(2-3)
◇
入学して初めての定期試験が五月下旬に迫っていた。
試験前の準備期間中、女子たちは上志津さんを中心に、高校の図書館で勉強会をしているらしい。
僕らの高校の図書館は、江戸時代の藩校から伝わる和書を所蔵した資料館も併設された独立した建物になっている。
校舎と間違われるくらいの規模があるから、自習スペースにもかなり余裕があって、つねに空調も効いている。
とはいえ、試験期間中はさすがに満席になってしまうので、僕は放課後の教室に残って試験勉強をしていた。
教室は最終下校時刻まで自由に使えるし誰もいないから、混雑している図書館よりもかえって集中できる。
結局のところ、一人が一番気楽でいい。
僕はわずか一ヶ月半でクリアファイルに収まりきらなくなった英語のプリントを順番通りに並べ替えていた。
これをすべて復習して意味や文法事項を覚えるのは不可能としか言いようがない。
クラスメッセージで過去問の写真が回ってきたけど、暗記しただけではまったく歯が立たない問題ばかりだった。
おまけにもちろん、他の科目だってやらなくちゃならない。
学区一番の笹倉高校に合格したときは親も喜んでくれたし、まわりにもうらやましがられたけど、入る高校を間違えたのかなと、ため息をついたときだった。
後ろのドアから誰かの足音が聞こえてきたので振り向くと、野村さんだった。
「ここで勉強してたんだ」
「あ、うん」
教室で話しかけられたのは初めてだ。
「図書館に来ればいいのに」
「混んでるからね」
「まあ、そうだね」
野村さんは自分の机からノートを取り出すと、僕の所へやって来た。
「ねえ、ちょっといい?」
詰問口調に戸惑いながらもうなずくと、野村さんは僕の前の席にまたがって座り、背もたれに腕を置いて僕と向かい合った。
「ねえ、ひょっとしてさ、森崎君と晶保ってつきあってんの?」
山では『ショウワ君』と呼んでいたのに、今日の彼女はからかうつもりもないらしい。
野村さんは山で僕と上志津さんの間にあった出来事を見ているわけだから、はぐらかしても無駄なんだろう。
だけど、まだそういう状態ではないことも事実だ。
「そ、それはないと思うけど」
「思うけど何?」
「ああ、いや、つきあっているわけではない……です」
「本当に?」
「山で少し話をしただけだから」
野村さんはそんな答えに満足しないようだ。
「森崎君はそれでいいの?」
「だって、僕が勝手に決めることじゃないでしょ」
「じゃあ、ちゃんとコクりなよ」
そんなことを言われたって困る。
そもそも、なんで野村さんにそんなふうに責められなくちゃならないんだよ。
腹が立つと言うほどではないけど、納得がいかない。
「そりゃあさ、あたしもあの時どんな話をしてたのか、詳しくは知らないけど、晶保の気持ちくらい、顔を見てれば分かるでしょ」
上志津さんの顔……って。
リフトで見た彼女の笑顔と髪の輝きが急に浮かんでくる。
顔が熱くなって、鼻の頭に汗も噴き出した。
「分かんないの?」
デキの悪い生徒を叱りつけるように眉を寄せながら、そんな僕の顔をのぞき込む。
「好きなんでしょ」
え、いや、あ、あの、その……。
ズバリ指摘されてしまうと、つかみかけた言葉がリスの尻尾のようにつるりと逃げていく。
こうなってしまっては、心の回し車を駆けめぐるハムスターを止めることなどできない。
そんなふうに僕を追い詰めた野村さんは、背もたれをつかんで腕を伸ばすと、机に背中を預けた。
「ショウワ君はさ、真面目でいい人だっていうのは分かるけど、ちゃんと伝えなくちゃいけないことってあるでしょ?」
呼び名が変わっても目つきはそのままだ。
野村さんには関係のないことだと、面と向かって抗議する勇気も余裕もなかった。
「自分に自信がないって逃げてるつもりなんだろうけど、本当は相手のことを信じてないだけなんじゃないの?」
疑問形でたたみかける野村さんは僕の返事など期待していないんだろう。
追及の手はゆるまない。
「晶保のことをちゃんと見て考えてるなら、答えはもう出てるでしょ。それでも信じてあげられないの?」
ふだん上志津さんと一番仲良くしている野村さんがここまで言うんだ。
答えはもう分かっている。
だから、あとは答え合わせをするだけなんだ。
だけど……。
やっぱり、今のこの居心地の良い空気を、僕の方から吹き飛ばしていいのか分からない。
ただでさえ、ジュースに浮かんだ氷を渡り歩くような不安定な毎日なんだ。
しかも、進んだつもりで、コップの外には出られないのに。
何も変わらないこと、現状維持、無難な対応。
始まる前の夢想は無限に広がる幸福だ。
都合の良いストーリーだけをふくらませて延々と見ていられる今の気楽さは、いったん動き出してしまえばもう取り戻せない。
予告編だけでやめておけば良かったと後悔する映画は見たくないんだ。
失敗したからといってリセットは効かないし、嫌われて壊れてしまうくらいなら、今の曖昧な関係の方がよっぽどいい。
結局、僕は自分自身の回し車から抜け出すことができないんだろうな。
ねえ、と体を起こした野村さんが前のめりに顔を突き出す。
「登山合宿の時に、応援団長さんからコクられたって知ってるでしょ」
「え、そうだったの?」
先輩にコクられた話は聞いていたけど、その相手が三年の団長さんとは知らなかった。
「晶保ってさ、主張の強い男の人が苦手なんだと思うよ。ほら、人気あるからしょっちゅう呼び出されたりして、断るのも大変だし、逆ギレされちゃうことだってあるんじゃないかな」
注目される人には、それなりの苦労があるんだろうな。
「そういうのから守ってあげるのもカレシの役割なんじゃないの?」
「かっ、カレシって……」
思わず声が詰まって裏返る。
「僕はただの……」
「それでいいの?」と、野村さんがかぶせてきた。「本当に、そのままでいいの?」
その方がいいんだけど、納得しないだろうな。
「今は試験勉強が大事だから、そのタイミングじゃないと思う」
口を結んで軽くうなずきながら野村さんが僕をにらみつけた。
「まあ、それはそうだよね。じゃあ、試験が終わったら?」
「終わってから考えるよ」
「うまく逃げたって感じ?」
ひどい言い方だと抗議したかったけど、言い返せない自分が情けなかった。
「待ってよ。逃げるつもりはないから。必ずなんとかするけど、ただ、それは今とか、すぐではなくて……」
「じゃあ、いつよ?」
「どうしてそんなに急がせるの?」
あまりにも追い詰められたせいか、カウンターパンチのように言葉がこぼれ出た。
「なんでだろうね」と、野村さんは机に腰をぶつけながら立ち上がった。「見てるとイライラするからかも」
他人から見ると、僕なんかはそういう存在なんだろうな。
なんで、あんたが、とも思われてるんだろうし。
「ごめんね、僕なんかで」
「晶保のことだよ」
野村さんの声が天から振り落とされる。
岩で殴られたような衝撃に顔を上げられない。
「女子の友達関係を甘く見ない方がいいよ。見てもいないんだろうけど」
そう言い捨てて野村さんは教室を出ていった。
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