。そんなことないよ。いつだってカズ君は一生懸命なんだって、私、ちゃんと知ってるよ」

 カズ君が急に思い出したように目を動かした。

「そこらへんにハンカチあるかな」

 ベッドサイドの棚にはないみたいだ

「見当たらないけど、今いるの?」

「ちゃんと洗って自分でアイロンかけたんだ」

「べつに気にしなくていいのに」

「格好悪いところ見せたくなかったから」

「カッコイイよ、カズ君は。ヒーローだよ」

 棚の扉を開けると、中に見慣れたカズ君のカバンが入れてあった。

「中、見てみる?」

「うん。あるかな?」

 たしかにきれいに折りたたまれたハンカチが入っている。

 そういえば、この柄、見覚えがある。

 いつも丸まってたっけ。

 その他にバレッタも入っていた。

 どう考えてもカズ君の物じゃない気がするけど、間違って回収されたんだろうか。

「これは?」と、念のために聞いてみた。

 目尻にしわが寄る。

「君へのプレゼントなんだ」

「え、私に?」

「あの日、わたすつもりだったんだ」

「ありがとう。つけてみるね」

 脇を上げて髪をまとめ、バレッタをはめる私を、カズ君がじっと見ている。

 なぜか顔が真っ赤だ。

「どうしたの、具合悪くなっちゃった?」

「いや」と、顔は向けたまま微妙に視線をそらす。「大丈夫、平気だよ」

 そんな君の表情を見るのも久しぶりでうれしいよ。

「どう、似合う?」と、私は背中を向けながら体を傾けた。

「思った通りだよ」と、カズ君は目を細めていた。「とても似合うよ」

 と、そこへ看護師さんが戻ってきた。

「あらあら、森崎さん、目が覚めたの。大変、大変、先生呼んでこないと」

 慌ただしく看護師さんが出て行った集中治療室はまた静かになった。

 カズ君がほんの少し顔をしかめた。

「どこか痛むの?」

「いや」と、唇をゆがめるような笑みを浮かべる。「なんか、さっき、ものすごくうるさい音がずっと頭の中で鳴ってたような気がしたんだ」

 この集中治療室で、そんな音がするはずがない。

「それ、森崎君がカズ君のために演奏した曲かも」

「え、僕に?」と、明らかな苦笑に変わる。「今日は文化祭の日なのか。そういえばライブ見に来いって誘われてたっけ」

「池田君、ずっと梨奈に視線送ってアピールしてたけど、脈はないみたいね」

「もっとストレートに好きだって言えばいいのにね」

「おやおや」と、思わず笑ってしまった。「君がそれを言う?」

「だいぶ待たせたけど、僕はちゃんと言ったよね?」

「ええ、そうかなあ」と、私は視線をそらした。「夢でも見てたのかもよ」

 そして、酸素マスクに耳を近づけた。

「もう一度聞かせてよ」

 かすれた笑い声が聞こえる。

「『もう一度』なんて言っちゃってるじゃん」

 ――あ……。

「でも、言える時に何度でも言っておいた方がいいよね」

 そう、いつ何が起こるか分からない。

 目の前の笑顔が砂のように崩れ去ることだってある。

 私もちゃんと伝えておかなくちゃ。

「晶保」「カズ君」

 お互いの気持ちが重なって肝心の言葉がつっかえてしまった。

「あ、あのさ……」

「う、うん……」

 と、そこへ看護師さんがお医者さんを連れて戻ってきてしまった。

「あら、上志津さんもいたのね。森崎さん、意識が戻ったって?」

「はい。今、お話ししてました」

「それは良かったわね」と、お医者さんが布団を取りのけて診察を始めた。

 分かってはいたけど、脚全体を覆ったギプスが痛々しい。

「ああ、そうそう、ご家族にも連絡がまだだったのよね」と、看護師さんが苦笑する。「仲良くて身内みたいだからすっかり忘れちゃってたわ」

 お医者さんが小声で何か指示を出すと、真顔に戻った看護師さんがナースステーションへ向かった。

 邪魔になりそうだったので私も今日のところは帰ることにした。

「じゃあ、私、これで失礼します」

 左襟に手をやった私を見上げて、カズ君が精一杯頭を動かしてうなずいてくれた。

 それはほんの少しだったけど、私たちにとっては大きな合図だった。

 どんなにつらいことがあっても。

 惹かれ合う気持ちを忘れることなんてできない。

 手を伸ばせば君の笑顔に触れることもできる。

 君は私を天使と呼ぶけれど。

 時のかけらが奇跡の光に変わる瞬間を見せてくれたのは君なんだよ。

 ありがとう、カズ君。

 大好きだよ、カズ君。

 これからもよろしくね。

 帰りのバスに揺られながら、私は手のひらに立てた砂時計を見つめていた。

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涙に沈んだ砂時計に奇跡の光が降りつもるから 犬上義彦 @inukamiyoshihiko

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