手軽に繋がれることへの過信

 今はいつ何処にいても簡単に連絡が取れる時代。ボタン一つで繋がることができる。だからこそ音信不通になることの意味深さをより濃厚に感じる時代でもあると思う。


 「何かあったら連絡してこい」。別れ際にそう言われてからもう2年以上が経つ。未だにメール一つもしていない。


 何もないわけではないけれど伝えられるほどの〈何か〉もない。というかその人に伝えられる〈何か〉のベクトルが自分の中でもう分からなくなってしまった。そうしているうちに連絡すること自体に今さら感が現れ始める。この今さら感は自分の肌感覚でしかなくとても身勝手なものだが、その人との距離感はもうそれだけが頼りなのだ。


 ここまで来てしまうと相手からの拒絶を恐れてもう手も足も出ない。


 私の友人に誕生日のときは必ずお祝いLINEを送ってくる子がいる。そのためその友人がいるグループLINEは誰かの誕生日になる度に息を吹き返すようになっている。“おめでとう”に“ありがとう”と返し、間にはスタンプが挟まりながらそれを3回転ほど繰り返す。そしてまた次の誕生日が来るその日まで静かに息を潜める。


 友人曰く「そうでもしないと音信不通になる気がするから」だそうだ。その友人とは高校時代からの付き合いなのだが、きっと間違いなく彼女がいなければこのグループLINEはとっくに消滅しているか化石となっていただろう。あなたのおかげで学生時代からの友人を失わずに済んでおります、本当に感謝しています。


 そんな連絡もういい加減うんざりだという人にとってはご愁傷様な話だろうし、そんなのは繋がっているとは言えないという意見もあると思う。私もそんなふうに思った時期はあったが、歳をとるほど友人というのは出来づらくなるもので、そして自ら連絡を怠った結果いたはずの友人は今やほぼ絶減しつつある。


 だから繋がり続けられること自体当たり前のことではない。それにこのさり気なさはなかなか至難の業だと思う。人の誕生日を覚えるのが苦手な私にはまず無理だ。そしてこの業におんぶに抱っこ状態で、友人継続10周年を無事迎えることもできた。


 もう一度言う、本当に感謝しています。


 今はいつ何処にいても簡単に連絡が取れる時代。だから他人任せになりがちな人間関係。そこに過信していると気づいた頃にはもう遅くなっていることもある。手軽に繋がれる利便性をむしろもっと利用してみるくらいが丁度良いときもあるんじゃないだろうか。

 

 もう少しだけ時間はかかるけど〈何か〉が見つかったらちゃんと連絡しようと思う。

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生きづらさは鵜呑みにして さくぽん @sakuratoponshu

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