(2-4)


   ◇


 心に受けた重い痛みが癒えないまま試験が終わって、結果も返ってきた。

 僕はほとんどの科目が平均点レベルで、可もなく不可もなくだったけど、出題内容が想定以上に難しくてもっと悪いかと思っていたから、それでも満足だった。

 耳にした噂では、上志津さんも同様だったようだ。

 バスケットボール部の練習が忙しかった野村さんは数学と英語が赤点ギリギリだったらしい。

「部活辞めようかな」

「時間が足りないよね」

 表面的には仲の良さそうな二人の会話をつい盗み聞きしてしまう。

「せっかく楽しかったんだけどな」

「次のテストまでにいろいろ工夫してみるとか」

「どうかなあ。どんどん難しくなるだけじゃないかな。次の期末は家庭科とか保健とか科目数も増えるじゃん」

「でも、辞めたらもったいないよ」

「やっぱ、そうだよね。どっちにしても、なるようにしかならないよね」

 ――なるようにしかならない。

 それは僕への当てつけなんだろうか。

 聞き耳を立てていることなんかとっくにバレてるんだ。

 僕は相変わらず上志津さんと話せずにいた。

 試験が終わったら告白しろと時限爆弾をくくりつけられたわりに、野村さんたちが常にそばにいて、まるで遠ざけられているようだった。

 おまけに、野村さんと目が合うと、渋い表情でにらまれてしまう。

 どうすればいいんだよとまた自分の中だけであれこれ悩んでいたけど、言うつもりならスマホで呼び出したり、なんならスマホでコクればいいんだから、結局のところ、弱気な僕の言い訳に過ぎないんだろう。

 そんなとき、思いがけないことがきっかけで事態が動き出した。

 六月に入ってすぐだった。

 衣替えでブレザーの上着から、長袖ブラウスにクリーム色のサマーベストに替わり、午前中は夏を思わせる日差しを照り返して目にまぶしいくらいだったのに、午後から雲行きが怪しくなって、ちょうど下校時刻になったところで大粒の雨が降り出したのだ。

 僕は折りたたみの傘を鞄に入れてあったから困らなかったけど、一面黒い雲で覆われた空を昇降口で見上げる生徒たちの中に上志津さんもいた。

 いつもまわりにいる女子たちは部活に行ってしまったらしく、上志津さんは一人だった。

 ――ちょ、ちょっと待ってくれ。

 いきなりどうしろって言うんだよ。

 一緒に傘に入りませんかなんて誘えるわけがないじゃんか。

 使っていいよと無理矢理傘を押しつけて雨の中を駆けていくのだってカッコつけすぎだろ。

 そんなのが許されるのはイケメンだけだ。

 ヘタレな僕はこの期に及んでも言い訳ばかり探していた。

 と、その時だった。

「良かったら、傘入りなよ」

 二年生の先輩たちが上志津さんを取り囲んでいた。

 前からよく教室にのぞきに来ていて、僕も顔を知っている人たちだ。

 どこにでもつるむ連中というのはいるものだ。

 上志津さんは丁寧に頭を下げた。

「あ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

「遠慮しなくていいよ」

「本当に、大丈夫ですから」

 後ずさりながら何度も頭を下げて断ろうとしているのに、連中は後ろにも回り込んでしつこく迫っている。

「あ、あの、一緒に帰る友達を待ってるんです」

「嘘なんでしょ」と、傘を差しかけて顔をのぞき込む。「待ってる人がいるなら、スマホで連絡来たか見てたはずじゃん」

「もうすぐ来ると思います」と、か細く震える声が僕の心を共振させる。

「じゃあ、俺たちも待つよ」

 完全に逃げ道を塞がれてしまった上志津さんは唇を噛んでうつむいていた。

 さっきまで雨を見上げていた他の一年の生徒たちは、関わり合いになるのを恐れたのか、下駄箱の陰に隠れたりしてみんないなくなっていた。

 相手は上級生五人だ。

 僕なんかの出る幕じゃない。

 胃の底が痙攣して吐き気がこみ上げてくる。

 血が逆流したみたいに体が震え、体中の血管が自分を絡め取る網となって一瞬で固まった気がした。

 僕にできることなんて何もないよ。

 自分の折りたたみ傘に隠れながら目をつむって帰るしかない。

 英雄気取りで助けに入ったところで、怪我をして恥をかくだけだろ。

 だけど、上志津さんだって青白い顔をしておびえている。

 彼女にそんな顔は似合わない。

 体がぶるぶると震え出す。

 だけど、それは恐怖ではなかった。

 自分でも感じたことのない不思議な力だった。

 後悔するな。

 失敗なんか恐れるな。

 助けに入って殴られるというのなら、右の頬でも左の頬でも喜んで差し出せよ。

 僕はヒーローになりたいんじゃない。

 たとえどんな土砂降りの日だろうと、天使には空を見上げて微笑んでいてほしいんだ。

 しおれた朝顔の花みたいに沈んでいたら放っておくわけにいかないだろ。

 君にそんな顔は似合わないからね。

「ほら、誰も来ないじゃん」と、連中が彼女に手を出そうとする。「嘘つかないでよ。俺たちだって、親切でやってんだからさ」

「でも……」

 ――やめろ。

 声はかすれて出ないけど、ひとりでに手が上がる。

 その手よりも前に心臓が口から飛び出しそうなほど暴れていた。

 だけど、心の中でハムスターが立ち上がっていた。

 無茶だって分かってるのに、僕は震える足をもつれさせながら彼女に向かって踏み出していた。

「ごめん、待たせたね」

 割って入ると、先輩たちが一斉に僕を取り囲んだ。

「はあ、なんだてめえ」

 だけど、一番びっくりしていたのは上志津さんだった。

 丸く見開いた目に、山で僕に飛び込んできてくれたあの信頼の色が見えた。

 僕は頬を引きつらせながら彼女に微笑みを向けた。

「ごめん、ごめん」と、本当に待ち合わせていたかのように言葉がするりと飛び出した。「傘探すの手間取っちゃってね。待った?」

 とんでもない大根役者かもしれないけど、自分でも信じられないくらいウソの芝居ができた。

「あ、うん……」

「じゃあ、一緒に帰ろうか」と、僕は彼女の手をつかんだ。

「あ……ありがとう」

 まるで誘拐犯みたいに乱暴なつかみ方になってしまったけど、からめあった細い指から安堵と信頼の力を感じる。

 僕らの手はもう誰にもほどけない。

「よけいな口出しすんじゃねえよ」

 彼女の後ろに回り込んでいた先輩が僕の肩を小突いた。

 膝が震えて崩れそうになるのをこらえて、僕は彼女の手を引き寄せた。

 そんな態度が相手をよけいにイラつかせたらしい。

「なんだよ、邪魔しやがって。おまえ、何なんだよ」

 何者でもないけど、上志津さんを助けるための演技なら嘘でもなんでも言える。

 なのに、肝心なところで声が裏返ってしまった。

「た、た、ただのドーキューセーです」

 まるでお笑い芸人の一発ギャグだ。

 しょせん、僕だよ。

 うまくいくはずないさ。

 だけど、一番笑っていたのは上志津さんだった。

 さっきまで青白い顔をしていたのに、肩を震わせながら耳まで真っ赤にして喜んでくれていた。

「もう、遅すぎだよ」と、目に涙を浮かべながら笑いをこらえている。「ずっと待ってたんだからね」

 ――待たせてごめんね。

 登山合宿の時から一ヶ月近く、ずっと待たせていたんだ。

 あんなに話しかけることができなかったのに、今はちゃんと目でも表情でも、固くつなぎあった手からも気持ちが伝わってくる。

 ごめんね、こんなに遅れて。

「彼女は嘘なんかつきません」と、僕は先輩たちに左手を突き出して道を切り開いた。「僕らはずっと前から待ち合わせをしていたんです」

 嘘じゃないから胸を張って言えた。

 声も震えてなどいない。

 本当に、待たせてごめんね。

 こんなに時間がかかっちゃったけど、迎えに来たよ。

 ――僕らはずっとずっと前から約束してたんだよね。

 きっと出会う前から、運命を待たせていたんだよ。

「行こっか」

 手を引いて先輩たちの輪から彼女を連れ出す。

 堂々と、前を向いて、一歩一歩しっかりと地に足をつけて。

 空気なんて読まなくていい。

 オイとか後ろでわめいているけど、僕らは振り向かずに雨の中に踏み出していた。

 折りたたみ傘を広げるために、いったん通路からそれて図書館につながる渡り廊下の下まで、手をつなぎ合ったまま小走りに移動した。

 あきらめたのか先輩たちは追いかけてこない。

 だけど、立ち止まったところで、急に膝が震えてふらついて、手を離してしまった。

 格好悪いけど、精一杯やったんだ。

 上出来だろ。

「怖かったね」

 思わず正直な感想がこぼれ出る。

「うん、でも、来てくれてありがとう」

 彼女も胸に手を当てて荒れた息を整えていた。

「遅くなってごめん」

 と、言った瞬間、いきなりたたきつけるように雨脚が強くなって、遠くで雷まで鳴り始めた。

 街が一気に海に沈んでしまったかのような豪雨で、見ているだけで溺れたみたいに息苦しくなりそうだ。

 だけど、土やコンクリートに染みこんだ雨の匂いが不思議と落ち着く。

 彼女の隣に立っていても緊張することはなかった。

 雨宿りをする僕らの前を鞄で雨をよけながら生徒が駆け抜けていく。

 上志津さんが空を見上げながらつぶやいた。

「どうしよっか」

 その横顔にはいつもの柔和な笑みが戻っていた。

「雷がおさまるまで少し様子を見た方がいいかな」

「そうしよっか」と、いったんうつむいた彼女が、また顔を上げた。「ずっと待ってたんだよ」

 ――え?

「いつか声をかけてくれるかなって、ずっと前から待ってたのに」

「あ、ああ……」

「連休明けにせっかく教室で会っても、目も合わせてくれないから、手紙丸めて背中にぶつけてやろうかと思ったもん」

 それはそれで楽しそうだと思ってついニヤけてしまったせいか、腕を肘でつつかれた。

「スマホでいいから、連絡くれればよかったのに」

「ごめんね」と、僕はしどろもどろに言い訳を探した。「連休中にずっと何かメッセージを送りたいなって思ってたんだけど、何を話したらいいか思いつかなくって消しちゃってたんだ」

 彼女がため息交じりに笑みをこぼした。

「私もね、ドキドキしてたんだよ」

 それはとても思いがけない言葉だった。

「こんなこと送っても返事に困るかなとか、無視されたらどうしようとか、打っては消して打っては消してで、なんで私こんなことしてるんだろって笑っちゃったもん」

「ぼ、僕も同じだったんだよ」

 なんとなくお互い照れくさくなって、二人並んで雨を見上げたけど、くすぐったさはあってもなぜか気まずくはなかった。

 無理に言葉を探さなくてもいい。

 二人で耳を傾ける雨のリズムが僕らの不安を打ち消していた。

「私ね」と、雨に紛れるように彼女がつぶやく。「お土産に買った砂時計を毎日何度もひっくり返して、カズ君のことを考えながら砂が落ちるのを三分間じっと見てたんだよ。三分たったら、カズ君から連絡来るんじゃないかなって期待しながら」

「カップラーメンじゃないんだから」

「三十点」

「え?」

「今のツッコミ。イマイチ」

「じゃあ、正解は?」

「あはは」と、雨音を打ち消すように朗らかな笑みが花咲く。「君らしくていいね。正解を知りたがる」

 そして、重心を後ろに傾けて体を揺らしながら、僕の顔をのぞき込んだ。

「私にも正解なんて分かんないよ」

 僕はありのままのことを隠さず話してみた。

「スマホを買ってもらったのが高校に合格してからだから、どんなメッセージを送ったらいいのか全然見当がつかなくてね。ふつうのあいさつなんか送ったってつまらないだろうし、なんかほら、スマホ独特のルールみたいなのも全然知らないからさ。絵文字とか使いすぎるおじさんよりダメかも」

「私もだよ」

 え、そうなの?

「私もスマホ持ったの高校入学からだもん。一緒だよ」

 なんだ、そうだったのか。

 女子はみんなこういうことに慣れてるものだと思い込んでいた僕が間違ってたんだ。

「だから、あんまり細かく送ってウザがられたらやだなって」

「そ、そんなこと思わないよ」

 上志津さんがお祈りをするみたいに手を合わせた。

「ねえ、私たちだけのサインを決めておこうよ。まわりに他の人がいて話せなくても私たちだけに通じる合図があれば、心配しなくていいでしょ」

 それはとても素晴らしい提案に思えた。

 僕ら二人の秘密ってことだ。

「どんな合図?」

「うーん」と、彼女が首をかしげる。「襟を触るっていうのはどう?」

 さっそく彼女がブラウスの左襟に右手をやる。

「こんな感じでどう?」

「あえて手の反対側の襟っていうのが、合図っぽくていいね」

「ちょうどオーケーのサインみたいな形じゃない?」

 親指と人差し指でつまむから丸く円ができてたしかにそう見える。

「私の気持ち、伝わりましたか?」

 うん、楽しいよ。

 僕も同じ動作をやって見せた。

「あ、喜んでる」

 うん、そうだよ。

 ちゃんと伝わるね。

「これからは、お互いに何か話したいことがあるんだなって、これで分かるね」

 雷はおさまって、少しだけ空が明るくなった。

 雨も落ち着いてきたようだ。

「そろそろ行けるかな」

 僕は折りたたみ傘を広げた。

 今までずっと使っていた物なのに、思ったよりも小さく感じる。

 また急に弱気な自分がささやき始める。

 こんな小さな傘、密着しないとはみ出ちゃうぞ。

 下心なんかないふりをしようとしたってバレてるって。

「小さくて二人は入れないかも」

 僕が引っ込めようとすると、彼女が傘を見つめながらつぶやいた。

「ねえ、相合い傘ってしたことある?」

「ないよ」

 あるわけないじゃん。

 いつも一人だったんだから。

 ――君は、あるの?

 聞きたいけど、自分がみじめになりそうで聞けない。

「私もしたことないんだけどさ」

 え、そうなの?

 あからさまに顔に出てしまったのか、彼女に苦笑されてしまった。

「これって、どうやったら濡れないのかな」

 どうやっても濡れるんじゃないの。

 そもそも、片方が濡れちゃって、もっとこっちに寄りなよっていうのがお約束なんじゃないのかな。

「ここで少し練習してみようよ」と、彼女が僕を見つめる。

 その目の圧に押されて僕は渡り廊下の下でまず自分だけ傘を差してみた。

「お邪魔します」と、彼女が入ってくる。

 やっぱり、お互い、体が半分ずつしか入らない。

「ねえ、こうだと、どう?」と、彼女は僕と向かい合わせになった。「ほら、天才かも。横に並ぶと円の直径よりも二人の肩幅が大きくなるからはみ出るわけでしょ。だけど、この位置だと半円ずつ使えるから二人とも入れる」

 いや、そりゃそうだけど。

 これじゃほぼ抱き合ってるような密着度だ。

 ただの練習なのに、緊張で体がこわばってしまう。

「そっちは後ろ向きだから歩けないじゃんか。転んじゃうよ」

「そのときは抱きかかえてくれるでしょ」

「無理です。傘持ってるし、そもそも道路でふざけちゃいけません」

「はあい」と、口をとがらせて、くるりとターンする。「じゃあ、前向きに並べばいいじゃん。これなら危なくないでしょ」

 これじゃ、電車ごっこだ。

 危なくはないけど、今度は僕が危ないよ。

 髪の毛からすごくいい匂いがする。

 冷静でいろっていう方が無理だろ。

「なんなら、後ろから腕回してくれてもいいよ」

「だから、傘持ってるから無理です」

「あ、じゃあさ」と、彼女が僕の後ろに回り込む。「こっちならどう?」

 いやいや、今度は僕が匂いをかがれてしまうわけだろ。

 汗臭いに決まってるじゃん。

 ムリムリ。

 めちゃくちゃ恥ずかしい。

「どっちもだめだよ。前が見えなくて歩きにくいでしょ」

 後ろから顔をのぞかせた彼女は頬を膨らませていた。

「つまんないの。初めての相合い傘なのに」

「最初だから、普通でいいじゃないかな」

 一瞬固まった表情を震わせ、柔和な笑顔でうなずく。

「そうだね」

 あはは、とおなかを押さえながら朗らかに笑うと、僕の隣に並んで傘に入った。

「ごめんね。なんかはしゃいじゃったね」

 ――まただ。

 なんで素直に受け止めてあげられなかったんだろう。

 彼女が悪いわけじゃないのに。

 山から全然進歩していない僕が悪いんだ。

 伝えなくちゃ。

 怒ったりしていないって伝えなくっちゃ。

 僕はとっさに傘を持ち替えて右手で左の襟を触った。

 それを見た彼女も真似をした。

 大丈夫。

 まだまだぎこちないけど、僕らはうまくやっていける。

「じゃあ、行くよ」

 予行演習を終えて雨の中へ一歩踏み出す。

 校門から駅までの道はケヤキの街路樹で区切られた歩道のある大通りで、歩行者はいないけど、車がけっこうスピードを出して走っている。

 相合い傘で寄り添う僕らの横を通り過ぎるときだけ、エンジンのうなりが大きくなるのは気のせいだろうか。

 雨脚は弱まったとは言え、すぐに長袖シャツの左袖全体がピタリと肌に張りついてしまった。

 僕は彼女の肩を濡らさないように、反対側に傘を回した。

 触らないように気をつかいすぎて、地球の裏側に手を回しているくらいに遠かった。

「いいよ、そんなに気をつかわなくて」

 でも、これも僕の気持ちだ。

 せっかく傘に入ってもらうんだから、彼女に風邪をひいたりしてほしくない。

 とはいえ、密着する勇気なんかどこにもない。

「もっと、間隔狭めていいよ。ほら」と、彼女が僕に体を寄せてくる。

 僕はそのままの距離を保とうとして横に逃げてしまう。

 彼女がますます詰めてくるたびに、いい香りが波のように押し寄せてくる。

 自分の鼻をもぎ取ってでもなんとか理性を保たないと犬になってしまいそうだ。

 歩道からはみ出すしかなくなって、追い詰められた僕はついに観念した。

 肩をくっつけながら歩く。

 でもやっぱり、紐で結ばない二人三脚みたいで歩きにくい。

「フォークダンスのつもりでリズムを取ればいいんじゃない?」

 チャララララララン、タラララララランと彼女が軽やかに歌い出す。

 しかも途中でターンまでして、ふわりとスカートが広がる。

「ちょ、え」

 自由すぎて、ハラハラしてしまう。

 幸い、雨でまわりに人は歩いていなかったし、歩道に沿って腰までの高さに刈りそろえられたサツキの植え込みがあるから、脇を通る車からも隠れていたと思う。

 もちろん、密着した僕の視点からだと何も見えない。

 変に疑われなくて、その方が助かる。

 だけど、思春期男子には『妄想』という名の神視点が備わっている。

 見えないはずの見えてほしかったものがしっかり見えてしまったような気がして顔が熱くなる。

 何か別のことを考えてクールダウンしないと破裂してしまう。

 なのに、ごまかそうとすればするほど意識が集中してしまう。

 ありがたいことに、そんな僕を、音程もリズムも外れた彼女の鼻歌が現実に連れ戻してくれた。

 ――ていうか、ものすごい音痴だ。

 思春期男子の妄想を一瞬にして鎮火するほどの破壊力だ。

 だけど、楽しんでいる気持ちだけは伝わってくるし、あんなにずれていた二人の歩くテンポが、なぜかそろうのが不思議だ。

「あ、笑ってる」と、彼女が頬をふくらませる。「前に教えたでしょ。私の弱点」

「これほどとは思わなかったから」

「正直でひどい感想ありがとうございます」と、彼女は鼻歌をやめた。

 だけど、一生懸命右手で左の襟をつかんで、本当は怒ってないよとアピールしてくれる。

「そんなに目立つと、意味ありげで、秘密の合図にならないよ」

「だって、この合図楽しいんだもん」

 ――僕もだよ。

 君のそんな表情をこんな間近で独り占めできるなんて、楽しくてしかたがないよ。

 そんなことをしているうちに、駅前広場まで来てしまった。

 地元の僕はここでお別れだ。

 いつの間にか忘れていた相合い傘の緊張に気づいて膝が震え出す。

 残念だけど、これ以上だと、心臓が持ちそうにない。

 今ならフルマラソンでももっと楽にゴールできそうな気がした。

「傘、持って行きなよ」

「カズ君が家に着くまでにびしょ濡れになっちゃうよ」と、大げさに手を振る。「いつもね、お母さんがちょうど仕事帰りの時間だから、駅まで車で迎えに来てくれることになってるの」

「ああ、そうなんだ」

「うん、今日はありがとう」と、彼女が右肩に頬を埋めるように首をかしげた。「楽しかったよ」

 僕もだよ。

 と、お互いに自然と右手を左襟に当てていた。

「伝わっちゃったね」

「うん」

 また明日、と手を振って僕らは別れた。

 ――また、明日話せるんだ。

 ただのあいさつかもしれないけど、それは僕らにとって大事な未来の約束だった。

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