(3-8)


   ◆◆◆


 浅い眠りだった。

 目覚めると私は全身汗まみれだった。

 寝具もぐっしょり濡れて、寝起きなのにまるで溺れていたみたいに息も荒れていた。

 何か夢を見ていたような気もするし、記憶がよみがえってきたようにも思えるけど、目が覚めてみると何も思い出せない。

 この現実の方が幻だったら良かったのに。

 だるくて体を起こそうとすると頭がふらつく。

 何時なのかは分からないけど、カーテン越しに白い光が差し込んでいるから、たぶん朝なんだろう。

 検温に来た看護師さんが新しいタオルで顔を拭いてくれた。

「すごい汗ね。拭くよりもシャワーを浴びちゃった方がいいかも。先生から許可は出てるから行ってみようか」

「今すぐ入れるんですか?」

「今の時間は空いてるから大丈夫よ」

 自分の足で立って廊下を歩き、シャワー室へ入る。

「着替え持ってくるから、先に入っててね。タオルは脱衣所の棚にある新しいのを使って、シャンプーとかはシャワーブースに備えつけのがあるから」

 水分を吸って重い病院着と下着を脱いで籠に置き、ブースに入ってシャワーを出す。

 温かいお湯が気持ちいい。

 体はどこも痛くないし、何か悪い夢を見ていたような気がするけど、今はもう気分もすっきりしている。

 シャンプーやボディソープの香りも控えめで落ち着く。

 ペタペタと固まっていた髪も毛先までなめらかになった。

 シャワーだけなのに、顎までお湯につかったみたいにリラックスできた。

 このまま学校に行けそうかも。

 ああ、まだ夏休みなんだっけ。

「着替え置いておきますね」と、磨りガラス越しに声をかけられた。

「はあい、ありがとうございます」

 シャワーを終えてバスタオルで体を拭き、備えつけのドライヤーで髪を乾かしながら自分の姿を鏡で観察してみる。

 どこにも痣はなく、転んだ子供みたいに鼻と右頬に擦り傷があるけど、触っても痛くないし、心配しなくていいと言われていたとおり、もう消えかけているみたいだった。

 看護師さんが用意してくれた服に着替えて、汚れ物を袋に入れてシャワー室を出る。

 廊下を歩いていると、なんだか旅館のお風呂から出てきた人みたいな気分だった。

 病室で寝具の交換をしてくれていた看護師さんがそんな私の表情を見て朗らかに迎えてくれた。

「あら、さっぱりしていいわね」

「気持ちよかったです。ありがとうございました」

「洗濯物はご家族に渡しておくから、今ここで預かりますよ」

「はい、じゃあ、お願いします」と、私は袋を差し出した。

 ベッドに上がって横になると、看護師さんが新しい布団をかけてくれた。

「あの、聞きたいことがあるんですけど」

「うん、なあに?」

「事故の時に、私の他に誰かいたと思うんですけど、その人もこの病院に入院してるんですか?」

 看護師さんは少しの間言葉に詰まって困っているようだった。

「何か思い出したの?」と、探るように私の目を見つめる。

「いえ、思い出せないので、教えてほしいんです」

「うーん、そうね……」と、看護師さんは困惑していた。「ごめんなさいね。私からは何も言えないの。担当の先生に伝えておくから、後でお話ししてもらいましょうね」

 昼食の後、私は車椅子で診察室へ連れていかれた。

 自分で歩けたけど、距離があるからと看護師さんが押してくださった。

 診察室にいたのは最初に処置を担当したお医者さんだった。

「上志津晶保さん、調子はどうですか」

「はい、体はどこも痛くありません」

「食欲もあるみたいですし、順調ですね」と、いったん言葉を切って先生はモニター画面にCT画像を表示した。「今日は聞きたいことがあるそうですね」

「はい。事故のことです」

「何か思い出しましたか?」

「私の他にもう一人誰かいたと思うんですけど、その人がどうなったのか、教えてもらえませんか」

「自分では何かを思い出したというわけではない?」

「はい。思い出そうとすると、消えてしまうというか、ぼんやりしてしまうんです」

「なるほど、そうですか」と、先生は入力する手を止めて、しばらく黙っていた。

 親指と人差し指で眉毛をもんでから先生が私に顔を向けた。

「結論から申し上げると、他には誰もいませんでしたよ」

 ――え?

 そんな……。

 そんなはずはないでしょ。

 思い出せないけど、たしかに誰かいたはずだ。

 私を守ってくれた人。

 私を大切にしてくれた人。

 私のために頑張ってくれた人。

「私と一緒に事故に巻き込まれてひどい怪我をした人がいたはずなんですけど」

「それは確かな記憶なんですね」

「はい。はっきりと見ました」

「そのショックで記憶を一時的に遮断したかもしれない、と」

「それは……分かりません」

「ですが、被害者はあなた一人で、運転者はお店に突入する前にすでに亡くなっていて車が暴走してしまったことがドライブレコーダーの映像から確認されたそうですよ。店内にいた店員さんや他のお客さんは無事と聞いてます」

 そんな……。

 嘘でしょ。

 そんなはずないでしょ。

 いないはずないじゃない。

 ――どうして?

 なんでみんな私をだまそうとしているの?

 何を隠しているの?

 どうして本当のことを言ってくれないの?

「教えてください。私は、どんな事実でも受け入れる準備ができています」

「ですが」と、お医者さんは深くうなずいていったんモニター画面に視線を移した。「事故の衝撃から自分を守るために記憶を遮断したことで、別の記憶に塗り替えられてしまうことがあります」

「そうなんですか」

「その思い浮かぶイメージは夢とか、事故の衝撃で影響を受けたものである可能性はありませんか?」

 そんな……。

「違います。だってその人は……」

 思い出そうとした瞬間、目の裏側に釘を打ち込まれたような激痛が走る。

 どうして……。

 どうして忘れさせようとするの?

 苦しいよ。

 つらいよ。

 さびしいよ。

 助けて……。

「大丈夫ですか」と、お医者さんが私の肩を撫でてくれる。「落ち着いて息をしてください。ちゃんと吸えてますよ。無理に吸わなくていいですよ。ゆっくりでいいんです。大丈夫ですよ」

 ――大丈夫。

 え?

 ――僕はここにいるから。

 声が聞こえる。

 私はその声を知っている。

 どこなの?

 いるんでしょ。

 いないふりなんかしないでよ。

 私、あきらめないからね。

 絶対に忘れたりしないから。

 だって、君は私の大切な人なんだから。

 私を大事にしてくれた、かけがえのない人なんだから。

 必ず君を取り戻してみせる。

 そう誓ったとたん、霧がたちこめたように私の周囲が白くぼやけていった。

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