第5話 冷たい水の底
(どうしたのかしら)
毛糸車が不自然な動きを繰り返すので、碧緒は安全を確保するために上体を低くしていた。
外の音をも遮断する結界の所為で碧緒は外の状況を把握出来ていない。ただ一度も止まらないはずの車が何度も止まることから、外で何かが起こっていることは分かっていた。
一体何が起こっているのだろうかと考えているうちに頭上に陽の光が差し、眩しい陽光に 碧緒は目を瞬きながら辺りを見回した。
森を半円状に切り出して作られた場所だった。掘り返されたばかりらしく土が湿っており、草の刈込も甘い。急ごしらえで誂えた場所であることが碧緒には分かった。
予定と違う。綿密な計画を立て、その通りに実行する父にしては珍しい。土壇場でわざわざこんなことをしなければならない何かが起こったのだろうか。
「足垂 碧緒姫と御見受けいたします」
考えていると頭上から声をかけられ、碧緒は素早く顔を上げた。
「貴方様は……!」
紺のキルティングコートを着て、青灰色のスラックスを脛あたりまである編み上げブーツに突っ込んだ男が車の上に乗っていた。服の上からでも分かるほど体つきが良く、髪は短く灰色で、目じりの上がった精悍な顔つきをしている。
本家の妖滅部隊、第二部隊が隊長、角 銀竜である。
碧緒は幻覚でも見ているのだろうかと思わず目をこすった。本家の人間なんて、一、二回遠くから後姿を見たことがあるくらいなのに、目の前にいるなんて。
「どうして貴方様がいらっしゃるのですか?」
「当主の命により、碧緒姫をお助けに参上したのです」
銀竜が当主というのは一人しかいない。東方青竜一門を統べる当主、東方 竜臣ただ一人。
「なッ!?」
声を出そうとすると紙が首を絞め上げたので、碧緒は思わず首に手を添えた。
碧緒の動きで紙の帯に気づいた銀竜は太い眉を寄せて苦い顔をした。
「車に結界を張るだけでなく、手足や首にまで縛りの呪いとは。なんとむごい」
言いながら手早く刀で紙を切ってくれる。
「さぁ、お手を。こんなところで貴重な生命を無駄にしてはいけない」
豆だらけの分厚い手が差し出された。
碧緒は銀竜の手を見つめて考えた。
どういう状況かまるで理解できない。なぜ当主は銀竜に己を助けるよう命令したのか。青梅ならまだしも、碧緒は本家と関わりがない。竜臣に会ったことがあるのは幼い頃の一度きりで、あとは姿を遠くから見かけたことがある程度。銀竜に至ってはこれが初めての顔合わせだ。
本家の意図は何なのか。碧緒は逡巡した。この手を取るべきか取らざるべきか。
しかし頭の中で答えが出る前に、身体は銀竜の手を取ろうと動いていた。
「いけませんよ碧緒。貴女には死命があります」
指先が触れようかというところでぞっとするような冷たい女の声がして、碧緒は動きを止めた。
「む!?」
突然銀竜が車の外へ弾き出され、 思わず腰を上げる。
「碧緒」
車を飛び出そうとした身体がたった一声で硬直する。
「……うめ姉さま」
碧緒は震える声で谷の方から歩いてくる二十余りの女を見つめた。
白小袖に浅葱色の袴を合わせ、長い黒髪を編んで前に垂らしている。小さな唇には表情がなく、目じりの上がった意志の強そうな顔をした女だった。
足垂 青梅(あしだれ はるうめ)。足垂家長女にしてこの若さで東方青竜一門の宰相を務める才女である。
「青梅殿。やめられよ」
銀竜が青梅の前に出て鞘に納めたままの刀を突き出し、牽制した。
「竜臣はこのことを知っている。竜臣自ら我らに命じたのだ。碧緒姫をお救いせよと。竜臣はこの悪しき習わしごとなくすつもりだ。青梅殿。お家のお定まりに従うことはないのだ。大事な妹君をなくされたくないだろう?」
真摯に訴えかけたのが効いたのか、青梅は顔を下げた。
「青梅殿……」
青梅はしばらく頭を下げたままだったが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「!」
銀竜がハッとした時にはもう遅かった。
青梅はいつの間にか紙札を手にしていた。
「なんぴとも 意思をかわせぬ 血の契り」
青梅が紙札に書かれた文字を読み上げた途端、銀竜の身体が見えない力に弾き飛ばされた。
不意を突かれた銀竜は飛ばされながら宙で体制を整え、着地する。
「青梅殿!」
「私の答えは申し上げたとおりにございます。お帰り下さいませ銀竜様」
それから青梅は車の横に立ち、碧緒を見つめた。
「碧緒、務めを果たしなさい」
碧緒の表情に恐怖と絶望が入り混じる。青梅は親代わりに育てた妹が今にも泣きそうな顔をしているにも関わらず、無表情で紙札を車に貼った。
呪を施された車が急発進した。碧緒は悲鳴を飲み込んで箱の縁を必死に掴んだ。
右に左に大きく揺れながら、車は凄まじい速さで一直線に谷へ向かっていく。
「碧緒姫!」
地面を蹴ろうとした銀竜の前に札を掲げた青梅が立ちはだかる。
「くそっ!」
くすべは歩を進めようとしたが、腕が引っ張られて動けなかった。
腕を引っ張るものを目で追った。その先には、くすべが巻いた紙の帯を掴んでいる、竜樹の姿があった。
首の後ろがざわりとした。
「あんた、呑み込まれたはずじゃ……!」
見回してもあの大蛇の姿がない。封印したとなるとそれ相応の呪が必要になるが、その様子もなかった。
「まさか! 祓ったのか……!」
跡形もなく消えた大蛇。封印するならば、それなりの術式が必要である。それがなかったということは、つまり、契約を破棄したうえで祓ったということになる。
「あれだけの式を簡単に……」
切り捨てた。目的を達成するためには、己の式も……滅多にない強力な式でも、いとも簡単に切り捨ててしまうのである。
もう誰も車を止められなかった。
車は谷底へ落ちる。
碧緒が目を固く閉じ、奥歯を噛みしめ、来たる衝撃に備えた。
ガコン、と車が崖を越え、碧緒の身体が車とともに宙に投げ出された。 今までガラガラとうるさかった音が止み、やってきた静寂が、一瞬だけ時が止まったような錯覚を起こした。
ふわりと浮いた碧緒の身体が一気に降下する。
大きな水音が鼓膜を叩いた。
車と共に落ちたからか予想していた衝撃はやってこなかった。そればかりか不思議と水の浸入もなく、碧緒はゆっくりと沈んでいく様を眺めているだけで良かった。きっと青梅が結界を張り直したのだろう。
ただ、凍える程の冷気だけは感じた。口から吐く息が白い。身体がぶるぶる震えて止まらない。肩を抱いてさすっても、息を吹きかけて手先を温めようとしてもまるで意味がなかった。
車はどんどん沈んでいき、ついに底までやってきた。
辺り一面が真っ白だった。白い何かがゆらゆらと揺れている。霞む目をようく凝らしてみると、紙の帯だった。水草のように、底一面にびっしりと張った白く長い紙がゆらゆらと揺れているのである。
碧緒が揺れる紙の帯をぼんやり見つめていると、どこからともなく声が聞こえてきた。
『ホゥ。なんとも清い娘だナァ。体も魂も我が花嫁に相応シィ』
瞬きすると目の前に鱗に覆われた頭があった。白と黒の斑模様の醜い身体に真っ赤な目。頭には大小四本の角があり、顎の辺りにはイモリの幼生のような鰓がある。背にも鰭のようなものがついており、尾の先は魚の尾鰭のようになっていた。
どうやらこれがこの地を統べる蛟。この川、白苔川の主であるようだった。
『その美しい魂が穢れるまで我が毒を食ろうてもらオゥ。ナァニ、次が来るまでの辛抱ダ。六十年経てば次が来るからナァ。そこまで絶え抜けば開放してやるゾォ』
蛟はくつくつと嗤った。
碧緒は言葉の意味を考えられなかった。
寒くて仕方がないのだ。気が遠くなるくらい寒い。
それなのに、身体の震えが止まった。
瞬間、碧緒の意識もぷつんと切れた。
全身から力が抜け、碧緒はことりと横たわってしまった。
瞼が重くて開けられない。指先一つ、動かせない。頭にかかった靄が広がって、恐怖も絶望も何もかもを拭い去っていく。
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