(2-8)
◇
校門を出て角を曲がり、学校が見えなくなったところで、彼女が立ち止まった。
どうやら校内の人目を気にしていたらしい。
僕らは人通りの少ない脇道に入ると、どちらからともなく自然と手をつないだ。
走ったばかりで汗でぬるっとしてないかと一瞬気になったけど、手よりも顔からの方がだくだくだった。
「暑いよね。すごい汗だよ」
歩きながら彼女がハンカチを出して僕の額に押し当ててくれたけど、前が見えなくなってつまずきそうになってしまい、いったん手を離す。
ふいてもらってもかえって汗が噴き出してしまう。
なかなかカッコよくうまくなんていかないものだ。
大きな木が茂った道端の神社の境内に自然と足が向いて、少し休憩することにした。
錆びたブランコに並んで腰掛けると、木々の葉の間からこぼれた青空のかけらがビーズのように地面に散りばめられていた。
僕はポケットから丸く固まった自分のハンカチを取り出して顔の汗をふいた。
いい匂いのする彼女のハンカチに比べて僕のはカビ臭い。
これからはちゃんと洗濯してアイロンをかけたのを毎日用意しないといけないな。
そんなことを考えていたら、彼女が前髪を上げて乾かしながらつぶやいた。
「私ね、いろんな人から告白されるんだけど、好きな人に好きになってもらえたことがなくてね」
中学二年生の時に好きな人にバレンタインのチョコを渡したら、からかっているんだろうと、信じてもらえなかったんだそうだ。
「思い切って告白したのに嘘告白みたいにされちゃって、すごく悲しかったし、それがきっかけでクラスから無視されるようになっちゃってね」
「え、なんで?」
「その前のクリスマスに、クラスで人気だった男子に告白されてて断ってたんだけど、『他に好きな人がいるから』って理由を言ってたのね。で、私がバレンタインで告白して相手が誰なのか分かった途端、その男子が仲間はずれにされちゃって、それをきっかけに、私が悪いってまわりの女子にも攻撃されちゃってね」
僕みたいな非モテ男子がクラスの人気女子からチョコをもらったら、ドッキリか何かかと信じられなくて、同じような態度を取ってしまったかもしれない。
ていうか、この一ヶ月、まさにそうだったんじゃないかよ。
今さらながらに自分が情けなくて土下座で謝罪したくなる。
彼女の声は淡々としていた。
「今思えば人気のある男子のことを好きだった女子たちの嫉妬だったんだろうけど、私が好きだった人にはフラれちゃうし、みんなからは無視されるし、学校に居場所がなくなっちゃってね」
「あ、だから、離れた高校に来たんだ」
「うん」と、彼女はつま先で地面を蹴って軽くブランコを揺らした。「中三の一年間、保健室登校だったんだ」
錆びついたブランコが悲鳴のような音を立てる。
「そのときに、すごく嫌だったのが、『あんなさえない男子じゃなくて、人気者の男子とつきあってれば良かったんだ』ってまわりに言われたことなのよ」
僕の中学でも、イケメン男子がクラスの人気女子とつきあうみたいなのはあったな。
お似合いだってみんなに囃し立てられていたけど、クラスが変わったら、お互いの相手も変わってたっけ。
考えてみたらあれも、こうあるべきだと押しつけられた役割を演じていただけなのかもしれない。
モテたことのない僕なんかはつきあってる連中がうらやましかったけど、実際には、まわりの目に縛られて窮屈だったのかもな。
「私ね、自分じゃない自分の姿を押しつけられて責任を取らされるのが嫌だったの」
彼女のつぶやきは深い井戸の底に落ちた滴のように僕の心に澄んだ音を響かせた。
「だから、山でカズ君に『自分が自分じゃない自分にされてしまうのは嫌です』って言われた時にハッとしたの。おんなじことをしちゃってるんだなって」
ああ、そういうことだったのか。
状況は違っても、似たような気持ちだったんだ。
「だけど、だからこそ、カズ君なら、私のこと、分かってくれるって信じられたの」
――そうか。
今までつらかったんだろうね。
「カズ君と一緒にいるときは自分のままの自分でいられるような気がしたの」
お互いに引かれあい、相手のことを想い合っているのに、僕は彼女のことを何も知らなかったんだな。
美人というだけで勝手にモテると決めつけて、同じ悩みを持つ一人の人間だってことを考えもしなかったんだ。
それはとても失礼なことだよね。
――君に約束するよ。
もう自分を卑下したり、君にふさわしくないなんて勝手に判断するのはやめるよ。
逃げない。
ずっとそばにいる。
そばにいさせてほしい。
「手紙、大事にするよ。十年先も、二十年先も」
そんな僕のつぶやきに、はじけるように彼女が顔を上げた。
「だったら毎日書いちゃおうかな」
「それはうれしいけど、大変じゃない?」
「あんまり多いと飽きられちゃうか」
またうつむいてブランコを揺らす。
「そんなことはないよ。世界で一番大切な人からの手紙だから」
「せまいよ、君の世界」
彼女は瞬きをしながら僕に微笑みを向けてくれた。
「こんな僕でごめんね」
「どうして?」
「ずいぶん待たせちゃってさ」
「いいよ。私のために頑張ってくれたんだもん」
「ずっと自信がなくってさ。取り柄なんかないし」
「かっこいいじゃん」
「そんなわけないでしょ」
「見る目がないって?」と、彼女が軽くブランコをこぐ。「じゃあ、君が私に魔法をかけたんだよ。君のことが素敵に見える魔法、私を虜にする魔法を」
そして飛ぶように着地すると、彼女はかかとでくるりと振り向いた。
「私に魔法をかけるなんて、それだけでもたいしたものだよ」
僕も立ち上がろうとしたら、ブランコが膝裏に当たってよろけそうになってしまった。
彼女が口に手を当てて笑い出す。
「リフトの時もふらついてたよね」
ああ、そんなこともあったっけ。
いつの間にか共通の思い出がたまっていたんだな。
ここまでの時間は、二人並んで歩くための助走だったんだろう。
ぼんやりとそんなことを考えてふと顔を上げたら、息がかかりそうな距離に彼女の顔が合って思わず呼吸が止まりそうだった。
こ、これは……。
な、何の距離だよ。
頬を染めた彼女の唇に目が行ってしまう。
――いやいや、待てよ。
思い込みだろ。
まだ焦るなよ。
やっと気持ちが通じ合ったところなんだぞ。
おまえはいったい何をしようとしてるんだよ。
ついさっきまで、手を握るのだってためらっていたくせに。
平手打ちされて頬に真っ赤な手形のついた自分しか想像ができない。
「か、帰ろうか」
「うん、そうだね」と、何事もなかったかのような口調で彼女が空を見上げる。「雨も降りそうだし」
そうだよ、今はこれでいいんだ。
神社の木陰を出て、僕らは駅へ向かった。
さっきまで青空に輝いていた入道雲が、真っ黒に空を覆っていた。
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