(2-11)


   ◇


 翌朝、駅前広場で電車通学の集団と合流した時に、ちょうど階段を下りてきた野村さんと鉢合わせしてしまった。

「うわ、サイアク」

 いきなりひどいあいさつだけど、何だか野村さんらしくて笑ってしまった。

 そんな僕を見て彼女もどうやら安心してくれたらしい。

 昨日あんなことがあって気まずかっただろうに、吹っ切れたような態度で接してくれた。

「なんか、あたしが待ち伏せしたみたいに思ってない?」

「いや、そんなことはないよ」

「偶然だからね。勘違いしないでよ」

 はいはい、こっちだってタイミングを見計らってたとか勘違いしてほしくないし。

「なんか、でも、かえって良かったかも」

「なんで?」

「昨日のこと、話そうと思ってたんだけど、どう言い出したものかさ、ずっと考えてたのよ」

 ああ、そうなのか。

「昨日、あんなの見せちゃってドン引きしてるだろうけどさ、べつになかったことにしてくれとか言わないから」

 正直なところ、僕としてはなかったことにできるならそうしてくれた方がありがたい。

 気まずさという点では、僕だって野村さんと変わらないんだ。

「あと、好きなのバレちゃったでしょ。でも、邪魔するつもりもないし、あと、なんか上から目線でかわいそうとか思われるのもやだからね」

「そんなふうには思ってないよ」

 考えてもみなかったから、それは自信を持ってはっきりと答えられた。

 でも、あらためてあっさりと『好き』と言われて僕の方が動揺していた。

 学校へ通じる道を歩いていくと、いくらか軽口もはさまれるようになっていた。

「誘惑したらワンチャンあるかなんて期待してたんだけどね」

 僕がヘタレなせいで、セーフだったんだよな。

 危ないところだったよ。

「あたしさ、ショウワ君のこと見習わなくちゃって思ってね」

「どんなところ?」

「次にね、いい人見つけたら、先にどんどんアピールしちゃおうって」

 ああ、そういうことか。

 あの登山合宿で、もしかしたら運命がねじれてた可能性だってあるわけだ。

 僕がトランプで勝っていたら、写真を撮る罰ゲームの相手が上志津さんでなかったら、他にも、頂上で上志津さんに僕からちゃんと声をかけにいかなかったら、今頃違う世界を見ていたかもしれないんだよな。

 必死すぎて気づいていなかったけど、結果として僕がチャンスを逃さなかったってことになるんだろうな。

「それにさ、ショウワ君だけじゃなくて、晶保だって自分に巡ってきたチャンスに自分から手を伸ばしてつかんだんだよね」

 その観点はなかったな。

 でもたしかに、目の前の山に登ろうと誘ってくれたのは上志津さんだったんだっけ。

 やっぱり僕だけじゃないんだ。

 上志津さんだって頑張ってくれていたんだな。

 登山合宿の思い出がよみがえると胸が熱くなる。

 だけど、ついこの間のことなのに、それからの出来事が多すぎて、僕の中ではもうずいぶん遠い記憶になりつつある。

 野村さんがうつむきながらつぶやいた。

「あたしだって、ショウワ君のこと結構早くから見てたのに声をかけていいのかどうか迷っちゃってさ。その差だよね」

「見てたって、何を?」

 僕の問いかけに顔を上げた野村さんは向日葵みたいな笑顔だった。

「目立たないところでいいことしてたじゃん。いつだったかさ、校門の前で子供の靴が落ちてるのを拾って自転車のお母さん追いかけてたでしょ」

 ああ、そういえば、入学してすぐのころに、そんなことがあったな。

 後ろに幼稚園の子供を乗せた自転車がずいぶん先の方まで行っちゃってたから、結局駅の方まで走って信号で追いついたんだっけ。

「見ててキュンとさせられちゃったよ。もしかして、自覚なし?」

 まあ、目立たないってところは自覚あるけど、キュンとは無縁だと思うけどな。

 たぶん、いつもうつむいてばかりいたから落ちているものに自然と目が行ってたんだと思う。

 そういえば、登山合宿の時に上志津さんが、僕のことを褒めてる女子がいたって言ってたけど、あれは野村さんだったのか。

「僕はそんなに中身のたいした人間じゃないよ」

「ああ、君ね、勘違いしてるよ」と、野村さんが僕をまっすぐ指さした。「あたしが好きなのはね、顔」

 はあ?

「冗談でしょ」

「見る目がないって?」と、上志津さんみたいに詰め寄られた。「そりゃさ、分かりやすいイケメンじゃないけど、あたしの好みなの。女子がみんなアイドルみたいな男子ばっかり追いかけると思ったら大間違いだぞ。男子だって、全員が晶保のことを好きとは限らないでしょ。あたしにはあたしの好みがあるの」

 外見のことで褒められたことがないから、背中に毛虫を入れられたみたいになんかむずがゆくて落ち着かない。

 昇降口まで来たところで、野村さんが僕に耳打ちした。

「ねえ、ちょっとは落ち込んで強がってるんだからさ。少しは優しくしてよ。ほんのちょっぴりでいいから」

 さすがに冗談なのかどうかの判断がつかない。

「晶保には内緒にしておくよ」

 たたみかけられて身動きできない僕を見て、それが返事だと受け取ったんだろう。

 先に靴を履き替えた野村さんは僕に背中を見せながら手を振った。

「一緒にいて晶保に誤解されたくないから先行くね。じゃあね」

 もしかしたら、昨夜の奇妙なメールは野村さんだったんじゃないのかな。

 でも、もう消えてしまったものを今さらほじくり返しても意味がないし、こんなに前向きな野村さんの傷に塩を塗り込むのは失礼だから、聞かないでおくことにした。

 協調性の発動だ。

 下駄箱を開けた僕は、上履きの上に置かれた手紙を手に取った。

 いつもと同じ薄紫の封筒に見慣れた便箋。

『あんまり多いと飽きられちゃうか』なんて言われた時は、『そんなことはないよ』と即答したのに、たしかに最初に受け取った時のような感動は薄まってきている。

 慣れっていうのは恐ろしいものだ。

 もしかして、昨日じゃなくて、今日だったら、野村さんの誘いを受けてしまっていたかもなんて、そんなもしもの分岐を思い浮かべたりして頬が緩んでしまう。

 だけど、今朝の手紙は中身がまったく違っていた。

《君がいなくなってしまってから、私はずっと抜け殻のように生きてきました》

 ――え?

 どういうこと?

 ゆるんでいた頬が引きつって、思わず口の中を噛んでしまった。

 封筒や便箋はいつもと同じだし、藍色のインクで書かれた文字は上志津さんのものだ。

 最後には《晶保》と署名もある。

 いったいどういうことなんだろう。

 字を真似した誰かのイタズラにしてはずいぶんと上手だし、上志津さん本人が書いたにしてはまるで意味が通じない。

 口の中にじんわりと血の味が広がる。

 ――君がいなくなる。

 僕が?

 いなくなるって?

 いや、ここにいるけど。

「おう、森崎、何してんだ」と、池田が隣に立っていた。

「あ、いや、おはよう」

 クラスの他の連中も登校してきてしまったので、僕は下駄箱の中に手紙を隠して、とりあえず教室へ向かうことにした。

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