(3-6)
◆
目を開けた時、私は何かに縛りつけられていた。
小さい頃に読んだガリバー旅行記を思い出す。
「起き上がらなくていいですよ。今救急車の中です」
――え?
なんで?
どうして私は……。
何かを考えようとすると頭に衝撃が走る。
目の奥に突き刺した針を無慈悲にかき回すような激痛に耐えかねて私は思考を捨てた。
「心配ないですよ。病院で検査するまでは頭も体も動かさない方がいいですからね」
救急隊の人が話しかけてくれるけど、それが自分に向けられたものだという実感がない。
何が起きたのか、まるで覚えていない。
たしか、学校へ行こうとしていたような……。
何かを思い出そうとしたその瞬間、ハンマーが振り下ろされて記憶が粉々に打ち砕かれた。
「どこか痛みますか?」
問いかけられても声が出ない。
息が苦しい。
大切なことを思い出せない。
それが何なのかも分からない。
息ができない。
混濁していく意識の中で、何かが見えたような気がした。
それは誰かの姿だった。
私の大切な人。
私を大事にしてくれた人。
君は……。
でも、次の瞬間、その姿は嵐に巻き上げられた砂のように、私の前から儚く消え去ってしまった。
……。
それからの記憶は抜け落ちている。
今私は薄暗い廊下の長椅子に腰掛けている。
時計がないから今が何時なのかは分からない。
遠く離れた廊下の端に日が差し込む窓があるから昼なのだろう。
長い廊下の天井に間隔を開けて照明がついているけど、目の前にある消火栓の赤いランプがやたらとまぶしい。
床には色別に矢印が描かれている。
レントゲン、CT、採血採尿、リハビリテーション。
ここは昼でも暗い病院の廊下らしい。
赤がレントゲン、青がCT、黄色が採血採尿、緑がリハビリテーション。
長椅子の背に体を預けながら、文字と矢印を目で追って廊下を何往復しただろう。
誰も来ないし、何の物音もしない。
なんで私はここにいるんだろう。
時が止まったかのように何も起こらない。
まるで深い海の底にいるみたいに静かだ。
長椅子に一人で腰掛けたまま、深海魚になった気分で私は何かを待っていた。
体はどこも痛くないし、気分も悪くない。
どうして私はここにいるんだろう?
何も思い出せないし、何を思い出したいのかも、いったい何が起きたのかも、なぜ自分がここにいるのかも分からない。
「晶保!」
声が聞こえるまで、足音が近づいてきていたことにも気づかなかった。
誰かを呼んでいるらしく、廊下の角から女の人が駆け寄ってきた。
「晶保、大丈夫なの? なんともないの?」
――え、私?
私は……晶保……なのか、そうか。
私の体に触ろうとするのを、別の女性が引き留めた。
「まだ安静が必要ですから、揺さぶったりしないようにしてくださいね」
「あ、ああ……はい」
「あと、本人は記憶が混乱しているので、事故のことはあまり質問しないであげてください」
「そ、そうですか」
「いま、担当医師を呼んできますので、ここでお待ちください」
困惑顔の女の人は伸ばしかけた手を引っ込めつつ、私の顔をじっと見つめている。
「晶保?」
この人は誰なんだろう。
「お父さんも今こっちに向かってるからね」
お父さん……。
ということは、この人はお母さん?
ああ、そういえば、なんとなく思い出した。
私、学校に行こうとしていたんだっけ。
今になって気がつくと、自分は高校の制服を着ていた。
少し破けたりしているけど、体は痛くない。
「鞄は?」
何気なくつぶやいた言葉に『お母さん』が過剰な反応を見せる。
「鞄、鞄ね、そう言えば、どこにあるのかしらね。救急車で一緒に運んでくれなかったのかしら」
「宿題やらなくちゃ」
「今はそんな心配しなくていいのよ」
と、そこへ白衣を着た女性がやって来た。
「上志津晶保さんのお母さんですね。救急担当医の佐久間と申します」
「はい、晶保の母です。娘はどうなんですか?」
お医者さんと母が私のことを話していた。
私は事故に遭ったらしい。
検査の結果、打撲や擦り傷程度で大きな異常はないそうだ。
お医者さんが母に淡々と話しかける。
「ちょっと言い方はあれなんですけども、不幸中の幸いというか、脳や体に損傷はなかったので、その点では良かったのではないかと言えると思います」
「じゃあ、後遺症とかは」
「今のところは心配ないと思います。本当に、エアバッグか何かに包まれていたかのように無傷でしたからね。顔に少し擦り傷がありますけども、数日で消えますから、心配ありません。もちろん痕も残りませんよ」
「良かったね」と、母が涙でくしゃくしゃな顔を私に向けた。「なんともないって」
それらはすべて私とは無縁の話のように聞こえていた。
まるでテレビの中で演じられる再現ドラマみたいだった。
ただ一つ、記憶が混乱していて、その回復にはどの程度かかるかは予想がつかないとのことだった。
「でも、いちおう、そういった精神的動揺が収まるまで数日程度入院していってください。脳出血なども少し時間がたってから来ることもあるので、安全確認のための経過観察が必要ですので」
「記憶の混乱というのは」と、母が先生に詰め寄る。「どれくらいで治るのでしょうか」
「それはなんとも言えません。事故の精神的ショックが大きすぎて、一時的に記憶を強制的に遮断されたんだと思いますが、それ自体は自分自身を守るための防衛機制というもので、こうした事故の場合にはありがちなことです。一日二日で思い出すこともあれば、数ヶ月とか。まあ、一概には言えませんね」
「でも、時間がたてば戻るんですね」
「脳に損傷はないので、おそらくは」と、先生は言葉を切った。
「そうですか。どうもありがとうございました」
「まあ、体はほとんど無傷ですからね。その点は本当に良かったですよ」
先生が去っていって、お母さんが私と並んで長椅子に腰掛けた。
「良かったね。ちょっと鼻と頬に擦り傷があるけど、ちゃんと治るって」
――記憶の遮断?
自分を守るために……。
私はいったい何を忘れたんだろう。
穴の開いたパズルにはまるピースの形はくっきりとしているのに、そこに描かれた模様が何だったのか、まるで思い出せない。
と、その時だった。
視界の隅に、誰かいるような気がして顔を向けると、ぼんやりとした姿が見えたような気がした。
目がかすれているのかと、こすってみたけど、母の顔ははっきり見えるのに、その人の姿はやっぱりぼんやりしている。
大丈夫。
え?
大丈夫、僕はここにいるよ。
誰……なの?
鉄棒の赤錆みたいな匂いが頭の中に広がり、目の奥に剣山を押しつけて踏まれたような激痛が走る。
その瞬間、脳裏にはっきりと君の姿がよみがえってきた。
私の大切な人。
私を守ってくれた人。
私を力強く抱きしめてくれた人。
頭を抱えながら、私はその名前をつぶやいた。
――カズ君……。
「晶保、どうしたの、何か思い出したの?」
だけど、大切な人の名前を口にした次の瞬間、砂漠の底がごっそり抜けたように巨大な穴が口を開け、すり鉢状の斜面を一気に砂が滑り始める。
あっという間に膝から下が動かなくなったかと思うと、私の体は一瞬で砂に埋もれ、口もふさがれ息ができない。
手で砂をかいても手応えなくただサラサラと指の間をすり抜けるだけだ。
助……けて。
その人の名を呼ぼうと、もがけばもがくほど蟻地獄のように穴へと引きずり込まれていく。
苦……しい。
――晶保!
誰かが私の名前を呼んでくれたのに、砂時計のせまい穴に足が体が腕が、そして最後の指先が吸い込まれて沈んでいく。
時は戻らない。
ただ無情に流れるだけ。
「晶保、どうしたの、しっかりして」
――晶保……。
母の声の向こうでもう一人、血まみれの誰かが私を呼んでいる。
その声がかすれるにつれて、私の意識も遠のいていく。
君はいったい……。
誰……なの?
私に手を差し伸べる大切な人の名前を私はもう思い出すことができなかった。
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