正しいと言える普通とは

 「普通ってそもそも何?それってさ誰が決めたの?」


と言う人がいる。とても良い意見だし、そんなふうに思えたら素敵だなと思う。でも、ホントは分かってるくせにって言いたくなる。だってやっぱり普通は存在していて、それがあるから安心していられるのは事実だと思う。


 道徳よりは重苦しくないけど、いちいち言葉にしなくとも自然に当たり前とされているもの。パスタを食べるときはフォークを使うみたいな(五右衛門パスタは箸で食べるんですよね。あれは画期的ですね、とても美味しいですし)。


 どんなに集団が大きくなってもその場の秩序が乱れることなんてほとんどない。そうならないことが普通で皆そうならないための普通を心得ているから。


 なるべく笑顔で積極的に繋がり合う普通。すごく疲れる。


 でもどこに行ってもその集団から逃れることはできないし、自分にそんな勇気はない。逆にその集団に居続けたいのであればその普通に同じように笑顔で前ならえをするしかない。


 わたしは3人以上が苦手だ。3人以上になると「間違っている状態」が成り立ってしまう。


 2人なら自分の言動がもし相手にとって違和感でもお互いそれを口には出さない。どちらの普通もここではまだ平等に成立しているから。だからそれをわざわざ突きつけることも否定することもできない。


 しかしどうだろう、3人以上になると違和感を共有することができるようになる。すると途端に平等であったはずの互いの普通に白黒がつけられてしまう。そして共感を得た違和感は嫌悪され皆の普通には入れてもらえないんだと気付く。でもそれはスポーツの勝ち負けみたいにはっきりしたつけ方じゃなくて、いつも目には見えない空気感の中でものすごい早さで執り行われる。


 決してはっきりとはさせないその空気は閉鎖空間にじっくりと蔓延していき自分が「間違っている」ことを認識させてくる。きっとはっきりさせないことが重要なんだと思う。そうすれば誰も悪くない。ただ皆、いいねを押してるだけなのだ。


 間違い続けるとだんだん人と話すのが怖くなってくる。もういっそ間違え慣れてしまえば楽なんだが不思議とそれができない。まだどこかで自分が普通だって思い込みたいんだろうか。普通ってなんだろ。


「なんか思っていたよりは普通だった」

「普通に美味しかったわ」

「普通そんなことする?」

 これらは結局、一体誰にとっての価値基準なのだろうか。なんだか言葉だけが一人歩きしているように思えてくる。

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