(2-7)
◇
その日の昼休み、上志津さんがみんなに誘われて購買に行っているタイミングで、野村さんが弁当を持って僕の席に来た。
「あたしに、ここ使わせてよ」
なるほど、上志津さんたちのグループが集まるから僕がいたら邪魔なんだろう。
「いいよ。もともと野村さんの席だったんだから」
「あたしの席使っていいよ」
鞄を持って野村さんの席に移動したら、消しゴムが置いてあった。
片づけ忘れたのかと思ったら、机にシャーペンでメッセージが書いてあった。
《スマホで放課後図書館に誘う。その後、一緒に帰る。読んだら消す》
なるほど、そのための消しゴムか。
弁当を広げる動作の流れでとりあえず消しておく。
スパイかと思ったら、鬼の演出家だったか。
大根演技で吸い殻山盛りの灰皿を投げつけられたら困るので、監督さんの指示通り、スマホを取り出してメッセージを送った。
台本通りだから、指に迷いはなかった。
すぐに既読がついて《いいよ》と返信も来た。
購買から戻ってきた上志津さんに左襟の合図を送る。
両手にパンとドリンクを持っていた彼女は久しぶりにゲットしたクリームチーズ入りフォカッチャを軽く振って返事をしてくれた。
午後の授業は教室移動で話すタイミングがなかった。
ホームルームの直前にメッセージが来た。
《みんなが部活に行ったら行くから待っててね》
すぐ隣にいるのに、声を聞かれないように配慮してくれたんだろう。
僕は左襟に右手をあてて『返信』した。
こういったやりとりができるようになるのにずいぶん時間がかかったけど、一度きっかけがつかめれば楽しくてしかたがない。
ほんのちょっとした約束だって、それがあれば未来を自分たちで作っていける。
未来は未知で漠然としたものだと思っていた。
だけど、決めてしまえばその通りになる。
一人だと未定なのに、二人だと予定になる。
それは僕にとって初めての経験だった。
ホームルームが終わると、野村さんが鞄を持って上志津さんのところへやってきた。
「晶保、帰るの?」
「あ、うん、ちょっと用事を済ませてからね」
「へえ、用事って何?」
――知ってるくせに。
なんか僕の方にチラチラ視線を送ってくるのやめてください。
言葉を濁す上志津さんに対して、もっといじってくるのかと思ったら、野村さんはあっさり引き下がった。
「じゃあ、あたし、部活行くね」
「う、うん、また明日」
思惑通りからかえたのがご満足いただけたらしく、野村さんは軽やかな足取りで机の間をすり抜けていった。
他の女子たちも声をかけに集まってきていたので、約束通り僕は先に図書館へ行っていることにした。
窓際の自習席に座って数学の宿題を広げてみたものの、上志津さんのことばかり考えてしまって勉強なんて手につかなかった。
窓の外では、青い壁を這い上るように入道雲が天に向かって伸びていく。
今朝は曇ってたし、もしかしたらまた雨が降るかもしれないな。
とりとめのないことを考えながらちょっとうとうとしかけた頃だった。
急いできたのか、額に汗を浮かせながら上志津さんが現れた。
「ごめんね。おしゃべり長引いちゃって」と、顔をあおぎながら前髪を整える。
「宿題やってたから平気だよ」
「あ、それ、どうだった?」と、僕のプリントをのぞき込んだ彼女が笑う。「やってないじゃん」
バレてしまった。
「まあ、いろいろ考え事しちゃっててね」
「私のこと?」
一気に顔が沸騰する。
図星ですけどね。
受験勉強に集中している三年生の先輩もいたから、このまま話を続けるわけにもいかず、僕らは図書館を出て昇降口へ向かった。
下駄箱を開けたとき、手紙のことを思い出した。
「今朝、手紙ありがとう。びっくりしたよ」
「俺にもモテ期が来たとか思ったでしょ」
ちょ、え、なんで……。
「あ、冗談のつもりだったのに」と、頬を膨らませる。「残念でした、私で」
「ち、ちがっ……くて」
彼女はわざとらしく拗ねた表情で靴を履き替えている。
「あ、あ、あの……ですね、正直に白状します。手紙を見たときに、喜んだのは事実です。だけど、ぼ、僕には、その、こ、心に決めた人がいるので、ですね、どう言って断ったらいいのか、申し訳なくて気が重くなってしまって」
「ふうん」と、上志津さんは平板な口調で首をかしげた。「じゃあ、私も、そうやって断られちゃうのかな」
「え、どういうこと?」
「だって、心に決めた人がいるんでしょ」
「だ、だからそれはその、つまり……」
うつむく彼女が僕との間に隙間を空ける。
「も、もし違う人だったら断らなくちゃという意味で」
どんな言い方も空回りしてしまう。
心の中で声がする。
言えよ。
今だろ。
今しかないだろ。
おまえのためじゃない。
彼女のために言うんだよ。
不安なのはおまえだけじゃない。
彼女を安心させてやれるのはおまえだけなんだぞ。
おまえはもう、回し車のハムスターなんかじゃないんだ。
――分かったよ。
弱気な自分と決別するときが来たんだ。
昇降口を先に出ていこうとする上志津さんの背中に向かって、僕ははっきりと想いを告げた。
「僕の心に決めた人は、あなたです。かみし……晶保さん」
言ってみると、それはあっけないものだった。
言葉は何の抵抗もなく飛び出し、まっすぐ彼女の胸に刺さった。
僕にはそれが分かった。
だって、振り向いた彼女が涙ぐんでいたからだ。
「ずっと待ってたの」と、こぼれ落ちる涙をぬぐうことなく彼女がつぶやいた。「ずっと待ってたんだからね、ずっと……」
僕は一歩踏み込んで彼女の頬を伝わる涙を指でぬぐってあげた。
「好きです。僕のカノジョになってください」
一歩下がって彼女が目を伏せる。
「ああ、もう、泣かせたな」と、かすれた泣き笑いを持て余している。「泣かせたでしょ、私のこと。責任とってもらうからね」
――うん。
大丈夫。
全部受け止めるから。
「私、すごくわがままだからね」
知ってる。
目の前に山があったら登っちゃうもんね。
「私、すごく甘えん坊だからね」
知ってる。
もうずいぶん振り回されたし。
だけど、これからは全部、僕が受け止めてみせるから。
僕は一歩間合いを詰めた。
彼女は涙で崩れた笑顔を隠すように手の甲で頬をぬぐっていた。
「よかった。私、今、やっと恋をしてる」
うん、待たせてゴメンね。
「私さ、ちゃんと息できてるよね」
ちょっとむせったように咳が出るのを手で押さえている。
「大丈夫だよ。落ち着いて」
「すごくドキドキしてるけど、心臓だってちゃんと動いてるんだもんね。ずっと、ずっと待ってたんだから」
こんなに喜んでくれてるのに、どうして僕は不安に思っていたんだろう。
もっと早く伝えるべきだったんじゃないか。
不安に思っていたのは彼女の方だったんだ。
泣いたり、笑ったり、落ち込んだり、拗ねたり、いろんな表情を見せてくれるのは、全部僕のためだったんだよ。
だからちゃんと受け止めてあげなくちゃ、不安にさせてしまうばかりなんだよ。
やっと気がついた。
ようやく確信が持てた。
彼女は、ごくふつうの女の子なんだ。
だけど、僕にとって特別な女の子なんだ。
この世で一番大切な人なんだ。
「行こっか」と、彼女が僕に手を差し伸べて歩き出す。
手を握るのかと思ったら、するりと逃げられてしまった。
「捕まえてみて」
出遅れた僕をおきざりにして君はどんどん駆けていってしまう。
きっと、真っ赤な目を見せたくないんだろう。
涙で濡れた頬を乾かしたいんだろう。
君と同じスピードで駆け出すと、同じ時が刻まれ始める。
一瞬一瞬がキラキラと光を放ち出す。
雨上がりの乾いた道路に残った水たまりを飛び越える後ろ姿ですら、スローモーションで記憶されていく。
君はよく時を切り取る魔法を使うよね。
僕は山のリフトでも似たような感覚に襲われたことを思い出していた。
あれからずいぶん回り道したけど、僕らの見ている風景はようやく一つに重なったんだ。
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