第33話
情報量が多く、智之と琴音は頭と感情を整理すべく、黙り込んだ。
美沙は膝の上で拳を握る。
じわりと汗ばむ拳の上に、蓮は自分の手を重ねた。
まさか触れられると思っていなかったため、ぴくりと手が動いた。
蓮の意志の表れだった。
絶対に離さない。そう言われているようで、美沙は口元が緩みそうになった。
昨夜、智之と琴音が美沙の部屋の前から退散した後、美沙と蓮の間に沈黙が流れた。
扉を閉める音だけが室内に響く。
美沙は、蓮に何も伝えていなかった。
浮気をしていると自ら話すことではない。隠し通せればそれでよかったが、隠し通せるものだとは思っていなかった。
いつかはバレてしまうのだと覚悟していた。
そのいつかが今日だった。
蓮はクッションを叩き、隣に座れと美沙に伝える。
腹を括って座った。
蓮とは付き合って長い。このまま結婚するかも、と舞い上がったこともある。その都度、自己嫌悪に陥った。浮気しているのだから、それはない。きっとバレてしまう。姉の元カレの家庭を壊すために浮気しているのだと知ったら、蔑むように捨てられるだろう。
他人を不幸にするために浮気をしているなんて、蓮には到底言えない。
しかも相手の妻は蓮の姉だ。
復讐を決心してからすぐに探偵を雇って身辺調査をした際、蓮の存在を知った。
近づこうと思っていたわけではない。琴音の旦那と浮気できればそれでよかった。レンタルショップで出会ったのも偶然だった。
探偵からは無口で不愛想、おまけに女嫌いだと報告を受けていた。
けれど顔はいい。イケメンだと散々言われてきただろう。そんな男を惚れさせると豪語できるような顔も性格もスタイルもない。弟も攻めてみようと一ミリくらいは思っていたのだが秒で諦め、旦那一本に絞った。
それがまさか、恋人になるとは夢にも思わなかった。
付き合ってみれば無口で不愛想なのは変わらないが、随所で優しさが垣間見える。無口ではなく、話すことが苦手なだけ。不愛想だけど笑ってくれる。最初はあの女の弟だから、という理由で関わっていたが、いつの間にか惚れていた。
蓮といると楽しかった。結婚したい、一生一緒がいいと思った。
それくらい、蓮に対する愛は大きかった。
「あの二人と、どういう関係?」
それも、終わりだ。今日で終わり。
短い夢だった。
今後、蓮のようないい男とは出会えないだろう。
逃がした魚は大きいというが、逃がす前から大きいことは分かっていた。
あぁ、これで終わりか。
もうどうでもいいや。
浮気はバレたから、きっとあの家庭は終わりだろう。体裁を気にする二人だから離婚はしないだろうが、この先ずっと壊れた関係を続ける。ざまあみろ。自分たちだけで幸せになろうとするからだ。姉を自殺に追い込んでおいて、幸せに生きていこうとするからだ。殺されないだけありがたく思え。
この先ずっと互いに傷を抱えながら生きていけばいい。ヒビが入った家庭は修復不可能だ。そのまま年老いて死ねばいい。
「美沙?」
「…復讐よ。あの家庭を壊したかったの。だからあの男と浮気したの」
蓮の顔を見るのが怖くて、顔を背けるが、蓮の手によって顔が固定される。
「こっち見て」
「…何」
「最初から教えて」
子どもに話しかけるように、優しい声で柔らかい表情で、温かい眼差しで美沙を見つめる。
涙が出そうだった。
そんなに優しくしないでほしい。
罪悪感が膨らんでいく。
蓮の視線に負けて、美沙はすべてを話した。その間、蓮はずっと相槌を打つ。
話が終わると罵られるどころか、ふっと笑われた。
馬鹿にしているのか。何がおかしいんだ。
「それで、美沙はどうしたいの?」
「どう、って」
「明日あの二人と話すんでしょ?」
「うん」
「俺は?」
「えっ?」
「俺との関係はどうするの?」
「どうする、って」
どうするも何も、話を聞いていなかったのか。
怪訝な表情になっていく美沙を笑い、前髪を整えてやる。
「あの男とは別れてくれるの?」
「別れるって…あの女に浮気がバレたんだから当然でしょ。これ以上付き合う理由はないもん」
「じゃあいい」
「いい?」
「あの男と別れて、俺とだけ付き合うならそれでいい」
理解できなかった。
二股をかけていたことには変わりない。
それをまさか許すのか。
別れないに越したことはないが、絶対に捨てられると思っていた。
何を考えているのか分からない。
普通、浮気した女を許すだろうか。それも、姉の家庭を壊そうという理由で浮気した女だ。何故そんなに笑っていられるんだ。
「そ、それでいいの?」
「うん」
「浮気だよ?」
「うん」
「…浮気って分かる?」
「馬鹿にしすぎ。いいよ。本当は嫌だけど。でも別れるなら、それでいいよ」
優しすぎる。まさか嘘ではないだろうな。
こうやって嘘を吐いて、嘘に決まってんだろ馬鹿な女だな、と後から奈落の底に突き落とすのでは。
「疑ってる?」
「だ、だって」
「本音しか言ってない。俺が嘘吐いたことある?」
「…ない」
「美沙が一番大事だから。本当だよ」
「…うん」
これがもし演技なら、なんたら男優賞を獲れる。
いつもと変わらない声色で、表情の蓮。
嘘は吐いていないのだろう。きっと、本心なのだろう。
ここまで包容力がある男だとは思わなかった。
誰だ、無口で不愛想だと言った奴は。
「ムカつくけど、あの男殺したいくらいムカつくけど」
「でも、お姉さんの旦那との浮気だよ?許せるの?お姉さんの家庭を壊したんだよ?」
きっとこれは、許せないに決まっている。
身内を傷つけられて、怒っているに違いない。
「あぁ、それは別にいい」
「...?」
そういえば、姉と血の繋がりはないのだったか。
血縁関係がないなら、そんなものなのか。
いやそれでも、姉は姉だ。一緒に育った姉なのだから、許せない気持ちを抱いていても仕方がない。
「姉とのことは明日話すから。姉については気にしなくていい」
どこまでも優しかった。
冷淡そうな見た目なのに、無口なのに、不愛想なのに、美沙にはとことん優しかった。
自分が特別になった気になる。
好きだと心の底から思う。
浮気を許してくれる男が、この世にどれだけいるだろうか。
仕方ないことだから。復讐を思い立つのも当然だよ。そんな甘い囁きをされて、涙がこぼれた。
こんなにすんなりと、許しをもらっていいのだろうか。
「でもこれからは絶対浮気しないで」
「うん、うん」
「この件が終わったら結婚しよう」
「うん…うん?」
「仕事辞めて、俺の家においでよ」
「うん!」
今、このタイミングでそんなことを言うのか。
同棲の話を浮気暴露の後にするものではない。
美沙は笑いがこみ上げた。
ふふ、と笑う美沙の隣で蓮も笑みを浮かべた。
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