(1-5)


   ◇


 それから頂上にたどり着くまでのことはほとんど記憶にない。

 ひたすら脚を上げて一歩一歩前に進んだとしか言いようがない。

 昼食もクラスのみんなから離れて、岩陰に隠れながら一人で食べた。

 山の上にいるのに、まわりの風景が目に入ってこない。

 霧から一転、皮肉なくらい真っ青に晴れた空の下で僕は一人だった。

 何があったのかも、何ができたのかも、正解が一つも分からない。

 考えれば考えるほど袋小路に迷い込む。

 なんとかしたいという気持ちはある。

 だからこそ考えようとしているんだ。

 なのに、何も思いつかない。

 公式とか、法則とか、解き方がどこにも載ってないし分からない。

 だけど、いいのか?

 一生後悔しながら生きていくのか?

 と、僕の目に上志津さんの姿が刺さった。

 昼食を終えて、野村さんと二人で風景を眺めに歩いているのだった。

 僕はとっさに立ち上がっていた。

 逃げてばかりの自分が嫌だった。

 目をつむっていたって、見えなくなるだけで、解決するわけじゃない。

 彼女を追って一歩足を踏み出すと、こんがらがっていた思考の糸がすっとまっすぐに伸びたような気がした。

 僕にもほんの少しだけ勇気のかけらが残っていたらしい。

 話をするんだ。

 自分から声をかけるんだ。

 それで嫌われるなら仕方がない。

 そもそも、チャンスがあるなんて思ってるから壊したくないなんて弱気になるんだ。

 馬鹿な勘違いをしてたんだって気がついただけなんだよ。

 失う物なんか何もない。

 手に入れてもいないし、もうとっくに信頼なんか失っているんだ。

 少し離れた人のいない場所で岩に腰掛けている二人に向かって、僕は大股で歩いていった。

「ちょっと、話をさせてくれませんか」

 言い方が分からなかったから、飾りのない言葉で用件をそのまま伝えた。

 二人そろって顔を上げたけど、上志津さんがうつむいてしまったせいか、野村さんにまで視線をそらされてしまった。

 でも、いきなり結果が出て、かえって気持ちがすっきりしていた。

 嫌われたんだ。

 ならば、謝罪の言葉を述べたら頭を下げて立ち去ればいいんだ。

 それで元に戻る。

 楽になれるんだ。

 どうせ、最初から何もなかったんだから。

「さっきは逃げちゃってすみませんでした。あの場でどうしたら良いか分からなくて、パニックみたいになっちゃって」

「べつにいいよ」

 上志津さんはうつむいたままそうつぶやいた。

 予想通りの反応に回れ右をしようとしたときだった。

 彼女の声が聞こえた。

「モテ期とか言われて、うれしかったんでしょ」

 ちょっとちやほやされて調子に乗る男の話を聞いていただけに、なんとも言い訳が見つからない。

 だけど、僕の中で何か芯のようなものが震えた気がした。

 グラスの中で溶けた氷がカランと音を立てるみたいに。

「それは誤解です」

 隣で目を丸くした野村さんが僕を見上げた。

 さっきまでの葛藤が嘘のように僕は冷静だった。

「僕はかっこわるいし、取り柄もないですけど、自分が自分じゃない自分にされてしまうのは嫌です」

 ようやく上志津さんが顔を上げてくれた。

「話を聞いてくれませんか」

 僕が上志津さんの右隣に座ろうとすると、左側にいた野村さんが静かに立ち上がった。

 僕らに背を向けてお尻の埃をはたくと、何も言わずにみんなのところへ戻っていく。

 上志津さんは友達の後ろ姿を見送ってから顔をこちらへ向けたけど、視線だけはうつむいたままだった。

 いざ二人だけになると、急に言葉が詰まってしまう。

 何を言おうとしていたのかすら、思い出せない。

 上志津さんは固まったままだ。

 だけど、逃げないで、僕の言葉を待ってくれているんだぞ。

 しっかりしろよ。

 でも、頭の中は真っ白だった。

「ええと……なんだっけ」

 そんな間抜けな切り出し方に、ぷっと吹き出して顔を赤らめる彼女を見ていたら、やっと言葉がこぼれ落ちてきた。

「あの……ですね、協調性の話なんですけど」

 首をかしげながら彼女が視線を向けてくれた。

「学校の成績表で長所の欄にずっと『協調性がある』って書かれてたんだけど、それってまわりに合わせるというか、空気を読むのがうまいってことなんだろうけど」

 うまく伝わってるんだろうか。

 彼女は首をかしげたままだ。

「でも、まわりに合わせるっていうのは『自分を主張しないこと』だったんじゃないかなって思ったことがあって、あんまり良いことでもないというか、実は短所なんじゃないかって」

 彼女は何も言わないけど、しっかり話を聞いてくれている。

「それで、さっきのことなんだけど……」

 彼女がまた顔を伏せた。

 うまく言えているのかどうかは分からないけど、言わなくちゃならない。

 僕が伝えたいのは自分の言葉なんだ。

「もともと自分がまわりに合わせていたのは、そもそも主張したい自分の芯みたいなものを持ってないからなんだって気づいたんだ。ただまわりに嫌われないように合わせるだけで、自分の気持ちとか、本当は誰かに決められちゃいけないことが今まで何もなかったんじゃないかってね。今までずっと僕は空っぽだったんだよ」

 うつむいたまま、彼女が軽くうなずいてくれたような気がした。

 僕はそんな彼女のちょっとした仕草を見つめながら、言葉を紡ぎ出していた。

「だけど、さっき、それじゃいけないんだって、なんか、そう思ったんだ。何も言えない自分がすごく嫌で、そんな気持ちになったのは初めてだったから、なんでなんだろうってずっと考えてたんだ。それで、やっと、生まれて初めて失っちゃいけない大事なものがあるってことに気づいたんだ」

 言い切ったところで一息ついたら、つい、ぽろっと本音も出てしまった。

「逃げちゃったけどね」

 うつむいたまま彼女が力なく笑ってくれた。

「私もね……」

 ずっと黙っていた彼女がようやく心を開いてくれた。

「自分でもどうなっちゃったのか分かんなくて」

 今度は僕が受け止める番だ。

「みんながカズ君のことを褒めてるのがうれしかったけど、なんかモヤモヤして我慢できなくなっちゃって。それにね、みんなにみっともない姿を見せちゃって、自分でもどうしていいのか分からなくなっちゃって。私もパニックだったのよね」

 僕と同じだったんだと思うと、急に彼女がふつうの女の子なんだなって思えた。

 ずっと勝手に遙か彼方の高みにいる憧れの存在だとばかり思い込んでいたけど、血の通った僕と同じ人間なんだって当たり前のことに気づいたんだ。

 彼女自身が言ってたじゃないか、『ドキドキしてるよ』って。

 なんで僕はちゃんと受け止めてあげなかったんだろうか。

 彼女自身の姿を全然見ていなかったんだ。

 宇宙人でも、古代の女神像でもなく、今僕のすぐ隣にいるのは、ごくふつうの女の子なんだ。

「自分がからかうのは楽しいけど、他の子たちがやってるのを見てるのは嫌だなって」

 一呼吸の後、彼女が顔を上げてくれた。

 僕の知っている、朗らかな笑顔だった。

「なんかそれって、自分のおもちゃを取り上げられた子供みたいだよね」

 そうなのかな。

 なんと返事したらいいのか分からなくて、今度は僕が首をかしげる番だった。

「だとしたら、私ってサイアクだよね」

 思い切り首を振る。

 ちぎれそうなくらい振ったせいか、彼女がまた吹き出した。

「カズ君はいつも正しい答えを見つけようとしてるみたいだけど、私だって、正解なんて分からないよ」

 ちゃんと見ててくれてるんだ。

 僕が言葉を発せないときの気持ちも、その理由も、一生懸命考えてるんだってことも全部。

 ちゃんと、見ててくれてるんだ。

「それが何だか分からないと、言葉にするのって難しいでしょ。山に登ったことのない人は高いところから見たきれいな景色を説明することはできないし、海で泳いだことのない人は、どれだけ広いかも、すごくしょっぱいことも想像できないでしょ。子供ってまだ言葉を知らないから、感情的に泣いたりして理解してもらうしかないじゃない。私、自分が子供なんだなって、恥ずかしくなっちゃった。こういうときにどうしたらいいのか知らないままここまで来ちゃったんだなって」

 そして、膝に肘を置いて背中を丸めながら、ふっとため息をこぼした。

「だから、カズ君がちゃんと話してくれて安心したの」

 ――言わなくちゃ。

 これからはちゃんと言わなくちゃ。

 ちゃんと聞いてくれる人がいる。

 聞いてほしい人ができた。

 だから、ちゃんと伝えなくちゃいけないんだ。

「これって、山の上でする話じゃないよね」と、笑いながら彼女が立ち上がる「景色見ようよ」

 ――そうだね。

 あ、ちゃんと声に出して言わなくちゃ。

「そうだね」

 声を張った返事に彼女が振り向く。

「らしさも大事だと思うよ」と、僕を指さす。

 難しい注文だなあ。

 両手を空に突き上げて背伸びをすると、彼女がスマホを取り出した。

 ぐるりとスライドさせながらパノラマ写真を撮影し始める。

 邪魔になっちゃいけないかと一歩下がろうとしたら、「そのまま」と怒られてしまった。

「最後、カズ君が入ってないと意味ないじゃん」

 意味って、どういう意味よ?

 そもそも、さっきから気になって仕方がない。

 いつのまにか僕、『カズ君』になってるんだけど。

 女子からそんな風に呼ばれたことがないからまるで落ち着かない。

 そう呼ばれるたびに、ドアノブの静電気で手を引っ込めてしまうみたいに身構えてしまう。

「カズ君も、私のこと、『あきほ』って呼んでよ」

 いや、ムリムリ。

 めちゃくちゃハードルが高いし、そんなのクラスの連中に知られたら、どうなるか想像もつかない。

 せめて名字ならまだしも、いきなり名前の、しかも呼び捨ては無理でしょ。

 非モテ男子にとってはハードルどころか棒高跳び並みの目標だよ。

「じゃあ、練習しようか」

 はあ?

「マイ・ネーム・イズ・アキホ。プリーズ・コール・ミー・アキホ」と、彼女が人差し指を立てた。「はい、リピート・アフター・ミー」

「プ、プリーズ・コール・ミー・カミシヅサン」

「なんでそこを変えるのよ」と、脇腹にツッコミが入る。「らしくていいけどね」

 いきなりは難しいけど、努力はしてみます。

「さっきはごめんね」と、急に話が変わった。「モテ期で調子に乗ってるとかって、ひどいこと言っちゃって」

「いや、べつに、そう言われても仕方がなかったし」

「ううん、カズ君は悪くないよ」

「でも、その場で誤解を解こうとしなかったのは僕のせいだから」

 彼女は一瞬唇を噛むようにためらってから、話を続けた。

「実はね、昨日からずっとモヤモヤしちゃってたの」

「何かあったの?」

「昨日の夜、寝るときにね、女子って恋バナするじゃない」

 まあ、そういうものなのかな。

「それで、みんなもカズ君のことをね、『地味真面目だけどいいところあるよね』って言ってたんだよ」

 え、僕が?

 そんなの言われたこともないし、そもそも女子の話題にされた経験すらないから、全然実感がわかない。

 おそらく、目の前で言われても自分のことだとは信じられないだろうな。

 急に自信を持てと言われても無理なものは無理だ。

 考え込んでしまったせいか、彼女が口をとがらせる。

「なによ。あんまりうれしそうじゃないじゃん」

「褒められ慣れてないからさ」

「そういうの良くないよ。うれしいときはちゃんと喜んだ方がいいよ」

 そんなことを急に言われても。

「褒めてあげるから、喜ぶ練習してみなよ」

「え、どうやって?」

「カズ君、カッコいい!」

「う、うわぁい」

「ダメ、零点」

 リアクションのぎこちなさに、カッコいいどころか、最悪の点数をつけられてしまったらしい。

 昭和の舞台監督なら、「大根か!」と、灰皿を投げつけてるところだろう。

「じゃあさ、見本を見せてあげるから、私のことを褒めてよ」

 令和の演出家も、なかなか無茶ぶりがお好きなようだ。

「か……、かわいいよ」

「ホントに?」

 見開いた目が僕をまっすぐに見つめている。

 リアクションは完璧だけど、ものすごく照れくさい。

「ねえねえ、他には?」

 なんで欲しがるのよ。

 彼女のいいところなんてありすぎて、どれから言えばいいのか迷ってしまう。

 き、君はこの世を美しく照らし出す澄んだ光だよ。

 雨の滴に閉じ込めた風景を輝かせ、水たまりに映る空をきらめかせ、この世がどれほどの奇跡で満ちあふれているかを教えてくれる、そんな光なんだ。

 君といると、目が覚めても夢の中にいるみたいだよ。

 僕にとって、君は夢や希望そのものなんだ。

 でも、それを言葉にするなんて。

 言葉じゃ表せないよ。

 君の良さは君そのものなんだから……。

「ねえ、どうしたのよ?」

 ――あ……。

「いいところを思い浮かべていたら、僕にくらべて褒めるところがありすぎて、頭の中が一杯になっちゃってさ」

「君だって、いいところがないわけじゃないでしょ」

「そうかもしれないけど、そんなにないよね」

「君のいいところは、私のことをちゃんと考えてくれてるところだよ。それだけでも十分じゃん」

 と、そこでC組に集合がかかった。

 二人でみんなのところに向かっていたら、上志津さんの荷物を持った野村さんがやってきた。

「あ、いたいた。晶保、集合だってよ」

「うん、行こうか」

 僕は岩陰から自分の荷物を取り上げて少し離れながらついていった。

 先導役の先輩の説明によれば、登りとは別のルートで下るようだった。

「これから下山ですが、登りの時よりも膝に負担がかかったり、勢いがついて転ぶ危険性が増しますから、十分注意してください」

「ウイッス!」

 拳を突き上げる連中に紛れて、僕も真似をしてみた。

 ちらりと女子の方を見たら、上志津さんが手を振ってくれていた。

 手を下ろす動作の流れで控えめに手を振り返したら、彼女の隣にいた野村さんが僕に向かってエアでパンチを繰り出していた。

 ――バレてるよ。

 そりゃそうか。

 さっき、二人だけにしてくれたことに感謝しなくちゃな。

 下山の間、上志津さんと接する機会はなかったけど、まわりの風景を眺める心の余裕ができていた。

 こんなにきれいだったんだな。

 別々に見ているこの風景を、学校に帰ってからも共有できたらいいな。

 そんなことを考えながら山を下る足取りは、いつの間にか空を歩いていけそうなほど軽かった。

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