第30話

 蓮が小学生になると、父が再婚した。

 実の母の顔は遺影でしか見たことがない。蓮が生まれてすぐ他界したと聞いている。父は母の分まで蓮に愛情を注いだ。仕事もあるだろうに家事に育児、すべてを一人でこなした。祖父母に預けられることもあったが、父はできるところまで一人でやろうと、毎日動き回っていた。

 だから、母ができると知った時は嫌だなと思ったけれど、幼いながらに父の忙しさを知っていたため駄々をこねることはしなかった。父がそうしたいのなら、受け入れようと思った。

 嫌だと思ったのは最初だけだった。父が再婚した女は優しく、思い描く母親像そのものだった。スーパーのパートをしながらも家事をこなす新しい母を自然と「母さん」と呼ぶようになった。

 前より忙しそうではない父に、蓮は安心していた。

 父と母は嬉しそうで、蓮自身も新しい家族を悪くないと思っていた。

 琴音さえ、いなければ。

 再婚相手にも連れ子がいて、それが琴音だった。

 歳が九つも離れている姉は蓮を可愛がった。

 最初は、姉として可愛がってくれているのだと思っていた。

 蓮はあまり感情を表に出すタイプではなく、基本的に人と話すことを嫌い、一人でいることを好んだ。愛想はないが、手もかからない。親や先生は蓮に子どもらしさを求めたが、次第に諦めた。こういう子なのだと納得した。手がかからないから、まあいいかと。良く言えば大人しい蓮は、家族の輪に自分から入ろうとはしなかった。

 両親はそれも個性だと受け入れ、無理に蓮を変えようとはしなかった。それは蓮にとって居心地がよかった。

 しかし、琴音は違った。

 蓮に構い倒し、四六時中傍にいる。

 姉だから、年上だからという理由で蓮の傍を離れない。

 蓮が引っ込み思案だと思い込んだ故の行動だと、当時は思っていた。

 歳の離れた弟が恥ずかしがり屋で喋ることさえできない。きっと友達なんていないだろう。そんな弟の性格を変えてやろう。姉くらいは弟と仲良くしてやろう。そんな思いで接していたのだと。有難迷惑でしかないが、そんな姉の気持ちを無下にするわけにはいかず、好きにさせていた。

 そんなある日、同級生に告白をされた。


「わたし、蓮くんのことが好きなんだ」

「…え?」

「彼氏っていうのになってほしい」


 小学四年生だった。

 恋愛について知っていたし、今まで何度もそういうことを言われた。

 嬉しくはない。

 それほど話したことのない女に好きだと言われ、なんだかもやっとした。むずっとした。

 好きだというのなら、もしかして今までずっと見ていたのか。陰からずっと見ていたのか。

 ストーカーか、と眉を寄せてしまった。


「その、蓮くん、かっこいいから」


 俯きがちに言われて、納得した。

 可愛いね、かっこいいね、将来絶対イケメンになるよ、綺麗な顔だね。

 よく言われる言葉だ。

 顔の美醜はまだ分からなかったが、どうやら自分は周囲から見て綺麗に映っているらしい。その認識はあった。


「好きなの」


 クラスメイトの女は頬を赤らめ、熱を宿した瞳で蓮を見つめた。

 またむずっとした。

 胸の辺りかと思えば、胃のような気もする。

 喉に込み上げるものがあり、口をもごもご動かす。

 女の顔を見ると、目を見ると、なんだかむずむずする。もごもごする。

 これが何かよく分からない。


「…俺は好きじゃない」


 その一言を絞りだすと、女は涙を浮かべ、背を向けて走り去った。

 女の姿が見えなくなると、ほっとした。

 体の異変もなくなった。

 なんだったのだろう。もう一度思い出すが、やはりあの顔が受け付けない。特に目が嫌だった。嫌というか、受け付けないというか、拒絶したいというか。

気持ち悪い。

 そう思うと、すとんと落ちた。

 そう、気持ち悪いのだ。

 あの目。熱い視線。うっとりと何かを期待している瞳。そこに映る自分。

 今まで告白なんて何回もされてきたのに、どうして今更こんな気分になるのだろう。

 何がそんなに気持ち悪かったのだろう。

 あの女と会話したことなんてない。嫌いになる理由はない。けれどあの目が嫌いだと思った。どうして嫌いなのか。気持ち悪いからだ。どうして気持ち悪いのか。その答えは出なかった。

 帰宅すると、答えがあった。


「蓮、おかえりー!」


 姉が制服姿のまま、両手を伸ばして出迎えた。

 その顔が、その目が、先程の女と酷似していた。

 途端にむずむずし始めた。

 あぁ、そうか、さっきの女が嫌だったのではない。自分は姉が嫌だったのだ。ずっと抑えつけていたけれど、本当は気持ち悪いと思っていたのだ。

 熱を帯びた眼差しで見つめられ、身体を触られ、耳元で囁かれ、それが苦痛で苦痛で仕方なかったのだ。

 家族だから、姉だから。自分を思っての行動だから。そう言い聞かせていたが、心のどこかで気持ち悪いと思っていたのだ。

 その顔が、その目が、蓮を好きだと言っている。先程の女と同じ、蓮を恋愛対象として見ているのだ。

 先程の女よりも深く、濃いその瞳が蓮を捉える。

 恋愛対象なんて可愛らしいものだけではない。性的な目で見ている。

 この日、漸く悟った。

 姉は、自分を男として好いている。

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