(2-6)


   ◇


 翌朝、僕はアラームが鳴る前に目が覚めた。

 こんなことは小学校以来だろうか。

 いつもは何度も声をかけられてようやく朝食に下りていくものだから、親が目玉焼きを皿から滑り落としそうになっていた。

「朝から驚かさないでよ、まったく」

 早起きして嫌味を言われるなんて理不尽だけど、今朝はそんなことはどうでも良かった。

 昨日までと世界が違っていた。

 窓の外は曇っているのに濡れた木々の葉っぱのきらめき一つ一つが目に飛び込んできたし、いつものトーストをかじる音まで違って聞こえるような気がした。

「パン屋さん変えたの?」

「いつものスーパーの見切り品だけど、カビ生えてた?」と、母親が僕の額に手を当てた。「熱はないのよね?」

 そんなふうに心配されたのも小学校以来だ。

 家を出てからも足取りは軽やかだった。

 自分の人生でこんな気分になる日が来るなんて思いもしなかった。

 いったん駅前へ出て、電車通学の生徒の流れに合流して学校へ向かう。

 昨日、二人で一つの傘に入って歩いた同じ道だ。

 今まで何度も通った道なのに、まるで一面のお花畑を歩いているみたいだ。

 歩道はほとんど乾いていたけど、ところどころ水たまりが残っている。

 わざと足を踏み入れて音を立てると、彼女のうまくない鼻歌が聞こえたような気がした。

 もうあれ以上の幸せなんかないのかもしれない。

 でも、それでもいい。

 一度でも、あんな経験ができたなら、それでもいいんだ。

 そんな夢みたいな出来事の思い出に浸りながら昇降口に入って、下駄箱の蓋を開けたときだった。

 叫びそうになって僕は思わず口を押さえた。

 上履きの上に見慣れないものが置かれていたのだ。

 薄紫色の封筒だ。

 ――こ、これは……。

 う、うそだろ。

 ま、まさか、ラ、ラ……。

 頭の中ですら、その言葉を思い浮かべることすらできなかった。

 だけどそれは紛れもなく、非モテボッチ陰キャ男子にとって都市伝説圧倒的第一位に君臨する『下駄箱のラブレター』だった。

 な、なんでだよ。

 どうしてこんなタイミングで?

 どうして僕なんかに?

 そんな疑問が一瞬のうちに頭を駆け巡る。

 僕には上志津さん以外の人は考えられないのに、なんでモテ期なんか来るんだよ。

 あ、もしかしてと、僕は周囲を見回した。

 動画配信をやっているやつらが仕掛けたドッキリかもしれない。

 非モテ男子が下駄箱のラブレターを見つけて舞い上がってる姿を生配信。

 でも、そんな気配はなかったし、他のクラスの生徒も特に不審な様子は見られない。

 なんだろう、違うのかな。

 僕は震える手でその封筒を手にし、見られてもすぐに隠せるように下駄箱の中で手紙を取り出した。

 きれいに折りたたまれたレター用紙を広げると、そこには藍色のインクで整った文字が書かれていた。

《十年後も二十年後も私の笑顔を見ていてください 晶保》

 ――あっ……。

 な、なんだ、上志津さんか。

 知らない人がくれたラブレターじゃなくて良かった。

 そ、そりゃそうだよな。

 僕に手紙をくれる人なんているわけないじゃんか。

 いやいや、そもそも上志津さんから手紙をもらうことだって、それ自体あり得ないことなんだけどね。

 本当はもっと素直に喜びたかったんだけど、余計な心配をしてしまったせいで、ホッとしたり、別の感情が先に来てしまった。

 まわりを確かめて、誰にも見られないようにポケットにしまったところで、ようやくじわじわと喜びがこみ上げてきた。

《十年後も二十年後も……》

 今見たばかりの文面が思い浮かんで自然と頬が緩んでしまう。

 こんなに幸せでいいんだろうか。

 昨日、駅で別れてから、わざわざこの手紙を書いてくれたんだ。

 僕のことを思って、僕のために書いてくれたんだ。

 そしてそれを僕にくれたんだ。

 この世にそんなことをしてくれる人がいるなんて、今まで思いもしなかった。

 生まれて初めて、この世に生まれてきて良かったと叫びたかった。

「何してんの?」

 ――え?

 すぐ横に野村さんが立っていた。

「え、あ、いやべつに。おはようございます」

「なんで敬語なのよ」

「いやべつに、なんでもないです」

「女子慣れしてない男子って、隠し事があるとすぐに挙動不審になるよね」

 バレてる?

 と、思わずポケットに手をやったら、野村さんが眉をひそめてじっと見ていた。

 ――こういうところなんだろうな。

 挙動不審に、さらに墓穴まで掘ってるし。

「昨日、ずっと噂が流れてたよ」

 う、噂って……。

 相合い傘のことか?

「晶保のこと、守ってあげたんでしょ」

「あ、ああ、まあ」

 先輩たちに絡まれていた件のようだ。

「やるじゃん」

 野村さんは靴を入れ替えて上履きをポトリと床に落とした。

 褒められたのかどうか、その横顔からは真意はつかめなかった。

 それにしても、昨日、どこかで誰かが見てたんだろうか。

「クラスのメッセージには何も流れてなかったよね」

「あたしたち女子だけのグループがあるのよ」と、野村さんが上履きに足を入れてトントンとつま先を鳴らした。「晶保以外のね」

 なんで上志津さんを仲間はずれにしてるの?

「引いてる?」と、悪意のこもった笑みが向けられた。「べつに悪口言い合ってるわけじゃないよ。晶保が入りたがらないだけ」

 まあ、それなら仕方がないのか。

「一言で女子って言ったって、スマホのやりとりが苦手な人もいるでしょ。短い言葉で誤解されると面倒だし。だったら、最初からやらないっていうのも全然アリじゃん。個別に連絡は取れるし、学校ではみんなと話してるんだし、べつに困らないもん」

 スマホのやりとりをしないのは僕に対してだけじゃなくて、女子の友達に対してもそうだったのか。

 そうなると昨晩交わした短いメッセージが急に重みを増してくる。

 あの文面を、一生懸命考えてくれたんだろうな。

 送るときに、ちゃんと伝わるか、僕と同じように悩んでくれたんだろうな。

「何ニヤけてんの?」

 野村さんの声で我に返る。

 ちょっと自分でも浮かれすぎだと反省してしまう。

「そこに突っ立ってると邪魔だから、早く行ってよ」

「あ、ごめん」

 背中を押されて、二人並んで教室へ向かう形になってしまったけど、何を話したらいいのか分からない。

「べつに無理に話さなくていいよ。あたし、そういうの気にしないから」

 気をつかわせてしまって申し訳ない。

 だけど、ご厚意に甘えさせてもらうしかないのが情けない。

 ていうか、僕の心の中が全部読めてるんだろうか。

「ショウワ君ってさ、全部顔に出るんだよね」

 うわっ、本当にバレてる。

「そういうところだろうね」

 え、何が?

「晶保が好きになった理由」

 す、好きって……。

 黙り込んだ僕のお尻に野村さんの鞄がヒットする。

 ちょ、え?

「見てて飽きないもん」と、野村さんが一歩前へ出た。「あたしもね」

 教室の入り口にいた女子とあいさつを交わすとそのまま野村さんは窓際の自分の席に鞄を置きに行ってしまった。

 上志津さんのまわりにはいつものように女子たちが集まっていて賑やかだった。

 さすがに割って入るわけにもいかず、僕は自分の席に座る流れで体を横にひねって後ろを向きながら、軽くポケットをたたいて襟を触る合図をしてみた。

 目が合ったその瞬間、彼女も右手で左の襟をつまんでくれた。

『手紙ありがとう』のサインがうまく伝わったらしい。

 と、安心したその時だった。

「ちょっと、今の何それ」と、野村さんがすぐ脇に立っていた。

「え、べつに」

「意味もなく襟なんか触らないでしょ」

 もう、バレてるよ。

 ていうか、ものすごい観察力だな。

 名探偵か、いやスパイなのか。

 そんな野村さんだけど、僕と上志津さんの関係をどう思っているのか、今ひとつ読み取れない。

 嫌われているわけではないみたいだし、みんなに噂を広めようともしない。

 邪魔したいのか、からかってるだけなのか、そのどちらでもないような気もするし、何なんだろう。

 その日は朝一番に六月の席替えがおこなわれて、僕は一番前の席を引き当ててしまった。

 自分の荷物を運んだものの、居眠りのできないハズレ席に落ち込んでいると、野村さんが話しかけてきた。

「あたしさ、後ろの方だから交換してよ」

「どうして?」

「黒板見えないから前の方がいいの。赤点取りたくないし」

「ああ、そういうことなら、いいよ」

 正直ありがたかった。

「で、どこなの?」

「晶保の隣」

 野村さんが親指を向けた空席は一番窓際の後ろに座る上志津さんの隣だった。

 大当たりじゃないか。

 呆然と立ち尽くしていると、さっきの昇降口と同じように鞄で背中を押された。

「早くどいてよ」

「ああ、ごめん」

 と、立ち上がって野村さんと向かい合ってみて、僕はようやく気がついた。

 彼女は目が悪いようには見えない。

 眼鏡をかけている姿を見たことはないし、コンタクトをしてるといった話を聞いたり、ずれたりほこりが入って目が痛いとか嘆いていたこともない。

 勘のいい彼女はそんな僕の疑問を察したんだろう。

「いいの。あたし、見たくないから、あんたの背中なんて」

 僕を押しのけるように席に座ってしまった。

「ありがとう」

 僕はかろうじてお礼を言って後ろの席に向かった。

「あれ、カズ……、森崎君、ここなの?」

 上志津さんは目を見開いて僕を迎えてくれた。

「よろしく」

 まわりの目があるからわざと素っ気なく答えたけど、左襟に触れていたからちゃんと分かってもらえたようだった。

 朝のホームルームが終わって休み時間になったところで、上志津さんがスマホの画面を僕に向けてささやいた。

「きのう、返信ありがとうね。記念に保存しちゃった」

 表示されているのはメッセージ画面のスクショだった。

「わざわざ写真に撮ったの?」

「だって、この画面はもう見られなくなっちゃうんだよ」

「ああ、メッセージが重なるとどんどん流れちゃうのか」

「そうだよ」と、スマホを両手で包み込む。「さかのぼればいつでも見られるけど、私たちの始まりは今だけだもん。大事な記念でしょ」

「じゃあ、僕も保存しておこうかな」

「うんうん、そうしなよ」

 こちら側に身を乗り出すように僕のスマホをのぞき込む。

 と、女子グループがいつものように上志津さんに話しかけに来たので、僕はスマホをしまって国語の準備をすることにした。

「晶保、超大当たりの席じゃん。うらやましい」

「たまたまだよ。これからの季節暑くなるし」

「日焼けヤバイかも」

「しかも片側だけね」

 まあ、六月からはエアコンがついてるし、カーテンもあるから、あまり心配はないだろうな。

 取り囲む人垣の隙間から、上志津さんが右手を左襟に当てているのが見えたので僕も同じ合図を返した。

 ふと、黒板を見ると、一番前の席で野村さんがこちらを向いてたけど、僕と目が合うと、ちょっと舌を出して前を向いてしまった。

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