(2-9)
◇
晴れてつきあうことになった僕たちだけど、学校では二人の関係をまだ内緒にしていた。
まわりの反応が予想できなかったし、中学の時の彼女の事情もある。
校内では席が隣とはいえ、これまでと変わらない態度で言葉を交わす程度にとどめていた。
僕もその方が気楽だった。
傘のことで先輩たちと揉めた事件も、上志津さんが適当にはぐらかしていたから、女子たちはたまたま僕が居合わせただけだと思ったみたいで、そのうち興味がそれたようだった。
放課後もいったん僕が図書館へ行き、部活へ行くみんなと別れた彼女と待ち合わせてから帰るというスタイルを続けていたから人目につくことはなかった。
でも、二人だけの秘密があるというのは、日常を鮮やかに彩る絵の具としてはそれだけで充分に印象的で、彼女のちょっとした仕草や、授業中人目に隠れて僕だけに見せるくだけた表情は、紛れもない宝物だった。
そんな僕らの関係は文部科学省に模範的男女交際として推薦されそうなほど清く正しく美しいものだった。
「男女交際の評価で大学に推薦してもらえないかな」と、彼女が笑う。
「そんな科目あるわけないじゃん」
「世の中甘くないか」と、耳が染まる。「私たちは甘いのにね」
まさかのダジャレに頭がフリーズしてしまう。
無反応の僕の脇腹に彼女の肘がねじ込まれる。
「もう、ちゃんとツッコんでくれないと恥ずかしいでしょ」
「だってお笑いコンビじゃないんだから」
「ええ、もう解散?」
「いや、それは勘弁してください」
勉強といえば、図書館で待ち合わせてそのまま課題をやってから帰る場合もあって、協力し合って問題を解いた時の達成感はいかにも青春といった楽しみだった。
夜は夜で、スマホにメッセージが送られてくる。
ある夜は砂が落ち始めたばかりの砂時計の写真だった。
《私たちの未来の形はまだこんな感じかな》
《そうだね。だけど、砂って、何回やっても円錐形になるよね》
《君が言うと、ロマンのかけらもないよね》
《いつも幸せの形は同じってことなのかも》
《それはロマンのクリーム盛りすぎ》
《甘すぎた?》
そこでメッセージは途切れてしまった。
なるほど、ツッコんでくれないと恥ずかしいな。
二人で保存した最初のメッセージ画面はあっという間に過去へと流されてしまっていたけど、さかのぼって初々しさを懐かしむ暇もないほど未来が積み重なっていた。
下駄箱のラブレターも毎朝配達される。
《甘すぎて寝落ちしちゃいました》
そんな一言だけど、それだけでその日一日が朝から輝き出す。
僕は彼女の魔法に魅了されていた。
魔法使いは僕じゃないよ。
だって、僕は最初から君の魔法の虜だったんだからね。
野村さんは僕らが付き合い始めたことに勘づいていたみたいだけど、席が離れていたせいか、上志津さんを取り巻く女子たちの輪から一歩距離をおいているようで、あえて噂を広めるようなことはしないでいてくれた。
「べつに邪魔するつもりはないし」と、僕への態度は相変わらず素っ気ない。
なのに、七月初めの席替えで窓側と廊下側で僕らの席が離れた時は、「残念だったね。今回はあたしも協力できないよ」と、わざわざ声をかけてくれたりした。
でもまあ、すでに気持ちの通じ合っていた僕らからしてみれば、教室の席の位置なんて障害にはならなかったし、親しくしすぎて気づかれる心配がなくなってむしろ都合が良かった。
左襟の合図もすっかりおなじみになったし、不意打ちのように送られてくるスマホのメッセージもなんてことのない日常に刺激を加えるスパイスだった。
そんなふうに僕らの時間は順調に流れていたけど、七月中旬の期末試験が近づいていた。
これが終われば夏休みと浮かれそうな反面、野村さんみたいに前回の成績がギリギリだった人たちは、挽回しないと補習が待っているから、教室はいつになくピリピリとした雰囲気に包まれていた。
準備期間中、前回同様上志津さんは図書館で女子グループの勉強会に参加していたから、僕は教室に残って復習に取り組んでいた。
どういうわけか、今回は野村さんも図書館へは行かず、教室に残っていた。
「ねえ、ショウワ君さ」
他の生徒がいなくなったのを見計らったのか、僕の前の席にまたがって座ると、背もたれに腕を置いて話しかけてきた。
「あたしに数学教えてくれないかな」
「まあ、いいけど、僕も教えられるほどできるわけじゃないよ」
「あたしよりましだからいいじゃん」
そうつぶやきながらプリントを取り出す。
なんだよ、まだ一問も解いてないじゃんか。
「部活で忙しかったんだからしょうがないでしょ」
口に出してないのに、思ったことがすべて読み取られてしまうのは困る。
「いつも協力してあげてるんだから、こういうときに愚痴ぐらい聞いてくれたっていいじゃん」
まあ、それくらいならお安いご用だ。
実際、野村さんとはあまり緊張しないで話せるようになっていたし、日頃の見守りに対する感謝の気持ちもある。
それになにしろ、僕は『協調性』が取り柄なのだ。
狭い机を分け合いながら最初の計算問題に取り組み始めた途端、予告通り愚痴が始まった。
「今回は頑張らないとまずいのよ。もし赤点だったら補習で夏休み中の部活に出られなくなっちゃうでしょ。そしたら試合にも呼ばれなくなっちゃうから、部活続ける意味までなくなっちゃうし」
「バスケ好きなんだね」
「まあね、他にも好きなものはあるけど」
他にも趣味があるのは知らなかったなと顔を上げたら、思い切りにらまれていた。
え、何?
「分かってるだろうけど、あたし、勉強する気はないからね」
どういうこと?
「晶保がいないところであんたが調子こいて浮気しないか監視するの」
「す、するわけないじゃんか」
「どうだか。女子慣れしてない男ほど、一度カノジョができると自信つけちゃって、反動でやらかしたりするもんじゃないの」
――ぐっ……。
思わず窓の外へと視線をそらすと、夏の日差しがまぶしすぎて視界が一瞬暗くなる。
やらかす可能性なんてないけど、ありそうで反論できないのが情けない。
「ねえ、ショウワ君さ」と、呼ばれて顔を向けると、野村さんが頬杖をつきながら僕を見つめていた。「あたしだったら?」
――え?
「あたしだったら、絶対にバレないようにしてあげるけど」
「な、何を?」
「だから、隠れてつきあうの」
いや、いやいや、なんで?
「ほら、いざというときに恥をかかないように、あたしでいろいろ練習してみればいいじゃん。ショウワ君、女子慣れしてないからすぐにテンパるでしょ」
全部バレてるし。
「もうキスくらいしたの?」
え、な、何言ってんの?
答えられずに顔が熱くなる。
それがそのまんまの答えと受け取られたらしい。
「だからさ、あたしと練習してみるとか」
のぞきこむように顔を近づけてくるから、僕は思わずのけぞった。
野村さんのささやきが僕を揺さぶる。
「練習だもん。本気じゃないんだし、回数なんかに入らないでしょ」
い、いやいや、だめでしょ。
そうやって僕を試そうとしてるんだろうけど、そんな罠には引っかからないよ。
「そんなことできないよ」
「なんでよ」
「だ、だってさ、もしも野村さんにカレシがいたとしてさ」
「なんで、いないって前提で話すのよ」
「あ、いたならゴメン」
「いないけど」
なんなのさ、これ。
「だから、あの……ええと、野村さんだって、カレシがそんな誘いを受けるような人だったら嫌でしょ」
「うん、やだね」と、僕をにらみつけた。「絶対に嫌」
「だ、だから、僕は……そんなことできないし、したくないよ」
「だろうね」と、つぶやいたきり、野村さんは黙ってしまった。
追及はうまくかわせたんだろうか。
元々そんなつもりなんかなかったんだし、もちろん後ろめたさとか、やましい気持ちなんかない。
そもそも上志津さんはモテたことのない僕に舞い降りた天使なんだぞ。
世界を変えてくれた彼女以上の人がいるわけないじゃんか。
考えてみれば、僕は上志津さんとは話せるけど、他の女子とはいまだに落ち着いてしゃべることができない。
それはある意味、よほど相性がいいっていうことなんじゃないだろうか。
自分で言うのは恥ずかしいけど、やっぱり僕らの出会いは運命で決まっていたんじゃないのかな。
だから、堂々としていればいいだけなんだよ。
どうしても弱気な自分が顔を出しそうになるけど、少しずつ直していくしかないだろうな。
淡々と計算問題を解き進める野村さんに僕はたずねた。
「でも、どうしてそんなこと言うの?」
「悪い?」と、シャーペンをカリカリ動かしながら答える。
「だって、友達なのに」
「晶保が?」と、ようやく顔を上げてくれた。「前にも言ったでしょ、友達じゃないよ」
はっきりとした口調で彼女は続けた。
「あたしはただ晶保を利用してるだけだよ。他のみんなもそうだよ」
オブラートで包むとか、隠すつもりもないらしい。
「女子ってさ、男子に人気のある女子はとりあえず持ち上げておこうとするものだからね」
なんで?
そんな疑問符が僕の顔に浮かんでいたらしい。
「だって、自分の好きな物の悪口を言われて喜ぶ人はいないでしょ。自分が聴いてる曲をけなされたり、自分が楽しみにしてるアニメを馬鹿にされて友達になろうと思う?」
まあ、それはないか。
「男子だってさ、自分たちが狙ってる女子の悪口をさ、『あの子裏ではヤバイから、あたしにしなよ』とか言ってくる女子がいたら、ウザいと思うだけじゃん。だからとりあえず持ち上げておくわけ」
なるほど。
あざといって思われたら致命傷だもんな。
「だからさ、気をつけな。晶保があんたとつきあってることがバレたら、まともな男子はそこで諦めるでしょ。そうしたら、女子の方も、晶保を持ち上げる意味がなくなるからね。今までみたいにお姫様じゃいられなくなるかもよ」
それはまさに上志津さんから聞いていた中学の時の話にそっくりだった。
まわりが勝手に崇めたてまつり、価値がなくなったと見なせば、一気におとしめる。
僕がその原因になるなんて考えてもみなかった。
「ちゃんと守ってあげられるの?」
覚悟はしてるつもりだけど、うまくいくかどうか、自信はない。
野村さんはそんな僕の弱さをえぐるようにたたみかけてきた。
「だからさ、あたしと仲良くしてるように見せかけておけば、晶保との関係をごまかせるんじゃない?」
「でも、やっぱり、それはできないよ。自分でなんとかするしかないさ。根本的な解決にはならないんだし」
なんとかそう答えると、野村さんは腕を前に突き出してそのまま背伸びをした。
「だめかあ。そういうところだよね。あたし、結構本気だったんだけどな。自分が間違ってなかったのがかえって悔しいよ」
はあ?
「登山合宿の時に、ショウワ君が女子の部屋に来たじゃん。あのとき、晶保の写真を撮りたいって言われて、『あたしじゃないんだ』ってガッカリしてたの、気がつかなかったでしょ」
「え、そうだったの?」
思わず正直に驚いてしまったのがいけなかったらしい。
プリントをクシャッとつかんで野村さんが立ち上がった。
「気づいてすらもらえなかった時点で、あたしの負け」
野村さんが鞄に荷物を放り込んでいると、彼女のスマホが急にうなりはじめた。
女子グループのメッセージが流れているらしく、僕に画面を突きつける。
「晶保が男子から呼び出されたってよ」
図書館で勉強しているところに声をかけた男子がいるらしい。
こうして画面を見ている最中にも、どんどんメッセージが流れていく。
《あの人、F組だよね》
《サッカー部》
《なんか別れたばかりだって》
《うそ、マジで?》
《手早っ》
《D組の真希がコクりたいって言ってたのに》
《恨み買いそうw》
《姫とじゃ勝ち目ないって》
《ひどっ》
この流れからすると、女子連中は上志津さんと僕がつきあっていることを本当に知らないようだ。
それに裏では本当に『姫』と呼ばれているらしい。
だけど、今はそんな情報分析をしてる場合じゃない。
「どうすんの、カレシ」
「行くよ」
即答した僕に、野村さんがため息をつく。
「行かないでよ」
「なんで?」
「泣くよ」
野村さんの頬が震え出す。
ちょ、えっ……。
ど、どうしたらいいんだよ。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
でも、僕にできることなんて何もない。
もたもたしていると、肩をつつかれた。
「もう、何してんのよ」と、野村さんの目に涙が浮かんでいる。「早く行きなよ。泣くよ」
どっちなんだよ。
どっちも同じなのに正解が分からない。
こらえきれなくなった彼女が目を閉じ、涙がこぼれ落ちた。
「ゴメン」
僕は荷物をまとめて図書館へ向かって教室を飛び出していた。
いや、逃げたんだ。
僕は何も変わってなんかいない。
変われるわけがない。
今の僕にはこの状況は荷が重すぎる。
頭の中でお経のようにゴメンゴメンと何度も繰り返しながら僕は階段を駆け上がった。
と、うまいぐあいに図書館に通じる渡り廊下まできたところで、鞄を持った上志津さんと出会えた。
中まで探しに行ってたらみんなに見られていただろうから、ちょうど良かった。
「あ、カズ君」
思ったよりも表情に動揺は見られない。
「大丈夫だった?」
「え、どうして……」
僕が知っていたことに驚いているようだった。
「野村さんに聞いたんだ。サッカー部の人に呼び出されたって」
「あ、うん、そうなんだけどね」と、彼女が体をよじりながらうつむく。「土曜日の花火大会に行こうって誘われたの」
地元の笹倉花火大会は毎年十万人以上の集客を誇る県内でも有数の大規模イベントだ。
だけど、今度の土曜日は試験期間に入ってからの中休みだ。
クラスのみんなも行きたがっていたけど、勉強しなくちゃならないのはもちろんだし、赤点候補の連中の目もあって遠慮がちな雰囲気ができあがっていた。
だから、他のクラスから誘う男子が現れるとは予想外だった。
「もちろん、断ったよ。他に好きな人がいるからってはっきりと」
「あ……ありがとう」
その返事で合っているのかは自分でもよく分からなかったけど、とっさに左襟をつかんでいたせいか、彼女の表情も和らいだようだった。
「今までみたいにあやふやにごまかすんじゃなくて、本当に好きな人がいるから自信を持ってちゃんと断れたよ。おかげで、あんまり気も重くならなかったし。私の方がありがとうだよ」
それがいいことなのかどうかはよく分からないけど、僕は何もしてないのにお役に立てたのなら何よりだ。
「でも、カズ君が迎えに来てくれてびっくりしたよ」
「野村さんに行けって言われてさ」と、僕は半分嘘をついた。
「さすが、頼りになるカレシだね」
「出番はなかったみたいだけど」
「ううん。来てくれて嬉しかったよ。もう勉強はいいから、一緒に帰ろうよ」
僕らは並んで昇降口へ向かった。
試験準備期間中で部活は休みだから校庭は空っぽで、蝉の声が賑やかだった。
頭を押さえつけるような日差しに照らされてアスファルトが揺らいでいる。
学校を出ていつものように人通りの少ない脇道を歩きながら、僕は野村さんから聞いた話を伝えた。
人気者を利用している女子の思惑、僕らの関係が明るみに出たときに予想される反応、そして、野村さん自身がそれを言っていたことなどだ。
ただ、泣かれたことだけは隠しておいた。
「知ってたよ、私も」
思いがけずサバサバとした反応だった。
「中学の時に思い知ったもん。裏切られた時は悲しかったけどね。だけど、梨奈みたいにはっきりさせてくれた方が意外と楽だよ。実際、腹の探り合いみたいなことってあるから疲れちゃうよね」
それにね、と彼女は鞄を後ろ手に持ち直して肩を左右にゆったりと揺らしながら笑みを浮かべた。
「私ね、梨奈のことは友達だと思ってるよ。むしろ、友達だからそういう裏のこともカズ君に話したんじゃないかな」
「つまり、僕がこうしてバラしちゃうことも想定していたってこと?」
「たぶんね」
ヤバい、見事に乗せられて、狙い通りに動いてたってことか。
『調子に乗るんじゃないよ、少年』
野村さんのにらみ顔が思い浮かんでしまった。
だからといって、泣いたことまでは明かしてしまっていいわけじゃないんだろう。
それが正解なのかどうかは分からないけど、結局、僕はしゃべらなかった。
「でも、分かってはいても、さすがになんか疲れちゃったね。人を好きになるのって、もっと簡単なことだと思ってたのにな」
そうつぶやいた彼女が慌てたように顔の前で手を振った。
「あ、違うの。言い方悪くてごめんね。カズ君は何も悪くないよ。むしろ感謝してるんだからね」
昔のこともあるし、僕が野村さんに対して感じたのと同じように、上志津さんだって他の男子に恨まれずに断るのは気をつかうだろう。
割り切っているようなそぶりを見せても、やっぱり落ち込んでるんだろうな。
本当は僕が盾や杖になるべきなのに、全部彼女に任せてしまっているのがいけないんだ。
「あ、あのさ……」
「何?」
「こんな流れで言いにくいけど、よかったら僕と一緒に花火を見に行きませんか」
花火大会は土曜日で、勉強は日曜日にやればいい。
ふだんちゃんと頑張ってるんだし、息抜きだって必要だ。
「うん、うん、行こうよ。絶対だよ。誘ってくれて嬉しいよ」
大きく目を見開いて何度もうなずくと、彼女はいきなり僕の腕に絡みついてきた。
うわお。
でもそれは、腕を組んで歩くというよりも、警察に連行される容疑者みたいで、引っ張られるように体が傾いてものすごく歩きにくかった。
おまけにブラウスの袖ごしに伝わる君の熱が僕の心臓に火をつけたせいで、脇汗がしたたりそうだった。
汗対策に中にTシャツを着てても何の役にも立っていなかった。
駅前に出る頃には人目を気にして離れたけど、腕を組んで歩くってこんなに大変なことだったんだな。
また一つ、君に教えられたよ。
「家に帰ったらさっそく勉強頑張らなくちゃね」
そう言って手を振りながら彼女は駅の階段を上っていった。
実際のところは何もできずに固まっていただけだったけど、はしゃぐ彼女を受け止められたのは僕にとって大きな一歩だった。
花火大会ではもう一歩前に進めるだろうか。
今の僕には、それもまた楽しみな試練だった。
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