第35話

 このまま一生、劣等感を抱えながら生きていくのは嫌だ。

 玄関の扉に鍵をかけ、ふらりとした足取りでその場を離れる。

 立ち上がった琴音はキッチンへ入った。夕飯の支度か、と智之はリビングのソファに腰を沈めた。テレビをつけて、ニュース番組を選択する。

 迅は今、琴音の実家にいる。話し合いが終わったから迎えに行った方がいいのだろうか。もう寝ているだろうか。明日は月曜日なので、学校があると思いきや、カレンダーを見ると振替休日と琴音の字で書きこまれている。そういえばこの間、休日に課外授業があったと迅が言っていた。その振替か。ならば迎えは明日でもいいだろう。今日はもう寝ているはずだ。

 ただ迎えが面倒なので、それらしい言い訳を考えて、琴音が聞いてきたときの回答にする。

 琴音はキッチンにある棚を開けて目当てのものを取り出す。

 数日前、研いだばかりの包丁だ。切れ味は良い。

 ぴかぴかと光るそれを右手で握り、ふらりふらりと智之の背後に立つ。

 一生このままは嫌だ。

 ATMのくせに浮気するなんて。結婚してやったのに、逆にお前が妥協するなんて。

 今まで何のために頑張ったのだろう。

 専業主婦になりたかった。働きたくなかった。

 でも家事は嫌い。育児も面倒だった。

 でも人並みの生活はしたい。

 ママ友や同級生のように、子どもが二人以上いて、旦那と協力して家事育児をして、休日は絵に描いたような家族サービスをしてくれる旦那。

 理想だった。それがよかった。

 本当はそれが蓮だったらよかったけれど、弟だからできない。何かあれば、また警察を呼ばれる。

 仕方ないから、智之でいい。そういう人並みの、ありふれた生活をしたかった。

 幸せな家族。良き旦那。

 そして偶に蓮の話が聞けたなら、それでいい。

 人から羨ましがられる日常が欲しかった。

 それで、妥協してやろうと思った。

 蓮と幸せになれないのなら、せめて二番目の男と並の生活をしたかった。

 妥協した結果がこれだ。

 智之とこれから先、一緒に暮らしてもそこに愛はないどころか、屈辱を味わいながら日々を送ることになる。

 そんなもの、望んでいない。

 智之がいなかったらどうだろう。

 迅と二人。

 離婚してシングルマザーになるのと、未亡人は全く違う。

 後者の方が儚げで、響きもいい。

 同じシングルマザーでも全然違う。

 迅と二人で実家に帰ろう。

 そうすれば蓮の近況はすぐに入ってくるし、あの女と別れさせることだって可能だ。

 テレビから流れる綺麗な活舌を耳に入れ、画面に集中している智之の首をめがけて、思い切りそれを刺した。


「ぐああ!」


 突然走った激痛に、腹の底から虫を出すように呻く。

 骨に突き刺さったのか、筋肉に挟まったのか、包丁の柄越しに堅いものを感じる。

 一撃では息を絶やすことはできない。

 項に手を当てようとする智之より早く、二度目を刺した。

 汚い声を出しながら倒れ込む智之。

 ソファをまわりこんで、床に蹲っている智之に馬乗りになる。

 男の力には勝てないと思っていたが、一刺しが効いているようで力ない抵抗ばかりしている。


「あんたさえ!いなくなれば!」


 首にある動脈を切れば人間は死ぬ。

 いつかサスペンスのドラマで得た知識を引っ張り出し、首を集中的に狙う。

 声帯が潰れたのか、聞き慣れた声は口から出てこない。

 それでもまだ動いている智之。

 琴音は髪を振り乱し、狂ったように刺して切りつけてを繰り返す。

 何回刺したか、切りつけたのか、記憶にない。

 床に腕が落ち、全身から力が抜けている智之から離れる。

 その姿は素人目でも死んでいると分かる。

 智之が死んだ。

 奈津江を死なせてまで手に入れた智之を、この手で亡き者にした。


「はは、は」


 迅と二人で。なんて思い描いていたが、血まみれの智之と血まみれの手元を見て悟る。

 逮捕されて、終わりなのだと。

 喪失感で心は空になり、頭は冴えている。

 きっと、警察が真っ先に疑うのは妻だ。

 ここから逃げ出したところで、どうにもならない。ここではないどこかで生きていけるとは思えない。知らない男に匿ってもらうことくらいはできるかもしれないが、逃げ出したら蓮とは二度と会えない。逃げ出さなくても蓮とは会えない。

 刑務所へ行き、出所したところで殺人者というレッテルを貼られ、蓮は会ってくれないだろう。人殺しはお断りだと。警察を呼ぶぞと。

 逃げても、逃げなくても蓮と会えない。

 会いたい、会えない。そんな葛藤と共に生きる。


「蓮、蓮」


 こんなはずじゃなかった。

 蓮と一緒になりたかった。

 できないから、智之と普通の生活をしたかった。

 それもできなかった。

 もういない奈津江の顔を宙に浮かべる。

 すぐに散る桜のような女だった。弱々しく、今にも折れそうな奈津江。死後に力を発揮するとは思わなかった。

 今、こうなっているきっかけは奈津江だ。

 奈津江さえ自殺しなければ、あの女が琴音の領域に侵入してくることはなかった。

 そして思い出す。

 奈津江が自殺したのは、自分が原因だと。

 ならば、今こうなっているのは、自分のせいか。

 なんだか、どうでもよくなった。

 自分のせいだとか、奈津江のせいだとか、智之のせいだとか、あの女のせいだとか、もうどうでもいい。

 結局、なんだっけ。

 何を考えていたんだっけ。

 あぁ、そうだ。

 蓮を愛している。

 ただそれだけ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る