3
クルテが言うとおり、こんな森の奥まったところで女の一人暮らしは不自然だし、不可解なことも多い。だが、それがなんだって言う? 魔物や獣に襲われる心配なく夜を過ごせる、そのほうが重要だ。
「他人に家の中をウロウロされたくはないものだ」
ピエッチェが、クルテに言った。
「そうなのかな?」
クルテは今度も『そうかもしれない』とは言わなかった。
「きっと別の理由がある。でも、ピエッチェの言うとおり、他人の家を勝手に見て回るのはよくない」
「部屋にあるものを勝手に使うのはいいでしょうか?」
と言ったのはカッチーだ。
「暖炉でお湯を沸かしましょう。キャビネットに鍋もあるし、ポットやカップもあります」
暖炉を見ると
水袋の水を鍋で沸かすのを眺めながらクルテが話を蒸し返す。
「確かに他人の家を徘徊するのはよくない。でもそれは相手が人間なら」
「あの人が人間じゃないとでも言いたいか?」
怒り気味のピエッチェだが
「女に化けた魔物?」
マデルの言葉にハッとする。女に化けた魔物なら、目の前に居るじゃないか。ここの女
「判らない――魔物の気配を感じて『何かいる』と言った。それがこの屋敷」
「建物自体が魔物ってことか?」
「それも判らない。建物が魔物なのか、魔物がこの中に居るのか? そもそも森自体が魔物かも」
「森が魔物?」
「立札の先から魔物の気配がしていた。だから違う道なんじゃないか迷った」
「なんでその時に言わないんだよ?」
「魔物が出るって聞いてたから、その魔物の気配かも?」
「森に入ってからおまえ、居眠りしてたよな? 魔物の気配がするのに居眠りか?」
「悪意を感じたのは一度だけ。気を付けろって言った」
「あぁん? あれは寝言じゃなかったって?」
「やめなよ、ピエッチェ。クルテを責めたって仕方ない」
見かねたマデルが口を挟む。
「ピエッチェ、今日はクルテに
「怒ってなんかない」
吐き捨てるようにピエッチェが言った。怒ってなんかない。ただ、クルテを見るとイライラする。クルテが何を言ってもムッとする。だからって、マデルにそうも言えない。
「寝不足で、態度がぶっきら棒になってるだけだ」
「お茶が入りました」
カッチーがティーカップを配る。
「食事にしましょう。どうするかは、それからゆっくり考えるといいですよ」
グリュンパの宿の
「一緒になるなら女将さんみたいな
カッチーが料理を見て嬉しそうに言った。
「おやおや、カッチーは簡単に餌付けされそう」
マデルが冷やかすと、
「料理を見て言ったんじゃありません。女将さんみたいに心づかいの細やかな人がいいって言ったんです」
カッチーがほっぺたを膨らませた。
「女将さん、ひとりの人と添い遂げられるのが幸せ、って言ってたよね」
マデルがピエッチェの顔色を窺う。
「ピエッチェもそう思う?」
なぜそんなことを訊く? 問おうと思って考え直した。クルテをこの先どうするのか、そう訊かれた気がしたが、きっと違う。マデルは自分のラクティメシッスに対する思いを整理したいんじゃないか?
「そんなこと、俺には判らない。人それそぞれなんじゃないのか?」
突き放したと思われないよう気を付けてピエッチェが言った。
「ただ俺は、そんな相手に巡り合いたいって子どものころから思ってた」
「子どものころから?」
予想外の答えだったのだろう、マデルが素直に驚いている。
「うん……俺のお袋は中流貴族の娘、兄と姉が二人ずつの末っ子だ。そして病弱だった。嫁がせ先はないだろうと、お袋の父と兄は一生手元に置いて面倒を見るつもりだったと聞いている」
「それじゃ、ご両親の結婚に周囲は反対したってこと?」
「うん、それでも
母から聞いた話が頭に浮かび、ピエッチェが黙り込む。
父が十七の夏、避暑に訪れた別荘、守役の目を盗んで散策していた庭で出くわした少女は、父を見ると驚いて逃げて行った。
少女は怖がっていた。来ないかもしれない。そう思いつつ、翌日も同じ場所に父は行った。驚かせたことを謝りたかった。だけど少女はそこに居た。
『あなたは誰ですか? なぜ、わたしの家の庭に居るの?』
どうやら別荘の庭を抜けて、隣の屋敷の庭に入り込んでしまっていたらしい。
『勉強に飽き飽きして抜け出してきたんだ。昨日は驚かせてすまない。謝ろうと思って今日も来た。居てくれてよかったよ』
『あら、勉強が嫌い? 新しいことを知るのが楽しくないの?』
『そりゃ楽しいけど……朝から晩までずっとじゃ、いい加減イヤにもなるよ』
『そんなに長い時間、勉強できるなんて羨ましいわ』
『よっぽど勉強が好きなんだね』
『違うの……』
少女は悲しげに
『わたし、身体が弱くていつも寝てばかり。だから好きな本も長い時間は読めないのよ』
『それじゃ、どうしてここに?』
ハッとしたように少女は父を見た。
『今、あなたが勉強に嫌気がさしてここに来た理由がよく判ったわ――わたし、寝てるのに飽き飽きしてこっそり部屋を抜け出したの』
コロコロと笑う少女を父はどんな思いで見ていたのだろう?
そろそろ戻らないと見付かってしまうと言う少女に、
『ここに来れば明日も会えるかな?』
と父は尋ねた。
『体調が悪くなければ……家族や召使以外と話したのは初めて。あなた、わたしの初めてのお友達よ」
それから別荘に滞在中、毎日父は約束の場所に足を向けた。少女は時どき来なかった。
『そんな日はきっと、わたしの身体を心配してくださってたわ』
遠い目をして、母は
「それでどうやって反対を押し切ったんですか? ピエッチェさんは上流貴族でしたよね?」
カッチーの質問にピエッチェが物思いを中断させる。
「うん、それがね、結婚相手を早く決めろと祖父に言われて、意中の相手がいるって言ったらしいんだ。が、相手は中流貴族の娘、祖父は猛反対、でも親父は他の人と言われるなら一生妻を持たないと言い張る――根負けした祖父は条件を出した。二年待ってやる。それでも心が変わらないなら許す。若い情熱の
「でも、お父さんの心は変わらなかったってことですね」
「そうなんだけど、やっと二年が過ぎて正式に結婚を母に申し込んだ。ところがここで意外な問題にぶち当たる――お袋ったらプロポーズを断ったんだ」
笑うピエッチェ、
「えぇ!? お父さんの片思いだったってことですか?」
カッチーがもっともな疑問を口にする。
「いいや、そうじゃない――お袋は親父に名前を訊かなかった。親父も訊かれないから名乗らなかったし、お袋の名も訊かなかった。ただ親父はお袋の住処を知っていたから誰の娘かを知っていた」
「うん、それで?」
「結婚を申し込まれて、初めてお袋は親父の素性を知ったんだよ。で、怖じ気づいちゃった。中流貴族の自分ではダメだ、身体が弱い自分ではダメだ、ってね」
「その気持ち、なんとなく判るわ」
マデルがポツンと呟いた。
「でも、結局は一緒になったのでしょ?」
「まぁ、お袋も親父に惚れてたらしいからね。すったもんだの末に結婚し、姉と俺は無事にこの世に生み出された」
いろいろ聞いているが、ここではそれは省略してもいいだろう。ピエッチェが軽く溜息をつく。
「で、話しを元に戻そう。惚れた相手に惚れられて、その人と一生添いたい、そう思うのは両親への尊敬と憧れなんだと思う。そして母が亡くなって以来、その思いは強くなっていった」
ピエッチェを見詰めて、マデルとカッチーが次の言葉を待った。
「妻を亡くした親父に後妻を勧める話は幾つもあった。息子が一人では心もとなかろうってね。俺に何かあれば継ぐ者が居なくなる。だが親父はすべて笑って受け流していた。妻は自分の身体の弱さを受け継いでいないか心配して、幼いころから娘と息子を鍛えていた。娘はあいにくそこまで丈夫ではないが、息子は殺しても死にそうもないくらい頑丈になった」
「酷い言われようね」
クスッとマデルが笑い、ピエッチェも苦笑する。
「で、自分を癒せる
「一生恋心を持てる相手を、ピエッチェも探してる?」
「俺が相手を思うように相手も俺を思ってくれる、ってのが正解かな? もちろん、それにはお互いの努力が必要だろうけど、その努力……苦労? を一緒にするって覚悟してくれる人、だね」
「苦労なんですか?」
カッチーが怪訝な顔をする。そんなカッチーにピエッチェが微笑む。
「どんなに仲が良くても、いつでも同じ意見とはいかない。それに生きていれば様々な困難にぶつかるものだ。そんな時でも手を携えて共に立ち向かえる、ってところかな? まぁ、知り合ってすぐには無理な話だね。そんな関係を築いていけるって思える相手を探してる」
「ピエッチェさんのご両親はそんな関係を構築してたってことなんですね」
感慨深いといった顔をするカッチー、ピエッチェが、
「お袋がさ、死ぬ間際に言った言葉がある」
と静かに言った。
「いろいろ苦労したけれど、あの人の妻でわたしは――」
ハッとしてピエッチェが言葉を止める。マデルとカッチーがそんなピエッチェを覗き込む。母親の臨終を思い出してピエッチェが悲しんでいるのかと思っていた。が、ピエッチェは茫然としているだけだ。
「ピエッチェさん?」
待ちきれなくなってカッチーが呼ぶ。
「ん? あぁ、すまない……えっと、なんだったかな」
カッチーの顔を見ながらピエッチェが考え込む。
「そうそう、あの人の妻でわたしは幸せだった、って言ったんだ。俺、自分の妻にそう言わせたい」
「ピエッチェ、それ、自分が先に死ぬことはないって決めてるよ?」
マデルが笑う。
「そっか……まぁさ、俺が先に死ぬときは妻にそう言い遺して死ぬことにするさ」
マデルに話しを合わせながら目の端でクルテの様子を窺う。あの人の妻でわたしは幸せだった。母の言葉には続きがある。
『あの人は世界の全て。喜びも悲しみも全部あの人が教えてくれた』
クルテは眠そうに目を擦っている。ピエッチェの話など聞いていなさそうだ――
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