(2-2)
◇
登山合宿から帰ってきてすぐに僕と上志津さんの関係に進展があったわけではなかった。
あれからそのままゴールデンウィークに入って学校は休みだったし、その間、気軽にメッセージを送る勇気はさすがにまだなかった。
高校に合格したタイミングで初めてスマホを買ってもらった僕は、入学して一ヶ月を過ぎた今でも親との連絡以外に使ったことがなかったのだ。
送ろうと思って何度も打っては消してばかりで、結局あと一歩、送信を押すことができなかった。
でも、それはそれで正解だったような気がする。
ちょっと冷静になって振り返ってみれば、《元気ですか》なんて送って無視されたらそれこそ取り返しがつかなかっただろうし、《元気ですよ》なんて返ってきても、それもまたどう続けたらいいのか分からない。
向こうからだって何も送られてこなかったのだから、僕らはまだそういう段階ではないということなんじゃないだろうか。
つまらないメッセージを送ってせっかくのきっかけを失うのが怖い。
メッセージをあきらめてスマホに保存された彼女の写真を見ていると、踏み込んでいきたいという焦りと、幸せな思い出を失いたくないという恐怖に挟まれて胸が苦しくなるばかりだった。
休み明けに教室で不意に目が合っても、まわりの視線が気になって話すタイミングがつかめなかったし、目と目で会話する余裕すらなく、やっぱり僕は逃げてしまっていた。
そんな態度が失礼だってことは分かっている。
山でも彼女にそう言われたんだし。
だけど、みんなが見ている前で声をかけて良いのかどうか、確信が持てなかったのだ。
身の程をわきまえろと僕がみんなに笑われるのは構わないけど、地味男子が話しかけて彼女に迷惑がかかるのは避けたいと、いつも弱気になってしまう。
自分はいったい何者なんだろう。
同級生、ちょっとだけ親しい人、何度か会話をしたことがある関係。
いろいろな言葉が思い浮かぶけど、大切なことを伝えようとすればするほど何も言えなくなる。
――いやいや、待てよ。
た、大切なことって何だよ急に。
僕は彼女に告白しようと思っているのか。
でも実際、自分でも分かっていた。
登山合宿の時に彼女が示してくれた気持ちは紛れもない好意だ。
それは決してただの同級生とか、知り合いとか、その程度の関係の人に抱く気持ちじゃないことくらい、僕だって分かる。
他人との関係に敏感な僕にしてみたら、むしろ分かりすぎるくらいだ。
分かるからこそ、口をつぐんでしまうんだ。
手が触れたり、ペアリフトに並んで乗ったり、それが普通じゃないってことくらい分かる。
だからといって彼女にとって当たり前の距離感に、こちらから踏み込んでいくことなんてできるわけがない。
今までそんなふうに人と接したことがなかったから、まるで自信がないんだ。
彼女のことを想うたびに、氷を入れて泡が立った炭酸水みたいな清涼感に包まれるのに、自分自身の不甲斐なさと比較したとたん、さっきまで軽やかに弾けていたはずの泡が、氷の棘となって襲いかかってくる。
そんな劣等感に押しつぶされそうで、自分の殻に固く閉じこもってしまうのだ。
あれ以来、自分を鏡で見ることが多くなった。
――なんで、おまえなんだよ。
何の取り柄もないくせに。
鏡の中の自分に罵声を浴びせる自分の顔がますます歪んでいく。
僕自身が僕を笑っていた。
――なんだよ、笑うなよ。
僕だって……彼女のことが好きなんだ。
こんな僕だって、彼女を好きになったっていいじゃないかよ。
似合わない、釣り合わないってみんなに笑われたっていいじゃないか。
こんな調子で自分自身との問答を繰り返してばかりでちっとも前には進めない。
何度繰り返したところで、答えはどこにも見つからないのに。
あまりにも急に距離が縮まったものだから、話のきっかけになる共通の話題すら思い浮かばない。
そもそも同級生というだけで、僕は彼女を知っているようでほとんど何も知らないのだ。
五月の連休明けに席替えがあった。
僕は教室のほぼ中央の席で、上志津さんは廊下側の二つ後ろだった。
彼女のまわりにはつねに人が集まるし、最初の配置よりも少し距離が近づいたせいで、聞こうとしなくても会話が耳に入ってくる。
それによれば、彼女は中学の時にバドミントンをやっていたのに、高校では部活に入っていないらしい。
誘われたけど、勉強についていけそうにないから断ったんだそうだ。
お昼ご飯は購買でパンを買うことが多く、お気に入りはクリームチーズの入ったフォカッチャだけど、人気商品だからたまにしか買えないようだ。
男子連中のうわさ話も聞きたくもないのに耳に入ってくる。
狙ってるやつらは多いし、理想の女子としてあがめる発言もあれば、思春期男子らしいちょっときわどい内容まで、彼女の話題が出ない日はない。
昼休みにわざわざ顔を見に来る他のクラスの男子連中もいるし、上級生たちがのぞきに来ることもあった。
それに、女子のうわさ話では、実は登山合宿の時に指導役の上級生に呼び出されてコクられていたらしい。
「もったいなくない?」と、僕のすぐ後ろで女子の甲高い声が響く。「あの先輩、結構イケメンだったじゃん」
「でも」と、答える上志津さんの声はいつもの張りがない。「知らない人にいきなり言われても困るでしょ」
ゴメンナサイとお断りしたそうだけど、他にも僕の知らないところでいろいろな動きがあるのは間違いないようだった。
もちろん、そういった話を聞けば心がざわつくし、誰かに先を越されてしまうのではないかという焦りはある。
ただ、噂がすべて正しいとは限らないし、尾ひれのついた内容もあるだろうから、どこまでが本当の話かなんて、僕が確かめようもなかった。
気になるなら直接本人と話せばいいんだろうけど、普通の会話すらできないのに、そんなデリケートな内容なんか聞けるわけがない。
結局、何でもない今の関係、はっきりとさせない曖昧なポジション、それが実は一番居心地がいいんだろう。
僕はそんな穴蔵に逃げ込んで目を塞いでいるだけなんだ。
でも、太陽の下に引き出されて、真実に目を焼かれるくらいなら、背を向けていた方が安心だ。
なのに、君のことばかり考えてしまう。
絆創膏を貼った傷口が気になって、ヒリヒリするのにはがしてばかりいるみたいに。
僕は知りたいんじゃない。
あんなに探していた正解に価値なんかない。
変わらないのが一番。
今は答えを知るのが怖いんだ。
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