過去へのもしもなんてものは

 過去の出来事に〈もしもを考える〉ことほど無駄な時間はない、出来ることならそう言い切ってしまいたい。


 それが自分の心に傷として残り続ける結果になるのなら尚更やめた方がいい。今への後悔の矛先はいつだって過去だ。「もしもあの時こうしていればこうなっていたかもしれない」。だから何だというのだ、そう言い切ってしまいたい。


 面白いことに私達は小さい頃から様々な場面で、過去に戻ることはできない事実を叩きつけられながらそんなこともないかもしれない夢に踊らされてきた。四◯元ポ◯ットにもしもボッ◯ス。バック・トゥ・ザ・フューチャーや時をかける少女なんて人生やり直し放題の話だ。そうやってエンタメ商業の歴史は人が過去に夢を見続けるよう仕組んできたといっても過言ではなさそうだ。


 過去へのもしもの想像は無限に広げることができる。おまけに何の責任もない。そんな無責任なものに誰も明確な答えは与えてくれないし誰もわからない。同じ過去だから。そしてそんなもしもは絶対に来ない。


 特にそう思うようになったのは身近な命の終わりに触れるようになってからだ。


 ここ数年は死に直面することが多かった。愛犬の死、昔お世話になった人の死、そして祖母の死。みんな高齢だったこともあり思っていたよりは多少踏ん切りはつきやすかった。それでも悲しみには暮れるもので、気付くと考えてしまう。周りも同じように口にしていた。もう少し早くに気付いていれば…、あの時もっとこうしていたら…。


 そうやって“もしも”だけが独り歩きしていき不明瞭なままそれぞれの傷跡として残る。けどそれはむしろ烏滸がましい気持ちかもしれない、とも思った。

 

 葬式は残された人が故人と折り合いをつけて納得していくために行われるものだと思う。それと同時にたくさんのもしもに諦めをつけていく作業をしていく。そうしてみんなが少しずつ明日にしっかり目を向けながら歩いていく、しかない。

 

 あの時はあの時でしかない。過去にはどうやったって抗えない。だって過去に戻れる希望を何度も裏切られながらみんな大人になって、もうやり直せないことを知り尽くしている。だからもしもへの探究心はいい頃合いで見切りをつけた方がいい。


 そしてもう1つ、“もしも”が案外事実だったりすることもあるから気が抜けない。その場合は笑顔で受け止めよう。


 例えばもしも早起きをしていれば遅刻しなかったかもしれない、はほぼ事実だろう。だが早起きはできなかった、それが今の全てだ。それにもしも前日に早く寝ていたら早起きができたかと言われればそれは6割5分くらいの確率なんじゃないかと思う。過去を分析して何かしら未来に繋げることができる可能性があるのなら、〈もしもを考える〉ことに大いに価値はありそうだ。


 生きていれば後悔はつき物でその度に過去へ目を向けがちになる。でもちゃんと諦めていくことも大事なことだと思う。諦めることが必ずしも逃げることではないと言い訳してるほうが次へのステップが踏みやすかったりする。

 「これでいいのだ!」

 エンタメには時に救われることもある。



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