(1-2)
◇
春四月。
中学卒業に続く長い春休み中に桜は盛りを過ぎて散っていたけど、おかげで入学式では花びらの絨毯を踏みしめながら高校の門をくぐることになった。
僕が通うことになる笹倉高校は県立の伝統校で、その起源は江戸時代の藩校にさかのぼる。
質実剛健、文武両道なんて令和の世の中ではすっかり聞かなくなった校訓が堂々と正面に掲げられた講堂に、昭和の時代から受け継がれた長ランとかいう学生服を着た応援団の先輩たちが並び、耳をふさぎたくなるような和太鼓の演奏が鳴り響く中、僕ら新入生は入学式にのぞんだ。
正直、高校生活に何かを期待していたわけではない。
ボッチ系非モテ陰キャ男子。
そんな僕だけど、いちおう進学校ということもあって、勉強さえやっておけばとりあえずクラスに居場所くらいはあるだろうと思っていた。
学校という場所にいればいるほど、自分の居場所を見失わないために空気を読むことだけは敏感になる。
中学三年間ずっと成績表の長所欄には、いつも《協調性がある》と書かれていた。
持ち合わせてもいないものを褒められてもうれしいはずがない。
でも、もちろん、そんなことを主張して争うほど協調性がないわけでもないから、結局のところ妥当な評価だったのかもしれない。
式典の最中、近くにいた男子グループは女子の品定めをしていた。
非モテ男子の僕が視界に入って邪魔なのか、のけぞったり、首を長くしながら「あの子かわいいな」「マジいいじゃん」なんて勝手な感想を言い合っていた。
そんな居心地の悪い入学式は、偉い人の長い話を上の空で聞いてるうちに終わり、一年C組の教室へと移動して自己紹介が始まった。
出席番号順に名前と出身中学を言う程度で、あとはやっていた部活とか趣味の話なんかを一言二言つけくわえて終わりにする人が多かったけど、陽キャというのはどこにでもいる。
「中学からバンドやってて、高校でもやろうと思ってるんで、興味ある人は声かけてください。あ、自分、ギターとボーカルっす」
「ネットに動画上げてて、フォロワー結構いるんですよ。よかったら登録お願いします」
「今日この後、カラオケ行くんで、時間ある人はみんな来ちゃってください」
それはすべて僕のようなボッチ系男子には関係ない世界の話だった。
明確にこちらとそちらで境界線を引かれてしまっては、もはや自己紹介など聞いていても意味がない。
うつむきながらやり過ごしていると、急に教室が静まりかえったことに気がついた。
――ん?
顔を上げてみると、空気が一変していた。
窓から差し込む光は変わらないはずなのに、急に輝きを増していたのだ。
爽やかな風が吹き抜けたかと思うと、どこからか青空に響き渡る大聖堂の鐘が聞こえてきたような気がした。
この世には天使が実在することを僕は知った。
その女子は翼を広げて舞い降りたかのように、教室の真ん中に立っていた。
天使の輪がきらめく黒髪を左右で束ねて胸の前に垂らし、長いまつげに守られた大きな瞳が印象的な笑顔は女神像のように柔和で、起立したときのスカートも大胆なくらい短く、そこから伸びたすらりと長い脚は肌が透き通るようになめらかだった。
他人から見られている姿と、こう見られたいと思う自分を一致させている女子だ。
そんなふうになめるように女子を観察してしまった自分を恥じつつも、僕は目をそらすことができなかった。
彼女が軽やかな足取りでいったん椅子の横にずれただけで、まるでそこだけスポットライトが当たって輝いているかのようだった。
僕同様に他人に関心を持とうとしなかった者も含めてクラスの視線が一点に集中していた。
陽キャ陰キャを問わず男子連中はその自信に満ちた魅力に絡め取られていたし、女子も純粋な憧れや羨望の混じった視線を送っていた。
一年C組の中心が決まった瞬間だった。
誰も異議を唱える者などいないし、また、疑問を抱く余地もなかった。
無言と静寂が承認の証だった。
彼女の声は決して大きくはなかったけど、澄んだ張りがあって聞き取りやすかった。
「成山市の御成台中から来た上志津晶保です。ちょっと遠くて他にこの高校に来た人がいないので、気軽に声をかけてもらえたらうれしいです。どうぞよろしくお願いします」
成山市はこの高校の最寄り駅から電車で三十分ほどのところにあって、隣の学区に区分けされる地域だから、あまりこちらの笹倉高校へ来る人はいないのだろう。
だけど、気軽に声をかけてほしいと言われた男子連中は急に色めき立ち、ざわめきと共に盛大な拍手が沸き起こる中、周囲に頭を下げながら彼女は席に着いた。
僕の頭の中では、澄み渡る空に向かって鳩の群れが弧を描いて飛び立ち、いつまでも鐘の音が鳴り響いていた。
分かってる。
僕と彼女に接点などないってことくらい分かってる。
だけど、同じクラスなんだ。
美術館の名画を鑑賞するように、あくまでも実在する美の具象として崇めたところで、それ自体は男子高校生の健全な心理と言ってもいいじゃないか。
――何を言ってるんだ、僕は。
自分でもわけが分からないくらい混乱してしまう。
それから後の生徒たちの自己紹介はまるで頭に入ってこなかった。
「おい……」
後ろから背中をつつかれる。
――は?
「次、君の番だよ」
「え、ああ」
ぼんやりしていてみんなに笑われてしまった。
「地元の笹倉南中学校出身の森崎和昭です。漢字を逆にすると昭和になります」
あわてて立ち上がったせいで、余計な一言を付け加えてしまった。
シーン……。
上志津さんとは違った意味で無言と静寂に包まれてしまう。
「おいおい、森崎、さんざん焦らしておいてそれだけか」
先生としてはフォローしてくれたつもりなんだろう。
「あ、ひゃい、えっと、はい、以上です」
声が裏返ってしまい、みんなが盛大に吹き出した。
弾け飛びそうなほど頭に血が上り、顔が熱くなる。
それでも、座るときに椅子を確かめる流れでチラッと彼女に視線をやると、あの柔らかな笑みを浮かべながら拍手をしてくれていた。
――ああ、よかった。
細く長い息を吐きながら僕は席に着いた。
僕は受け入れられたんだろうか。
彼女を中心に回る教室という名の楽園に招き入れられたんだろうか。
いや、気のせいだろう。
何を勘違いしてるんだよ。
彼女は天使なんだぞ。
同じクラスなのに僕のいる底辺からは手を伸ばしても届かない存在なんだ。
北斗七星と向かい合って北極星を巡るカシオペア座のように、つねにそこにいるのに、僕らの距離が縮むなんて、そんなことは絶対にあるはずはなかった。
――天変地異が起こらない限り。
運命のその日、僕は彼女のことをずっと見ていた。
いや、ずっとなんて、そんなに見ている余裕などなかった。
気にはなるんだけど、万一目が合ったりしたら気味悪がられるんじゃないかって、最悪な事態ばかり想像していたんだ。
視界の片隅に彼女の姿がチラリと見えただけで、風船に針を刺すみたいに心臓が破裂しそうで、僕は目を背けてしまう臆病者だった。
だって、本当に死んでしまうかと思ったんだよ。
だけど、それでもいいと思ったさ。
天使が迎えに来てくれるんだろ。
あの澄んだ鐘の音が空に鳴り響き、君の方から哀れな僕に手を差し伸べて天国へと招いてくれるんだろ。
それならやっと君に触れることができるじゃないか。
なのに、胸が張り裂けそうなこの苦しみに耐える勇気もなかったから、僕は君を見ないように、いつも目を背けてしまっていたんだ。
そんな矛盾した感情が恋だってことくらい、僕にだって分かる。
ただ、それがこんなにも苦しいものだったなんて、君に出会うまでは知らなかった。
少しでもその苦しみを感じそうになると足がすくんで飛び込めなくなる。
臆病なくせに、気になって仕方がない。
自己紹介の第一印象が僕の目に刻みつけられてから、まともに顔を向けることができなくなっていた。
高校初日が終わり、みんなはカラオケ親睦会に行ったけど、僕は駅前までついて行って、人数を確認する段階でこっそり気配を消して逃げてきた。
そんなところに僕の居場所がないのは分かりきっていた。
そのくせ、家に帰ってきても、僕の頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
スマホには無理矢理加えられたクラスのグループメッセージがひっきりなしに流れてくる。
上志津さんがどうしたのか気になって仕方がなかったけど、どうやら参加していないようだった。
夜、明かりを消して、ベッドに横になる。
具合が悪いわけでもないのに頭がぼうっとして顔が熱い。
頭の先にある窓のカーテンは開けたままにしてある。
天変地異を期待して、星が降ってこないかと僕は夜空を見上げていた。
逆さまに見上げる夜空は月が明るすぎて星なんか見えなかった。
まぶたを閉じれば君の姿が思い浮かぶ。
このまま目が覚めなければいいのにな。
想像の世界なら、君はいつでも僕に微笑みを向けてくれていたからね。
――きっと僕は……。
君に出会うために生きてきたんだ。
◇
質実剛健、文武両道の我が母校にはいくつかの伝統行事が残されていた。
その一つが、ゴールデンウィーク前におこなわれる登山合宿だった。
クラスメイトの顔と名前がだいたい一致してきた頃に、さらに親睦を深め、クラスの団結を確固たるものにするためにおこなわれ、一学年担当の先生方だけでなく、リーダーシップ研修として生徒会役員や選ばれた何名かの上級生も指導役として参加することになっている、とても気合いの入った伝統行事だった。
ジャージ姿で登校した生徒がバス八台に分乗して高速道路を走ること二時間、若葉がまぶしい山間のサービスエリアで休憩になった。
全員がいったんバスを降り、出発まで自由行動となった。
自販機で飲み物を買ったりスマホをいじったりする連中を横目にトイレへ行って用を済ませてしまえば、僕のような非モテボッチ男子にはやることなど何もない。
かといって、バスはドアが閉まっていて入れないから、サービスエリアの端まで無駄に歩いて時間を潰すしかなかった。
電気自動車の充電スポット前にある藤棚まで来ると、長い房が伸びてもうすぐ咲きそうな気配だった。
その下の柔らかな影に覆われたベンチにはうちの高校のジャージを着た女子が一人で座っていた。
車酔いで苦しいのか、呼吸を整えるようにややうつむきぎみにじっとしているせいで、横顔が長い髪の毛で隠れていて誰なのかは分からなかった。
前を通り過ぎようとすると、不意に彼女が顔を上げた。
思わず、あっと声が漏れてしまった。
それは上志津さんだった。
まぶしそうに目を細めながら僕を見上げる彼女はやはり少し具合が悪そうだった。
――大丈夫?
声をかけるべきかどうか一瞬迷って一歩踏み出そうとしたときだった。
「晶保、おまたせ!」
僕の後ろから駆けてきた女子グループが彼女を囲むようにベンチに腰掛けてペットボトルを差し出した。
僕はとっさにまだ花の咲いていない藤棚を見上げながらくるりとターンし、ジャージのポケットに手をつっこんで、「へえ、急速充電器が三台あるのか」と、電気自動車に興味のある理系男子のふりをした。
「トイレ大行列でさあ。先にドリンク買ってくれば良かったね」
「ううん、どうもありがとう」
「どう、まだふらふらする?」
「少し落ち着いてきたみたい」
「ああ、良かったあ。そんなにバス揺れなかったのにね」
「ふだんはこんなことないんだけどね。バスの匂いかな」
「ああ、なんか石油臭い感じあるよね。化学薬品みたいな」
賑やかな女子たちの声を背中に聞きながら僕はその場から逃げ出していた。
再出発後に、高速道路を下りて山道に入る頃には、上志津さんは車酔いを避けるために眠っているらしく、まわりの女子たちもスマホをいじったりしておとなしくしていた。
男子連中はトランプをやっていて、椅子の下にカードが落ちただのと時折騒いでいたけど、やがて飽きたのか車内はいつしか静まりかえっていた。
白樺の木に囲まれた道を登り続けて、午後の一時にようやくバスが宿に到着した。
昭和の時代からある自然の家という学生向けの宿舎は、学校を山の中に建てたような造りで、二十数名ずつ収容できる畳の大部屋が教室のようにいくつもならんでいた。
到着してすぐに部屋に荷物を置いたら体育館みたいに広い大食堂に集合し、遅めの昼食として弁当が配られた。
飲み物は麦茶が出されたんだけど、設備が古いせいか、大きなヤカンに沸かしたものを各クラスの配膳担当者が一人一人コップに注いで回るという手間のかかるやり方だった。
しかも、クラス全員分の麦茶が入った重たいヤカンをテーブルの上まで持ち上げるのはなかなか大変なようで、小柄な女子配膳委員さんは腕がぷるぷると震えて派手にこぼしてしまっていた。
「昭和の野球部かよ。ペットボトルにしろよな」
人にやらせておいて身勝手な文句ばかり言ってる連中のせいで泣きそうな顔をしているのが気の毒で、僕の番まで来たときに代わってあげることにした。
「ごめんね。どうもありがとう」
「い、いや、まあ、た、大変そうだから」
実際、それは僕が持ち上げてもかなり腕に来るものだった。
注いでいくうちに中身が減って軽くなるんだけど、そもそもヤカンが大きいせいで、小さなコップに狙いを定めるのが難しく、結局こぼしそうになるのがやっかいだった。
「おいおい、おまえも的を外すなよ」と、相変わらず陽キャ連中は茶化すけど、なんとか無事に配り終えることができた。
食事を済ませた後は、学級委員や保健委員など、翌日の登山でサポート役になる生徒は研修室に集まって話し合いをすることになっていた。
その一方で、僕ら一般の生徒はそれぞれの部屋に戻ったら、夕食まで四時間近く自由時間だった。
宿舎にはグラウンドもあって、まとまりの良いクラスだと事前に計画を立ててサッカーボールやバドミントンなどの道具を用意して来てるんだけど、僕らのクラスでは誰もそんな真面目な企画を考えてはいなかった。
生徒の自主性を重んじる我が母校では、それ自体はべつに問題視されることではない。
「なあ、女子の部屋に行ってみようぜ」
「まだ明るいのに?」
「おいおい、暗くなってから何しに行くんだよ」
健康的な思春期男子によるお約束の会話が始まるものの、実際に行こうとする勇者は現れない。
もちろん彼ら以上にヘタレな僕は距離をおいて、そんな連中の様子をぼんやりと眺めているだけだった。
池田という生徒がバスの中で使っていたトランプを持ち出した。
バンドをやっていると自己紹介していた男で、一部の女子には人気があるらしい。
「なあ、トランプでさ、負けたやつが女子の部屋に声をかけに行くってどうよ?」
「罰ゲームか。いいねえ」と、陽キャ仲間が集まってくる。
トランプを座布団の上に投げ出した池田は自分のカバンからもう一つ何かを取り出した。
それはその場で写真が出てくるインスタントカメラだった。
女子に人気のキャラクターがデザインされた物で、白いプラスチック本体が少し茶色に変色していた。
「中古ショップで買ってきたんだ。二十年前のだけどちゃんと写るんだぜ。女子ってこういうアナログなやつほどエモいとかって食いつくじゃん」
「いいねえ。誰の写真撮るんだ?」
「そりゃあ、やっぱり上志津さんだろ」
だよな、と全員一致でうなずく。
僕も心の中で一票入れておいた。
「でもよ、それって一枚しかできないんだろ」
不満を言うやつらに池田が言い返す。
「写真をスマホで写せばいいじゃんか」
「だけど元のプリントはおまえが独り占めするんだろ」
「だって、しょうがないじゃん。俺のなんだから」
「それじゃ、つまんねえよ」と、一人が声を上げた。「ゲームで負けたやつが写真を撮りに行って、勝ったやつの景品にするってことにしようぜ。スマホでコピー撮るとかなしでさ」
「お、その方が面白いか」と、他のやつが親指を立てる。「勝ったら天国、負けたら地獄だな」
「そうだ、そうだ、そうしようぜ」
結局、みんな写真がほしいのか、盛り上がりたいだけなのか、どっちなんだか分からなくなってきた。
カメラを持ってきた池田は不満そうだったけど、みんながそう決めた以上、逆らうつもりはないようだった。
「じゃあ、そういうことで。何やる?」
「そのトランプ、一枚足りないぞ」
「だったら、ジジ抜きでいいじゃん」
「そりゃいいな」と、みんなが輪になって座った。
カードを配り始めたところで、池田が僕を呼んだ。
「森崎、何してんだよ。座れよ」
え、僕?
加わるつもりはなかったのに、早くしろよと促されてしかたなく輪の中に入り、カードを受け取った。
二枚のジョーカーを含めて、一枚足りない五十三枚のトランプを十数人で分けるのだから、なかなか組み合わせが成立するやつがいない。
だけど、何組か捨てられ始めると、流れが一気に傾いた。
「よっしゃ、一抜け! 写真ゲット!」と、まずは勝者が決まった。
「俺も上がり!」
「イエーイ、ラッキー。罰ゲームやべえよ」
次々と勝ち抜けてプレイヤーが減っていく一方で、なかなか僕はそろわなくて嫌な予感がつのっていく。
ついに僕と佐々木というボッチ系男子同士の地味な対決になってしまった。
相方のいないハズレのカードが残った方が負けだ。
普通のババ抜きならジョーカーを引かせるために駆け引きがあるかもしれないけど、ジジ抜きだと自分でも正解が分からないからイマイチ対策の取りようがない。
佐々木君はあっさり一枚引くと、ホッとしたように背中を丸めながらカードを捨てた。
僕の負けだ。
「じゃ、森崎、頼んだぜ。フィルムはセットしてあるからボタン押せば写るからよ」と、池田にインスタントカメラを押しつけられて、僕は部屋を追い出された。
男子の部屋は西館、女子は東館に分かれていて、二つの建物は渡り廊下でつながっている。
僕は棘が刺さった象みたいな重い足取りで廊下を歩いていた。
本当にこんな珍しいカメラだからって撮影を了承してもらえるんだろうか。
そんな簡単にすむとは思えない。
行かないとノリが悪いやつと仲間はずれにされるだろうし、かといって女子全員に取り囲まれて、キモい男子のくせにって追い出されたら、最悪、退学転校コースだ。
前にも後ろにも逃げ場はない。
足が進まないし、心臓は暴れて、廊下の空気はひんやりとしているのに汗が噴き出す。
廊下を渡って東館に入っても、すぐに女子の部屋をノックする気にはなれなかった。
――いや、ムリだよ。
これまで十五年、ずっと非モテ男子でやってきた僕だよ。
女子との接点なんてほとんどなかったんだ。
いったい何て言えばいいんだよ。
と、迷っていたら女子の部屋のドアが開いた。
思わず後ずさる。
「じゃあ、また後でね」
どうやら他のクラスの女子たちが遊びに来ていたらしく、去っていった後に顔を出したショートヘアの女子が僕を見つけて思い切りニヤけた。
上志津さんと仲が良い野村梨奈さんだ。
サービスエリアでペットボトルを差し出していたのも彼女だ。
「あれえ、もしかして、誰かにコクりに来たの?」
「ち、違うから」と、ちぎれそうなくらい手を振ってしまう。「トランプで負けたから、ば、罰ゲームで女子の写真を撮らせてもらいたいんですけど」
人から強制されたという言い訳は僕にとって都合が良かった。
動揺しつつも言葉が滑らかに出てきた。
「誰でもいいの?」
「みんなから、か、上志津さんにお願いしろって言われてて」
「晶保かあ」と、口をとがらせつつも野村さんが片目をつむる。「だよね。呼んできてあげる」
ありがとう。
喉が詰まって声がかすれてしまう。
いったんドアが閉まり、廊下が静かになる。
用件を言えたことにはホッとしていたけど、別の緊張感が襲いかかってきた。
今度は上志津さんと一対一で話さなければならないのだ。
相手は天使だぞ。
天使に何て言ってお願いすればいいんだよ。
信じる心があれば救われるのか。
ならば、投げ出せ。
おのれのすべてを捧げるんだ。
――いやいや、無理だって。
気合いとかそんなので通用するわけないって。
カチャリとドアノブが回る。
ますい、どうしよう……。
体の中で大蛇が暴れたみたいに心臓が跳ねて吐きそうになる。
静かにドアが開いて、隙間から天使が顔を出した。
上志津さんはジャージの上着を腰に巻いて体操服姿だった。
廊下が暗いけど、顔色は良さそうだった。
「あ、来てくれたんだ」
「へ?」
間抜けな声しか出てこなかった。
「梨奈がショウワくんって言うから、誰かと思っちゃった」
スベった自己紹介のおかげでそんな呼び名がついていたとは知らなかった。
「知らない人だと気が進まないでしょ」
それはそうだろう。
もうキモいやつって思われてるんだ。
僕はさっさと用事を済ませて逃げ出したかった。
「あ、あの、迷惑で申し訳ないんですけど、トランプで負けちゃって、罰ゲームでどうしても上志津さんの写真を撮ってこいって言われてて……。あ、でも、嫌ならいいです。僕が勇気がなくて頼めなかったってごまかしておくから」
いろんなことを想定しながら出てくる言葉をそのまま口にしていたら、意外にも彼女の返事はあっさりしたものだった。
「うん、いいよ」
――え?
「い、いいの?」と、声が裏返ってしまった。
「なんでびっくりしてるの?」
「だって、嫌じゃない?」
「森崎君ならいいよ」
は?
どういうこと?
まったく予想もしていなかった返事で頭が混乱していた。
「それ、インスタントカメラでしょ。森崎君の趣味?」
「いや、池田の」
「なんだ、そうなんだ」と、急に温度が下がる。「まあ、いいや。ここでいい?」
彼女は数歩下がって廊下の端の窓を背にして立った。
「あ、うん、協力してくれてありがとう」
震える手を押さえながらカメラを構えて僕はシャッターボタンを押した。
「ちょっとお」と、彼女が手を突き出しながら踏み込んできた。「ふつう、撮るときに何か言うでしょ。いきなり撮らないよ、普通」
「ご、ごめん」
「変な顔じゃなかった?」
顔なんて直視できたはずがないじゃん。
――でも、大丈夫。
いつだって君は美しいんだから。
もちろん、そんなセリフ、言えるわけがない。
「き、気に入らなかったら、と、撮り直すから、とっ、とりあえず見てみようよ」
インスタント写真の像が浮かんでくるまでの時間はほんの二十秒程度だ。
なのに、上志津さんと二人でその小さな紙を見つめている時間は、僕にとってはビッグバン以降のすべての歴史をなぞるような果てしなく遠い感覚だった。
何か言おうとすればするほど喉が詰まってしまう。
距離が近くてなんだか良い香りがする。
プレゼントされた花束の香りをかぐみたいに、思わず胸を膨らませて息を吸ってしまった。
いかん、ヘンタイと勘違いされたらどうするんだよ。
気まずさは増す一方だし、だんだん息が苦しくなってくる。
なのに写真はできあがらない。
早く出ろ。
早く出ろよ。
何だよ、全然反応ないじゃんか。
古くて故障してるのか。
「緊張してるんでしょ」
なんで分かる。
「アハハ」と、両手で口を隠すようにして笑う。「今、『なんで分かる?』って顔してた」
げ、モロバレじゃんか。
「すぐ顔に出るよね。分かりやすい」
それくらい瞬間的に写真もできあがってくれればいいのに。
ようやくぼんやりと像が浮かび上がってきた。
――ん?
何だ、これ。
手ぶれがひどいし、顔も逆光で暗くなってしまったようだ。
ていうか、窓の外にピントが合ってるじゃんか。
大丈夫なのか、このカメラ。
「この写真じゃ、やだな」と、彼女がアヒルのように口を突き出して僕の顔をのぞき込んだ。「このカメラ古いみたいだけど、フラッシュもつかなかったよ」
ああ、だからか。
たしかに、これだと日陰の暗い廊下ではちゃんと写せないだろう。
「中古で買ってきたって言ってたから、フラッシュが壊れてるのかも」
すると、彼女が僕に人差し指を突きつけた。
「ねえ、スマホある?」
「ああ、まあ」
ジャージのポケットから取り出して見せると、彼女がそれを指さす。
「なんだ、いいの持ってるじゃない。そっちで撮ってよ」
なんだかどんどん男子連中の思惑とは違う方向にそれていく。
ていうか、いいの?
僕なんかでいいの?
そんな僕の不安とは関係なく、彼女の関心は別方向にあるようだった。
「そもそも、ここじゃなくてもいいんだよね」と、彼女は腰に手を当てて首をかしげた。「ねえ、せっかくだから、景色のいいところに行こうよ」
「え、なんで」
思わずツッコミを入れてしまうと、彼女は眉を寄せて頬をふくらませた。
「だってさ、せっかく高原に来てるんだよ。きれいな背景の方が映えるでしょ」
「いや、まあ、それはそうだけど」
「もしかして、そのままでもきれい、とか?」と、片目をつむりながら僕の肩をつつく。「えへへ、いいこと言うじゃん」
いや、言ってないけど。
でも、さっきそんなことを妄想してたから、半分図星で顔が熱くなる。
そんな僕の様子を見て、彼女はまた首をすくめるようにしながら口に手を当てて笑っていた。
きっと、言われ慣れてるんだろうな。
別人のように表情が変化して非モテ男子にはついていけない。
なのに、僕はその豊かな表情のとりこになっていた。
彼女はさらにたたみかけてくる。
「そっちが撮ろうって言ったんだから、ちゃんといい写真撮れるまで責任とってよね」
困ったな。
だけど非モテ男子に選択肢なんかないんだ。
それに、考えてみたら、こんなに都合のいいシチュエーションなんかないんじゃないかってことに気づいた。
デートみたいなものだよな。
なんといっても二人きりなんだぞ。
ありえないことだろ。
急に膝が震え出す。
夢みたいな状況なのに、いざ実現しそうになると、土下座して逃げ出したくなるんだ。
だけど、逃げちゃだめだ。
死んでもいないのに、この世で天使が手を差し伸べてくれているんだぞ。
それこそ、命を捧げるつもりで頑張らなくちゃ。
「じゃあ、お願いします」と、僕は彼女に頭を下げた。
「はい、こちらこそ喜んで」
インスタントカメラの時とは違って、はっきりと厚意――好意ではないけど――を示してくれている。
夢を見ているような気分で廊下を歩く間も、彼女との会話は続いていた。
「ねえ、私の写真撮るのって罰ゲームなの?」
考えてみればたしかにそれはとても失礼な言い方だよな。
「いや、そんなことないです」
「森崎君は、私の写真ほしくないの?」
ほしい、と即答したいところだけど、キモい男子認定されるのを恐れて言葉を飲み込んでしまった。
黙っているわけにもいかないのに、何か言わなくちゃと思えば思うほど、回し車で全力を出すハムスターみたいに思考が空回りする。
「じゃあ、二人で撮るのは?」と、並んで歩く彼女が僕の顔をのぞき込む。
「ふ、二人?」
僕の様子を見て助け船を出してくれたのかもしれないけど、ますます意味が分からない。
「私は一緒に撮りたいな」
な、なんで?
そんな疑問符の浮かぶ僕の表情を見て、彼女は「ホント、おもしろいなあ」と、朗らかに笑っていた。
宿舎を出ると、暗い廊下に慣れた目に、高原の澄んだ午後の日差しがまぶしかった。
僕のすぐ隣にいる上志津さんはもっと輝いていた。
――君はまぶしいよ。
そんな言えるはずのないセリフを僕はこっそり飲み込んだ。
彼女は腰に巻いていたジャージの上着を着直して宿舎の裏側へまわっていく。
僕らがいる自然の家の北側はスキー場になっていた。
いくら山の気温が都会よりも低いとはいえ、さすがに四月下旬ともなれば雪はなく、芽生え始めた若草が地面を覆っているせいか、開けた斜面はゆるやかに天空へと昇る緑の滑り台のようだった。
「ねえ、この景色さ、昭和のアニメみたいじゃない?」
「あの、わけわかんないくらい長いブランコが出てくるやつ?」
「そうそう、あれあれ」
切り取られたそのイメージ画面しか見たことないし、どんなお話かは知らないけどね。
それに僕はそれほど似ているとは思っていなかった。
目の前の風景はアルプスほど険しくはなく、どちらかと言えばゆるやかで、ただ、青空と白い雲の下に広がる牧歌的な雰囲気が似ているといった程度だった。
とはいえ、いくら僕だって、そこでかたくなに相違点を指摘して、せっかく雪が溶けて春を迎えた高原を氷河期に戻すほど風向きが読めないわけではないので、曖昧にうなずいていた。
協調性というやつだ。
実際、写真の背景として映えることは間違いなかった。
ところが、彼女は予想もしなかったことを言い出した。
「じゃあ、行ってみようか」
――え?
ここで撮るんじゃないの?
「行くって、どこに?」
彼女はすらりとした腕を突き出し、細く長い指でその目標を指した。
「目の前に山があるのに登らないの?」
なにその登山家スピリッツ。
「よく言うでしょ。なぜ山に登るのか?」
いや、知ってるけど。
「そこに山があるから」
「そういうこと」
どういうこと?
たしかに自由時間はまだまだ余裕がある。
だけど、心にはまるで余裕がなかった。
彼女の奔放さに翻弄されるばかりで、会話の流れが変わるたびに頭に血が上って顔が熱くなる。
「いいから」と、彼女が先に歩き出す。
選択肢などなかった。
写真を撮らせてもらうためだと自分に言い訳しながら、僕は彼女と二人並んで緑の斜面に足を踏み入れていた。
道はないけど、開けた斜面はほどよく芽吹いた若草がふかふかと柔らかい。
そんな坂道を、彼女は軽やかに飛び跳ねるように歩いている。
「明日みんなで本当の山に登るのにね。私たちどんだけ山登りが好きなんだろうね」
いや、あの、僕は君に無理矢理連れてこられてるだけなんだけど。
と、少し坂を上ったところで、明らかに荒くなった彼女の呼吸が僕の耳にも聞こえてきた。
「あんまり無理しない方がいいんじゃない」
「どうして?」と、口をとがらせながら首をかしげる。「べつに疲れてないよ」
「バスで具合悪そうだったから」
ああ、と彼女は軽くうなずくと、急に頬をふくらませた。
「そういえば、私がサービスエリアで休んでたとき、無視したでしょ」
うあえっと、思わず変な声が出た。
「いや、あの、ち、ちがっ、違うんです」
とんだ藪蛇だ。
「同じクラスだけど、話したこともないから声をかけていいものかどうか迷ってたら、他の人たちが来ちゃったんで」
「私よりも電気自動車に興味があるなんてひどいなって思ってたんだからね」
うわっ、全部見られてたし、バレてた。
「本当にすみません」
素直に謝ったら、彼女は大げさに手を振って笑っていた。
「冗談だってば」
いいように操られてるけど、悪い気はしない。
「でもさ、私だって、ちゃんと見てるでしょ」
――え、何を?
「君のこと」
彼女は立ち止まって僕と向き合った。
「私のことを見てくれてるんだって、ちゃんと見てたんだからね」
――見てた?
僕を……?
簡単な日本語なのに、知らない外国語みたいに聞こえた。
次第に角度を増していく斜面に足を踏ん張りながら、僕らは向かいあって立っていた。
山から吹き下ろすひんやりとした風が二人の間を吹き抜けていく。
その時僕は初めて彼女をまっすぐに見た。
澄んだ瞳で彼女も僕を見つめ返していた。
明るい日差しに照らされた彼女の額に汗が浮かんでいる。
不意に、彼女の体温を感じた気がした。
美術館の女神像に血が通って、生身の人間として躍動を始めたかのようだった。
――いや、違うだろ。
ずっと、そうだったんじゃないのか。
彼女はずっと手の届くところにいてくれたんじゃないのか。
見ていたつもりで、何も見ていなかったんだ。
憧れて、崇めて、勝手に理想化するばかりで、本当の彼女を全然見ていなかったんだ。
恥ずかしさに耐えられなくなった僕は彼女を見つめるふりをしながら、焦点だけを背景にずらした。
彼女はそんな僕の視線を逃がすつもりはないようだった。
「私ね、教室でずっと見てたし、君もこっちを見ててくれてたのに、目が合いそうになるといつも視線をそらしちゃうから、嫌われてるのかと思ってたよ」
――バレてるよ。
自信のない非モテ男子の弱さも情けなさもとっくに見抜かれていたんだ。
もうこのまま、「ごめんなさーい」と叫びながらでんぐり返しで坂道を転げ落ちて宿舎に逃げ帰りたい。
だけど、僕はかろうじて坂を見上げて踏みとどまった。
「そ、そんなことないから」
「本当は見てたかったの?」と、上目遣いに回り込んで僕の顔をのぞき込む。
――ああ、またからかわれてるんだ。
とても居心地が悪いのに、でも、その気分をいつまでも味わっていたい。
それは安心感のあるくすぐったさだった。
「ああ、まあ、その……」
「反応薄いなあ」と、脇腹をつつかれそうになって思わずのけぞる。
坂を転げ落ちそうになって足を踏ん張ったものの、ついさっき、そうやって逃げられたらいいのになんて願ったくせに、やってることが矛盾している。
そんな僕の隠せない動揺を眺めながら彼女はクスクスと笑いをこらえていた。
再び歩き出すと、蓄積してきた疲労を振り払うように彼女が声を張って話しかけてきた。
「ねえ、学校の授業、ついていけてる?」
僕らの学校は文部科学省からグローバルなんとかスクールというのに指定されている。
「英語の授業さ、進み具合が速すぎて、私全然ついていけないのよね」
高校に入学したばかりだというのに、教科書以外に大学受験レベルの副読本を毎回一ページずつ予習してくることになっている。
しかも、ランダムに当てられて答えられないと、授業評価をどんどん減点されてしまうから、みんな必死だ。
「僕も単語の意味を調べるだけで精一杯だよ」
謙遜ではなく、まぎれもない実力不足だ。
「だよね」と、彼女が深くうなずく。「みんな知ってて当たり前みたいな顔してるから、自分だけおかしいのかなって不安に思ってたんだ」
まあ、できない僕と同じだからって全然解決にはなってないんだけどね。
勉強のことなら少しは引き出しがあるから僕も自分から話題を振ってみた。
「中学の時は単語を覚えて文法の練習をすればするほど英語が分かるって実感できたけど、今は何やっても追いつけないような気がするね」
「ああ、うん、そうだね」
思ったよりもあっさりとした反応だ。
「数学も一つの問題を解くのにも時間がかかるから、課題を終わらせる余裕がないよね。みんなどうやってるのかな」
「ああ、梨奈ちゃんは地理の時間にやってるみたい」
内職というやつだ。
「へえ、そうなのか。中学の時はやればやっただけ点数が稼げたからやる気が出たけど、高校入って一ヶ月もしてないのに、がらりと世界が変わっちゃった気がするよね」
僕としては結構滑らかに会話ができたつもりだけど、彼女の返事はやはり曖昧なものだった。
いくら彼女の方から持ち出した話題に乗っかったところで、勉強の話なんてそこまで盛り上がるわけがないか。
そういうところが、女子慣れしていない非モテ男子の哀しさなんだろう。
「もうすぐゴールだね」
彼女の言うとおり、青い空を水平に切り取ったように、もう少しのところで坂が途切れている。
宿舎から見上げていた頂上までようやくたどりついたのだ。
「やったあ」
彼女が草に手をつきながら残り数歩を一気に駆け上がる。
情けないことに僕は息が切れて追いかけられなかった。
と、いち早く頂上に立った彼女が腰に手を当てて絶句した。
「え、ウソ……」
何、どうしたの?
最後の力を振り絞って僕も坂の上に立った。
――あっ……。
彼女の絶句の意味が分かった。
目の前の丘を登り切ったと思ったら、さらにその奥に高原状のゆるい上り坂が続いていたのだ。
傾斜が緩やかになっているので、下からは隠れて見えなかったらしい。
ここまでの斜面と同じように木は生えていなくて、一面の緑の向こうに展望レストランのような山小屋風の建物が見えた。
あれが本当の頂上なんだろうか。
しばらくは彼女も前を見つめて無言だった。
この場で振り返ってみても、はるか下にあんなに大きかった宿舎がミニチュアのように見えるし、球技に励む他のクラスの生徒の姿は砂粒みたいだった。
スキー場の斜面だから風景は開けている分、ここから眺める周辺の山の風景も充分写真に映えると思う。
べつにあの建物まで行かなくてもいいんじゃないか。
「どうする?」
僕の問いかけに、躊躇なく笑みが浮かんだ。
「見てみたくない?」と、こちらを向いた彼女の瞳に揺らぎなどなかった。「あそこからの風景」
僕が問いかけたからこそ、吹っ切れたんだろう。
だんだん彼女の性格が分かってきたけど、もう手遅れだ。
僕の方から写真をお願いしたんだから、彼女の気まぐれに逆らえるはずがなかった。
「疲れてない?」
いちおうたずねてみたけど無駄な抵抗だ。
「全然疲れてないよ」と、彼女が大きく腕を広げる。「むしろ、楽しい」
エベレストにさえ登りかねないうらやましいほどのポジティブさに言葉を返すことができない。
「大丈夫だよ。まだ時間もあるでしょ。行こっ」
僕はあきらめて、もう先に歩き出している彼女に並んで展望台を目指した。
ここまでの坂に比べたら、なだらかな草原になった分、脚が軽い。
体力的に楽になったせいか、風に乗って聞こえてくる鳥のさえずりとか、青い空に流れる刷毛で描いた水彩画みたいな雲の様子を楽しむ余裕ができた。
「きれいだよね」と、思わず口に出していた。
「私?」と、彼女が自分を指さしながら僕を見る。
「景色だよ、風景!」
「へえ、まわり見る余裕あるんだ」
――今、なくなりました……。
草原はほとんど水平なのに急に脚が重くなって心臓が加速する。
まるで手足に糸でもつながってるみたいに都合良く操られている。
――だけど、運命の赤い糸ってわけではないんだろうな。
いやいや、何言ってんの。
そんな僕のテンパり具合を眺めながら隣で彼女がクスクス笑っている。
「私ばっかりからかって申し訳ないから、私の弱点教えてあげようか」
「じゃ、弱点?」
そんなのあるの?
思わずゴクリと喉が鳴ってしまった。
「私ね、めちゃくちゃ音痴なんだ」
へ?
「小学校の音楽の時間にね、ドミソとドファラとシレソの和音の区別がつかなくて先生がピアノの鍵盤ピシャーンって叩きつけてブチ切れたくらい音痴」
なんと返事したらいいのか、僕の引き出しは空っぽだったけど、一つ思い当たることがあった。
「そうか、だから、入学式の日にみんなとカラオケ行かなかったんだね」
彼女は一瞬記憶を探るように目をくるりと回して、ああ、と手をたたいた。
「君は行ったの?」
「行ってないよ」
「じゃあ、なんで知ってるの?」
やばい。
二匹目の藪蛇。
「あ、その、えっとですね、クラスのグループメッセージに流れてこなかったなと思ったから」
「ふうん」と、口をとがらせつつ軽くうなずいたかと思ったら、満面の笑みを浮かべながら間合いを詰められた。「あの日、気になってずっと見てたの?」
ニョロニョロニョロニョロ、魔窟みたいに藪から蛇が這い出してくる。
ああ、もう、早くコブラでもガラガラヘビでもなんでもいいから、かみついてトドメを刺してくれ。
と、彼女が急に声のトーンを落とした。
「なんか、気をつかわせちゃってごめんね」
「いや、べつに、そんなでも」
「いかにも女子慣れしてなさそうだもんね」
ここはちゃんとアピールしておきたいところだけど、そこは実績ゼロの非モテレジェンドだ。
目をそらしつつ素直にうなずいてしまった。
耳もちぎれそうなほど熱い。
「でもさ」と、彼女も視線を空へ向けた。「だからって、そういう人が誠実とも限らないから難しいよね」
見晴らしの良い高原なのに、岩の下敷きになったように息が止まる。
「いったんカノジョができるとさ、『俺でもいけるじゃん』とか急に調子に乗り始めちゃって、浮気するかもしれないし」
ちょ、あの……。
いったい、何の話が始まったの?
足下に咲く黄色い花とか、空に流れるパンみたいにおいしそうな雲とか、からかうような小鳥のさえずりとか、高原にふさわしい爽やかな話題は他にいくらでもあるだろうに。
だけど、何一つ浮かんでくることなどなかった。
「ぼ、僕はそんなことできないよ」
「どうして?」
根拠なんかない。
何か言わなくちゃと言葉を探しても、季節外れの入道雲が広がるように頭の中が白くなっていく。
ふかふかの若草を踏みしめる足取りだけが無駄に軽やかだ。
「でも、だろうね」と、彼女の方から助け船がやって来た。「なんとなく分かるよ」
「な、なんで?」
今度は僕の方が根拠をたずねたかった。
「私、ずっと前から君のこと見てたんだもん」
彼女の話は意外なものだった。
「しょっちゅう、いいことしてるでしょ」
「え、どんな?」
「さっき、お茶配り代わってあげてたじゃない」
「あ、ああ、まあ」
「それにさ、先週やった体力測定のときに女子の高跳びマット運ぶの手伝ってたでしょ」
「あれは、暇なら手伝ってくれって頼まれたから」
ボッチ男子だから、声をかけやすかったんだと思う。
「グラウンドに空のペットボトルが風で転がっていっちゃった時も、追いかけて拾ってたじゃん」
「そんなこと、あったっけ」
自分でも思い出せないことまで見られてたなんて。
「あの時さ、脚がもつれてちょっとコケたでしょ。でも、偉いなって思ったんだ」
――全部、見られてたんだ。
べつに誰かに褒められたくてしたことじゃなくて、ただ単に目の前で何かが起きてたからとっさに体が動いただけなんだけど、全部見ててくれてたんだ。
「そ、そんなにたいしたことじゃないよ」
本当はものすごくうれしい。
叫びたい衝動を抑えるのに必死だ。
「すごいと思うよ」と、彼女の微笑みが僕に向いていた。「君が自分の良さに気づいてないだけだよ」
言葉を発しようとしたのに息が詰まってしまって、ホエッと変な声しか出なかった。
「ちゃんと私は知ってるよ」と、彼女のキラキラとした瞳がまっすぐに僕を見つめていた。「だって、ずっと見てたんだから」
瞬きをはさんで、彼女が微笑んだ。
「君が思ってるずっと前からね」
と、そのときだった。
プウンと僕の耳をかすめた羽虫が彼女にまとわりつく。
「ひゃっ!」
飛び退いて体勢を崩した彼女がとっさに僕の手を握った。
――あっ……
僕は高原に取り残された白樺の枯れ木のように立ち尽くしていた。
向かい合う彼女があらためて手に力を込めた。
「ドキドキしてる?」
――う、うん。
かろうじてうなずくことしかできなかった。
「私も心臓ドキドキしてるよ」
――ホントに?
「ウソじゃないよ。触ってみる?」と、ニヤけながら胸を反らす。
いやいや、無理に決まってんじゃん。
「こういうのって、女子がやってもからかっただけですむけど、男子がやったら退学ものだよね」
まったくだよ。
昆虫標本みたいに掲示板にピンで留めて《ヘンタイボッチ(オス)》ってラベルを貼られて人生終わると思う。
でも、それでいいのかもなんて思う自分がいる。
そんな幸せな一瞬を経験できたなら、むしろそれでいいじゃないか。
いや、落ち着け。
人としてダメだろ。
思考が回し車みたいに空回りする。
僕は頭の中でハムスターを飼育してるのか。
「アハハ」と、彼女が今度はまるでアルプスを駆け回るアニメの主人公みたいに大きな口を開けて笑い出す。「やっぱりからかうと面白いよ」
――そう、僕もだよ。
君にからかわれることがこんなに面白いなんて、思いもしなかったよ。
彼女は手をつないだまま、軽やかなステップを踏みながら僕をコンパスの軸にしてまわりをぐるぐると回り始めた。
あからさまにからかわれていると分かっていても決して嫌な気はしなかった。
むしろ、こんな瞬間がずっと続くといいのにな。
僕は彼女の笑顔を追いかけながらその背後に広がるパノラマの風景を眺めていた。
世界はこんなにも広かったんだ。
そして、その見渡す限りの世界にいるのは僕ら二人だけだった。
それはこれまでの僕の短い人生の中で最高と言っていい瞬間だった。
――止めてくれよ。
今すぐここで時を止めてくれよ。
そうすれば僕は幸せな思い出を抱えたまま人生を終わらせることができるだろ。
「あっ!」と、回転が止まる。
草につまずいた彼女が倒れそうだった。
とっさに引き起こそうとしたときだった。
引っ張った勢いのままくるりと背を向けた彼女が後ろ向きに僕に倒れ込んできた。
まるでゆりかごに飛び込んでくるかのように無防備で、絶対に僕が受け止めるはずと疑うことのない重みがのしかかってきた。
それは選択肢のない瞬間だった。
時が――止まっていた。
僕はしっかりと背中から彼女を抱きとめていた。
ふわり、と天使の香りがした。
それは僕の知らない女子の汗の香りだった。
思わず僕は息を吸い込んだ。
エアバッグのように肺を膨らませて彼女を支える。
僕ら二人の視線が並んだ先には、緑の草原と周囲の山々が織りなすパノラマの風景が広がっていた。
「ほらね」
――何が?
「ドキドキしてるでしょ」
分かるわけないよ。
僕の方が百倍ドキドキしてるんだから。
神様がお願い事を聞いてくれたかのように、時が止まっていた。
ドキドキどころか、息も止まりそうだよ。
はずみとはいえ、彼女を抱きしめるような格好になってしまって、でも、突き放すわけにもいかず、僕は高原の白樺なんだと自分に言い聞かせていた。
少し呼吸が落ち着いてきたところで、もたれかかる背中を押そうとしたら、彼女がシートベルトを引き寄せるみたいに僕の腕を固くつかんだ。
――もう少し、いいでしょ……。
それは風の音だったのかもしれない。
彼女の声が聞こえたような気がした。
僕は奇妙なほどに冷静だった。
心臓も呼吸もまた暴れ出したのに、意識は高原の空気のように凜として凪いでいた。
気がつけば、眼前に広がるパノラマの風景に赤みが差していた。
さっきまで一面の青だった空に斜光がグラデーションを織りなしている。
――なんだろう?
それは不思議な既視感だった。
ずっと前からこうしていたかのような、懐かしさにも似た穏やかな気持ちで僕はこの瞬間を受け止めていた。
「ごめんね」
――え?
「調子に乗ってはしゃいじゃって」
彼女は僕の腕の輪から抜け出し、くるりと回って向かい合うと、一歩後ろに飛び退いた。
「だいぶ時間過ぎちゃったね。行こうか」
「あ、うん」
そこからは無言で僕らは展望台らしき建物を目指した。
急に縮まったはずなのに、二人の間には微妙な距離ができていた。
それが気まずさなのか、遠慮なのか、または何かの終わりなのか、非モテ歴の長すぎる僕にはまるで分からなかった。
さっきまではころころと変わって僕を翻弄していた上志津さんの表情も石膏像のように固まっていた。
自分からこの状況を変える方法など何も思いつかなかった。
そんな重苦しい気持ちを抱えたまま、僕らはついに展望台のように見えた建物に到達した。
そこは、観光リフトの駅で、僕らの宿舎に近い場所まで下っているようだった。
「そういえば、宿に着く少し手前で、バスの中からリフトの駅を見たな。これのだったんだね」
「へえ、そうだったんだ」
バスが宿舎に到着するまで彼女は眠っていたから、存在すら知らなかったのだろう。
「じゃあさ」と、彼女は料金表を見上げていた。「これで下れば早く帰れるよね」
あと数分で最終運行時刻になるタイミングだった。
「でも、お金ないよ」
「電子マネーが使えるって」と、チケット販売機を指す。「私のスマホにチャージされてるから、出してあげるよ」
それはちょっと申し訳なさ過ぎる。
でも、ここからまた歩いて来た道を戻るにはさすがに時間がなさそうだ。
「じゃあ、宿に戻ったら返すね」
「大丈夫よ。楽しそうでいいじゃん」
ポジティブさに流されて僕はチケット代を出してもらうことにした。
他にお客さんはいなくて、並ばずに乗れた。
ベンチ型のリフトは二人乗りだった。
彼女を前に行かせようとしたら、「ちょっとぉ」と手を引っ張られた。
「こういうのは一緒に乗らなきゃ意味ないでしょ」
一台やり過ごして、次のリフトに二人並んで腰掛けると、やりとりを見ていた係員のお姉さんが苦笑しながら安全バーをかぶせてくれた。
ブランコのように揺れて足が宙に舞う。
見下ろすと意外と斜面は急で、あっという間にリフトは地面からかなり高い位置に持ち上げられていた。
「こわーい」と、安全バーにしがみついた彼女は口を結んで顎を上げつつ視線は下へ向けていた。「結構揺れるね」
と言ってるうちに、リフトが支柱を通過して、その瞬間、ふわりと浮くような感覚の後、ガクンと落ちて前後に揺さぶられる。
「これこれ」と、彼女が安全バーをしっかりつかんだまま僕に顔を向けた。「ロープウェーとかリフトって、支柱のところが一番揺れて怖いよね」
「支える場所だから一番安全なはずなのにね」
「なんでそんなに冷静なのよ」と、口をとがらせる。
いやいや、僕も手汗じっとりですよ。
安全バーが滑って気が気じゃない。
でもそれはリフトの怖さじゃなくて、右隣に座る彼女との距離感が原因だった。
「でも、楽しくていいね」
風景を眺めている彼女に笑顔が戻っていた。
高原の澄んだ斜光が背後からその横顔を照らしている。
吹き上げてきた風に彼女の髪がなびき、女子の香りが僕の鼻をくすぐる。
あらためて距離の近さを意識してしまって、また顔が熱くなる。
変に意識してしまうと、もう風景を楽しむ余裕などなくなっていた。
「あ、たいへん」と、彼女が手をたたいた。
「え、何?」
「写真撮ってないよ」
「アアッ!」
思わずこだまが返ってきそうなほど叫んでしまった。
いったい何しに来たんだろうな。
――楽しかったけど。
動揺している僕を見て、彼女が足を前後に揺らしながら笑っていたかと思うと、自分で揺らして怖くなったのか、今度は急に真顔になった。
ころころと変わる表情が戻ってきてくれて、僕はむしろ安心していた。
素の彼女を受け止められるほどの余裕はないけど、さっきまでとは明らかに違って、心の容量が増えているような気がした。
「せっかくだからここで撮ろうよ」と、彼女が自分のスマホを取り出した。
慣れた手つきでサクサクと設定をいじって前に突き出す。
「タイマーは三秒ね。はあい、スマーイル」
フラッシュがカウントダウンのように光り、シャッター音が鳴る。
彼女が見せてくれた画面に映る僕は目を閉じていた。
「もう、しっかりお約束守る人だね」
「なんでだろう。ちゃんと開いてたつもりなんだけど」
「じゃあ、今度はそっちのスマホで撮ろうよ」と、彼女がスマホをしまう。
「え、今の消さないの?」
「これも記念になるでしょ」
めちゃくちゃみっともないんですけど。
「さっきの失敗インスタント写真のお返しだよ」と、彼女が軽く舌を出す。「ほら、早くしないと下に着いちゃうよ」
ああ、はいはい。
慣れていない僕は汗ばむ手で自分のスマホを取り出し、落としそうになって慌てるというお約束まできちんと果たして彼女に喜ばれつつ、フラッシュとタイマーを設定して前に突き出した。
「はい、しっかり目を開けて!」
画像修正したみたいに目をまん丸にしてレンズを見つめる。
と、彼女が僕の頬に人差し指を突きつけてきた。
――はあ?
パシャリ!
イタズラが成功してしてやったりの彼女と、目を見開いてびっくりしてる僕の写真ができあがった。
彼女に画面を見せると、「いい写真じゃん」とウィンクを返してくれた。
その表情の背面に淡い夕焼け空が広がっている。
逆光を透かした彼女の髪が一本一本燃え上がるように輝いていた。
――きれいだ。
思わず口に出してしまいそうなほど、彼女のきらめきは僕を揺さぶっていた。
止めてくれ。
今ここで止めてくれよ。
もう、これでいいよ。
この最高の瞬間を失いたくないよ。
夢でも幻でも偶然でもいい。
だけど、こんな幸運を与えられてしまったら、もう失うのが恐ろしくなって息ができなくなるよ。
尾根の角度が変わって斜光が遮られる。
目が慣れてきて、逆光で陰になっていた彼女の表情が浮かんでくる。
僕を見つめるその笑顔に吸い込まれそうだ。
気のせいか、だんだん僕らの距離が近づいているみたいだった。
それは気のせいではなかった。
間違いなく、横を向いた彼女が僕に体を傾けてきているのだった。
いや、ま、待ってくれ。
これじゃ、まるで、キ、キ……スの距離じゃないかよ。
し、知らないけど。
知るわけないけど。
と、その時だった。
光と影のコントラストに恐怖を感じて急に体が震えだした。
それは鮮やかさを増す夕焼けの逆光のせいではない。
彼女に笑顔を向けられれば向けられるほど、自分の抱える闇を突きつけられ、屈託のない彼女と対照的な陰キャの僕との埋めようのない落差を見下ろした瞬間、遙かな滝壺に蹴落とされてしまうのだ。
――いい気になるなよ。
勘違いするんじゃねえよ。
似合うわけないだろ。
おまえはこんなところにいるべき人間じゃないだろ。
心の奥から沸き起こる声が僕をリフトから引きずり下ろそうと手を伸ばしてくる。
僕は必死に安全バーをつかんだ。
「まだ慣れないの?」
え、ああ……。
「もうそんなに高くないし。私はだいぶ慣れたよ」
あ、ああ、リフトのことか。
「だよね」と、こわばった頬を無理に崩して僕は背もたれに体を預けた。
「大丈夫だよ。怖くないってば」
安全バーを握りしめた僕の右手に彼女が左手を重ねてきた。
引きつるように手が跳ねた。
「なによ、心配ないってば」
風景がスローモーションのようにスライドしていく。
並んで座る君の背後から現れた斜光がまた津波のように僕らに覆い被さってきた。
僕の目を射貫いたのは夕焼けなのか君の笑顔なのか。
重ね合った僕らの手の中だけは時間が止まっていた。
「でもさ、写真も撮ったし、いい記念になったね」
なんてことのないことのように彼女がつぶやく。
「あ、ああ、うん、そうだね」と、僕は必死にうなずいた。
――いいんだよ。
いいのかな?
大丈夫、いいんだよ。
彼女の手のぬくもりから気持ちが伝わってきたような気がした。
僕は君のそばにいてもいいんだよね。
全然自信はないけれど、逃げ出さなくていいんだ。
だいぶ終点に近づいてきた頃、左手の尾根が切れて、また風景が変わった。
斜光を受けて黄金に輝く白樺の林の向こうに湖が広がっていた。
「あれも見に行ってみる?」
「いやいや、さすがにもう無理でしょ」
「えー、残念」と、大げさに笑った彼女がポツリとつぶやいた。「また、いつかだね」
そんな時が来るとは思えないけど、どうなんだろう。
少しは追いつけたかと思ったのに、地球の裏側まで見通せそうなほどのポジティブさには、やっぱりかなわないな。
でも、いつかそんな時が来るような気がした。
リフトが麓の駅に着いて、僕らが手を重ねたままの安全バーを係員のおじさんが上げてくれた。
「アハハ、おもしろかったね」と、彼女は体操選手のフィニッシュみたいに華麗に着地を決めた。
僕は膝が震えてまっすぐに歩けなかった。
「あれ、大丈夫? そんなに怖かったの?」
情けないけど、そういうことにしてもらった方が助かる。
女子との距離が近すぎて緊張の限界を超えたなんて恥ずかしくて知られたくないし、本当に怖いのはこの今の瞬間の幸福を失うことだけど、そんな重たい話、どう説明したらいいのかも分からない。
リフト駅の階段を下りたところが広い駐車場になっていて、そこを回って道路に出ると、僕らの宿舎はすぐ目の前にあった。
「なあんだ、こんなに近かったんだね」
ちょうど張り出した尾根と尾根の間に挟まるように宿舎が建っていて、しかもバス駐車場やグラウンドの奥に建物が引っ込んでいたせいで、近くても見えなかったのだ。
「あ、そういえばさ」と、彼女がスマホを取り出した。「さっきの写真、交換しておこうよ」
僕のスマホも突き合わせてデータを交換する。
「えへへ。なんか、私、すごく楽しそうな顔してるね」と、あらためて写真を眺めながら彼女が僕に笑顔を向けた。「今までで一番好きな私かも」
そして、一歩先に歩き出して、スマホを振る。
「これは誰にも見せないでね」
そりゃ、見せられないよな。
みんなに何を言われるか分からない。
こんな幸運、袋だたきにされても文句は言えないんじゃないのか。
「そういえば、みんなに見せるインスタント写真はどうしようか」
声をかけると、彼女は軽い足取りで前を向いたまま肩をすくめた。
「失敗したのを、いちおう頑張った証拠としてみんなに見せておけばいいんじゃない?」
それで納得するんだろうか。
僕は池田のカメラを取り出した。
「念のため、もう一枚、お願いしてもいいかな」
「べえー」っと、いきなり振り向いた彼女が舌を出す。「やですーぅ」
そして、くるりと背中を向けると、宿舎を目指して駆け出してしまった。
どこにそんな元気が残ってたんだよ。
夕焼けに飛び込むみたいに君が離れていく。
思わずもれたため息を振り払って僕は必死にその背中を追いかけていた。
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