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   ◇


 翌朝目覚めると、窓の外には濃密な霧がたちこめていた。

 森の木々を縫い合わせるかように無数の蜘蛛の巣が張ったみたいで、朝日の方角すらも分からない。

 僕と上志津さんが登ったスキー場の斜面も白いベールに覆われていた。

 朝食の最中に、体育主任の先生から説明があった。

「天気予報では晴れなので、とりあえず、この後、バスで登山口まで移動します。そこから第一ポイントの展望台まで登りますが、霧が晴れなかった場合はそこで下山します。霧が晴れそうであれば、そのまま予定のスケジュールで続行します。各クラスの保健委員は全員の体調管理カードを確認して提出してください。以上」

 朝食後にバスに乗り込み目的地へと向かう間、僕は窓の外の白い景色をぼんやりと眺めていた。

 昨日の出来事は目の前を覆い尽くす霧のようで、記憶と呼ぶには曖昧過ぎた。

 上志津さんとはあれ以来、会話どころか顔を合わせる機会もなかった。

 いくら仲良くなったとはいえ、まわりの目もあるから、いきなりなれなれしく話しかけていいものではないだろうし、そもそもそんな勇気など持ち合わせてはいない。

 これまでの人生で引きこもり続けた非モテバリアからはそう簡単に足を踏み出すことなどできないのだ。

 友達の野村さんの姿を見かけただけで、もしかしたらそばにいるんじゃないかと期待してしまうのに、いざ目が合ったりしたら、どう返せばいいのかも分からなくて後ずさってしまう。

 ――いいんだよ。

 大丈夫、いいんだよ。

 あれは僕の思い込みだったんだろうか。

 本当にそんな声が聞こえたんだろうか。

 考えれば考えるほど自信がなくなってしまう。

 バスの窓に、時折自分の顔が映る。

 ブサイクと言うほどではないけどイケメンでもないし、何か取り柄があるわけでもない。

 今まで女子と接点なんかなかったのだ。

 あんなに踏み込んだ距離感の意味が分からない。

 夢を見ていたのかもしれないし、あまりのショックで、自分で勝手に都合良く記憶を塗り替えてしまっているのかもしれない。

 ただ、ポケットの中にはリフトのチケットが入っていたし、スマホには誰にも見せていない僕ら二人の写真がちゃんと残っている。

 ――いいのかな?

 大丈夫なのかな?

 そんな自問を続けているうちにバスは登山口の駐車場に到着した。

 降りてみても、周囲はまったく霧が晴れそうになかった。

 むしろ、ホイップクリームに顔を突っ込んでしまったかのように濃くなっている。

 この状態での登山は罰ゲームだ。

「よっ!」と、いきなり後ろから両肩をつかまれた。

「うわっ!」

 振り向くと、上志津さんの笑顔が待ち構えていた。

「何、どうしたの。そんなにびっくりして」

「あ、いや、声かけられると思ってなかったから」

「霧の中から幽霊でも現れたと思った?」

「そんなことはないけど」

 君にはいつも驚かされるよ。

 ――今日も笑顔が素敵だね。

 言えるわけないだろ、そんなセリフ。

 昨夜、布団の中で何百回と想像を繰り返した会話が霧の中に虚しく紛れていく。

「山登り楽しみだね。私たち、昨日練習したから準備はバッチリだよね」

 僕は巻き込まれただけなんですけどね。

 でも、こうして会話をしていることが、昨日のことが夢ではなくまぎれもない現実であることの証拠だった。

 ――いいんだね。

 大丈夫なんだね。

 僕は君のそばにいてもいいんだよね。

 と、そこへ集合の号令がかかった。

「あ、じゃ、またね。頑張ろうね」

 彼女は手を振って指定された列に並びにいった。

 先導役の先輩が僕らに指示を出す。

「まだ霧も出てるので、はぐれないようにここから第一ポイントの展望台までは隊列を保ったまま登ります。ゆっくりめのペースで登りますが、きついと思ったら、途中に待機してるサポート役の人に言って遠慮なく休んでください。無理をすることはないです。安全第一で行きましょう」

「ウイッス!」と、威勢良く掛け声をあげて、僕らは登山道へ足を踏み入れた。

 昨日の草の斜面と違って階段状に整備された登山道だから、傾斜がきつくて脚は疲れるけど登りやすかった。

 一歩一歩進む隊列とは対照的に斜面に沿って霧が滑るように流れていく。

 途中から霧というよりは霧雨に変わってきて、気温も上がらなかった。

 体を動かして熱が出ているはずなのに、露出した肌はひんやりとして時折風が吹くと体が無意識のうちに震えるほどだった。

「これ、中止じゃねえの」

 誰かの声に同調してみんなの不満がどんどん膨らんでいく。

「汗ぐっしょりで気持ち悪いぜ」

「いや、これ、完全に雨だろ」

「もう、ここで写真撮って帰ろうぜ」

「この霧じゃ、上で撮っても変わらないんだろうし」

「何にも見えねえもんな」

 だよな、と愚痴をこぼしているうちに岩が垂直に立ち塞がっている場所に出た。

 胸ぐらいの高さの岩が、二段に重なって並んでいる。

 手をついて地面を蹴るようにして体を岩の上に持ち上げてなんとか一段目をクリア。

 二段目も同じ要領で行けるかと思ったけど、体がこわばってしまった。

 一段目なら下は地面だから一歩下がって軽く助走の勢いもつけられるけど、二段目は足場が狭いし、ここで失敗するとそのまま滑り落ちて怪我をする可能性が高い。

 腕を上げて懸垂の要領も加わるから、ある程度の筋力がないと上がるに上がれないのだ。

「おい、先行くぜ」

 運動神経の良さそうな連中は、脚のバネも使ってどんどん上がってしまうけど、運動音痴の僕は手足がどうにもギクシャクするばかりで立ち往生してしまった。

 そうこうしているうちに女子の隊列も追いついていた。

「あ、ショウワ君だ」

 野村さんが僕を指さす。

 その隣にいるのは上志津さんだった。

 彼女は余裕の表情で一段目の岩に上がってきた。

「どうしたの?」

「微妙に高くて、行けそうで行けなくて困ってたんだ」

「ああ、しっかり岩をつかまないとダメだね」と、彼女も実際に手をかけて上がろうとしたけど腕力が今ひとつ足りないようだった。

「じゃあ、私、下で支えてあげるから、先に登りなよ」

 情けない姿をさらしてしまったけど、みんなの邪魔になっているから早く上がってどかなくちゃならない。

 上志津さんにお尻を押してもらいながら僕はなんとか二段目の岩を登り切った。

「ねえ、手を貸してよ」

 息をつく暇もなく今度は上志津さんを引き上げる。

 手を握るとかそんなことを気にしている余裕すらなかった。

「ありがとう」

 すると、今度は野村さんが一段目に上がってきた。

「ショウワ君、あたしも助けてよ」

 言われてとっさに手を差し出す。

「おっ、やっさしいじゃん」と、野村さんがしっかりと僕の手をつかんで上がってきた。

「ねえ、うちらもよろしく」

 餌を求めるひな鳥のように、下から女子全員が僕に向かって手を差し出していた。

 え、ちょ……。

 何、このシチュエーション。

 まるで恋愛シミュレーションゲームのイベントみたいな光景だった。

 すると、横からタオルが差し出された。

「これにつかまってもらうといいよ。手が滑りにくいし、引き上げやすいから」

 上志津さんが口をとがらせて僕を見ていた。

 ――え、何?

 なんかちょっと不機嫌そうなんだけど。

 でも、言われたとおりにタオルを握ってもらうと、たしかに汗で滑らないし、僕も上体を起こして足を踏ん張れるから引き上げやすかった。

「ありがとう、ショウワ君」

「自分だけだと無理だったわ」

「ホント、やさしいね」

 みんなに感謝されながら、結局、クラスの女子全員を引き上げていた。

 次のクラスを先導してきた三年生の先輩が軽々と岩を登ってきて僕と交代した。

「ナイス、ご苦労さん。すげえ活躍じゃん。あとは俺が替わるよ」

「じゃあ、お願いします」

 自分のクラスからはぐれてはまずいので、僕は女子の最後尾についていった。

 タオルを返したかったけど、上志津さんは野村さんに背中を押されてだいぶ先に行ってしまったようだった。

 いつも賑やかな他の女子たちもさすがに疲れてしゃべる余裕はないのか、歩いている間はほとんど無言だった。

 それはそれで僕も気をつかう必要がなくて、脚は疲れたけど気持ちは楽だった。

 一時間後に、第一ポイントの展望台に到着した頃にはようやく霧も晴れて、青空が顔を見せ始めていた。

 日差しのせいか下よりも気温も高く、休憩している間に霧で湿っていたジャージも乾いて快適だった。

 後続のクラスが到着するたびに、体育の先生が拡声器で慌ただしく指示を出す。

「ここで休憩の後、予定通り頂上を目指します。クラス委員は点呼、保健委員は体調チェック、サポート係はルート確認。ここからは各自、自分のペースで登って構わないぞ」

「オイッス!」

 元気な連中は点呼を終えるとヨッシャと叫びながら駆け出していく。

「よくあんな元気あるよね」

 少し離れた場所から野村さんの声が聞こえてきた。

 座りやすそうな形の岩に腰掛けて、真っ赤な顔を帽子であおぎながらサーモボトルの飲み物を飲んでいる。

「バテないといいけどね」と、隣で上志津さんはグミを口に入れていた。

 僕は預かっていたタオルを返しに行った。

「お、ショウワ君、さっきはありがとうね」

 先に声をかけてくれたのは野村さんだった。

「いや、どういたしまして。これ、タオル」

「あ、そうだったっけ」と、上志津さんが立ち上がる。「助けてもらったのに、先に行っちゃってごめんね。あの場所、せまくて居場所がなかったから」

「い、いや、べつに大丈夫だから。そもそも、さ、先に僕が押してもらったんだし。どうも、ありがとう」

 野村さんが僕らをじっと見上げているのもあって、ぎこちない会話は途切れてしまった。

 と、そこへ昨日のカメラを持った池田がやってきた。

「ねえねえ、これさ、その場で写真ができるインスタントカメラなんだけど、記念に一枚撮らせてもらえないかな。二人一緒にどう?」

 上志津さん一人だと断られそうだけど、野村さんと一緒という口実を考えたのはなかなか策士だな。

 僕は邪魔だろうから脇によけた。

 でも、池田の思惑通りにはいかないようだ。

 上志津さんの横で野村さんが勢いよく立ち上がる。

「せっかくだからさ、記念にうちらみんなで撮ってよ」

「え、なになに、写真撮るの?」と、まわりで休憩していた女子たちも集まってくる。

 想定していた流れと違う状況になって、あからさまにがっかりしたような表情をしていた池田だけど、霧が晴れて遠くまで見通せるようになった風景をバックに集合写真を撮ってあげていた。

 できあがった写真に女子たちが群がる。

「アハハ、インスタント写真って小さいんだね」

「景色どこよ。うちらしか写ってないじゃん」

「これじゃ、どこで撮ったか分からないよね」

「それに、一人一人小さくて顔がよく分からないし」

「スマホだったら、拡大して見ることもできるのに。レトロとか全然だめじゃん」

 せっかくの記念写真なのに散々の言われようで、池田はうなだれながら男子グループに合流すると、第二ポイントに向かって出発してしまった。

 それでも女子たちはスマホで写真をシェアし合って結構喜んでいた。

「ショウワ君も保存しなよ」と、野村さんが僕に写真を突きつける。

「いや、べつに。遠慮しておくよ」

「なんでよ。みんなのこと助けてくれたんだから、お礼だよ」

 すると、まわりの女子たちもからかうように同調し始めた。

「そうだよ、そうだよ、遠慮しなくていいじゃん。カッコ良かったもん。ねえ」

「うん、見直しちゃった」

「うちらの王子様じゃん」

「やだあ、惚れちゃったりして?」

「どうしよう。アリかも」

 ノリだとは分かっているけど、非モテ男子には想定外の展開でツッコミを入れるタイミングが分からない。

 野村さんが僕の腕をつつく。

「おっと、モテ期到来じゃないの?」

 と、その時だった。

 急にみんなが黙り込んだ。

 ――え?

 みんなの視線をたどると、輪から外れたところで、上志津さんが口を結んで横を向いていた。

「え、何、何、晶保、どうしたの?」

 野村さんがあわてて駆け寄るけど、上志津さんは顔を背けてしまった。

「べつに何でもない」

「ゴメンってば」

 野村さんが謝ってるのに、返事をしないどころか涙まで浮かべている。

 気がつくとさっきまで僕を囃し立てていたみんながこっちをにらんでいた。

 ――え、何、何、何?

 僕が何かした?

 なんとかしなさいよという視線が僕に突き刺さる。

 だけど、僕にできることなんて何があるんだ?

 正解が分からない。

 答えがあるのかすら分からない。

 また膝が震え出す。

 よろける自分をなんとか持ちこたえながら僕はその場を離れてしまった。

 ――終わった……。

 始まってもいないのに終わってしまったんだ。

 サービスエリアで逃げたときとは状況が違う。

 明らかに自分に関係のある問題から逃げてしまったんだ。

 僕には無理だったんだ。

 あの声は正しかったんだ。

 いい気になるなよ。

 勘違いするんじゃねえよ。

 似合うわけないだろ。

 おまえはこんなところにいる人間じゃないだろ。

 そう、まったくその通りだったんだよ。

 調子に乗った自分が恥ずかしくて身震いが止まらない。

 なにが大丈夫だよ。

 ただの空耳じゃないか。

 何もかも捨ててしまいたくて、先に出発したクラスの男子連中を追って僕は駆け出していた。

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