(3-7)
◆◆
目が覚めると白い世界に私はいた。
白い天井と白いカーテンに囲まれた狭い空間。
ええと……。
赤い線、青い線、黄色い線、緑の線はリハビリテーション。
私は病院にいたんだっけ?
何かを思い出そうとしかけたら、カーテンの向こうから声をかけられた。
「検温と血圧測定です。開けますよ」
ゆっくりとカーテンが開き、女の人が顔をのぞかせた。
服装から看護師さんだということは分かる。
「お名前、言えますか?」
手首に巻かれたテープに名前が書いてある。
「上志津晶保……ですか?」
「まだ無理に思い出そうとしなくていいですからね」
苦笑しながら看護師さんが私に体温計を差し出した。
反射的に腕を上げてそれを受け取り、病院着のボタンを外して脇にはさむ。
記憶にはないけど、何度か繰り返していたかのようで、その動作はどこにも違和感がなかった。
「どこか痛いところはありませんか?」と、点滴の速度を確認しながら看護師さんがたずねた。
「いえ、特に」
「検査では骨とかには異常がなかったんですが、後から打撲の痛みがでるかもしれませんのでね、その時は遠慮なく言ってください。先生から痛み止めや湿布が出されてますから」
「ありがとうございます」
「体の状態だけだと、すぐにでも退院できるかもっていう話だったんですけど、学校も夏休みだからもう少し様子を見ることになりましたからね」
「そうなんですか」
病棟は感染対策で家族も入れないそうで、面会室で許可されたときだけだそうだ。
「ご家族に連絡したいことはありますか。何かほしいものとか、あればお伝えしますよ」
「今は特に……」
本当に何も思いつかない。
頭の中は真っ白だった。
消したばかりのホワイトボードみたいに、ところどころに記憶のかけらが残っているけど、何と書いてあるのかは読み取れない。
書き留めるほど大切な思い出だったのか、ただの落書きだったのかも区別がつかない。
ただ、何かを思い起こそうとしても頭は痛くならなかった。
目の奥に針を刺されるような痛みが来ないかとおそるおそる記憶をたどってみたけど、何も思い浮かばないし、苦しくもない。
ただ、真っ白なだけだ。
私は思ったことをそのまま口に出した。
「何もありません、今は」
「そうですよね」と、看護師さんがおだやかな笑みを浮かべる。「何か思いついたらいつでも言ってくださいね」
「はい、分かりました」
その後、食事が出された。
夕食と言われたので、今は夕方なのだろう。
カーテンを隔てた窓からはまだ日が差し込んでいる。
そういえば、今は夏だっけ?
さっき看護師さんが『夏休みだから』って言ってたよね。
友達に貸したままの小説が一冊抜けた本棚みたいに、目が覚めたときまでの記憶はない。
お昼ご飯は食べたんだろうか。
思い出そうとする前におなかが鳴った。
今が空腹で間違いないのなら、食べたかどうかはもうどうでも良かった。
食欲はまったく普通にあったので、私は体を起こしてトレーの上に並んだ食事を眺めた。
ご飯にジャガイモひとかけらの味噌汁、ぶりの照り焼きに白菜の漬け物、それとリンゴのゼリーだ。
病院の食事は塩気がないとか、あまりおいしくないというイメージがあったけど、体に問題がないせいか、味付けもしっかりしていて小学校の給食よりおいしかった。
私が通っていた小学校の給食は学校の敷地内にある給食センターで作られていたのだけれど、なぜか変わった風味がして私はあまり食べられなかった。
それは私だけの感想ではなく、保護者の試食会でも指摘されて市の調査がおこなわれ、設備の老朽化でカビや汚れがひどかったらしい。
まわりのみんなは文句を言わずに食べていたから、私だけ味覚がおかしいのかと悩んだ時期もあった。
たとえ一人でも、まわりのみんなにそんなことはないと言われても、自分が正しいと感じたことを主張するのは大事なんだ。
小学生でその教訓を学んだことは、今の自分に役立っているんだろうか。
なぜか、そんなどうでもいいことばかりが思い浮かぶ。
大切なことは何一つ思い出せないのに。
気がつくと、いつの間にか完食していた。
空腹という条件があったとしても、どれもおいしかった。
ベッドから脚を下ろして立ってみる。
どこも痛くないし、足も上がる。
私は点滴スタンドを転がしながら、トレーを廊下に出しに行った。
「あら、大丈夫?」と、通りかかった看護師さんが受け取ってくれた。
「はい、普通に歩けます」
「まだ、少し様子を見た方がいいから、なるべく安静にしていた方がいいですよ。おトイレとかは行っても大丈夫ですけどね」
「そうですか。分かりました」
「今日はまだシャワーはダメだけど、後で体を拭きに行きますね」
「ありがとうございます」
私はベッドに戻って横になった。
白い天井、白いカーテン、白い布団。
じっとただそれを眺めているだけで、他に何もすることがない。
――どこも悪くないのに。
白い空間を眺めていたら、白い砂に埋もれていくような感覚がして意識が薄れていった。
……。
目が覚めた。
目が覚めたということは、今まで私は眠っていたんだと気づく。
だけど、どれくらい眠っていたのかは分からない。
今が何時なのかも分からない。
いつ眠ってしまったんだろうと考えているうちに、また眠ってしまう。
次に目を覚ましたときは暗くなっていた。
廊下の明かりがぼんやりと差し込んでくる。
その明かりに切り取られたサンドイッチのパックみたいな三角の空間をじっと見つめる。
何の意味もない時間がただ過ぎていく。
だけど、こんな時間がこれから一生続くような気がした。
――そこに君がいないから。
誰……なの?
大切な君がいないから。
君は……。
頭の奥から少しずつ静かに痛みがわいてくる。
誰かのイメージが鮮明になるにつれて痛みも鋭く深くなっていく。
バケツで水をかぶったようなひどい汗をかきながら私は頭をかきむしる。
いるんでしょ。
そこにいるんでしょ。
だけど、どうしても会わせてくれないのね。
あざ笑うように頭痛が私を苦しめ、記憶を押しつぶす。
浮かびかけた顔が砂のように崩れ去る。
嗚咽が止まらない。
枕に顔を押しつけて止めようとしても涙も鳴き声も止められない。
その人が消え去ると頭痛も引いていく。
会いたいよ。
いつもそばにいてくれた私の大切な人。
私を守ってくれた人。
もう一度会いたいよ。
思い出せない私の一番好きな人。
誰なの……君はいったい……誰なの?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます