第29話
大学は同じだったが、学科が違うため琴音は奈津江と話す機会がなかった。
智之の彼女であったので、智之を見かける時はよく隣に奈津江がいた。
智之に話しかけて隣にいる奈津江を無視することはできなかったので、挨拶を交わした程度だ。智之に、礼儀のない女だと思われたくなかった。
遠くから見る奈津江は、智之にべったりだった。
智之が行くところについていき、常に智之に笑いかけていた。
反抗することはなく、智之が何かを言えば肯定した。
嫌われたくない。その思いが先行したのだと思う。
細い身体と纏う雰囲気から、儚げな印象だった。男なら守ってあげたくなるような、そんな女だった。琴音はそれが嫌いだった。自分とは正反対の女。自分はそんな風になれない。羨望がなかったとは言えない。嫌悪を強く感じていた。
自分の足で立てないなら立つな。
男がいないと生きていけないなら死ね。
言いたいことがあるならはっきり言え。
察してもらおうとするな、眉を下げるな。
腹が立った。
智之が二股をかけていることに気付いていたことだろう。
琴音が気づかせるよう仕向けた。
智之の家のシャンプーを使い、奈津江の傍に立った。香りを漂わせるように髪を靡かせた。
奈津江が誕生日に、智之から貰ったネックレスと同じものを琴音の誕生日に強請った。
奈津江と琴音の小物が数個被っていた。
意味あり気な視線を幾度となく奈津江に送った。
気づかないはずがない。それなのに、奈津江は何も言わない。智之にも琴音にも、何も言わなかった。何の反応もしない。
それがまた、琴音を苛立たせた。
「私、智之のことが好きなの。別れてくれる?」
そう言ったことがある。
初めての会話らしい会話がこれだ。
奈津江は困ったように笑うだけだった。
返事をしない奈津江に怒りが爆発し、琴音は嫌がらせに走った。
何も言い返せないのだ、あの女は。
智之に嫌われたくない一心で、何も言えない。
嫌いだ。
にこにこ笑い、守られるだけの女。
意見を主張できない女。
琴音の嫌いな人種だった。
しかし、妹の美沙は奈津江とは違うようで、鋭い眼光で琴音を捉えている。
「待ってくれ、奈津江の妹?」
琴音が項垂れ、言葉が出なくなっている代わりに智之が声を上げた。
「分からなかった?」
「みょ、苗字が違うし、奈津江の妹だなんて…」
青くなりながら智之が声を絞り出す。
「親が離婚して、妹がいる。姉から聞いたことあるでしょ。当然、姉妹で苗字が違うことも分かっていたはず。それなのに気づかなかったのは、姉のことなんてすっかり忘れてたってことよね」
図星を突かれ、目を泳がせる智之を一瞥し、顔を上げない琴音に向かって言葉を投げつける。
智之は困惑しながら、頭の中で整理する。
奈津江の妹と浮気をしていた。
それは偶然なのか。
「知っていたのか、俺が奈津江の元カレだってこと」
「当然でしょ。姉は弱い人だったけど、意味もなく自殺なんてしない。絶対に何かあると思って部屋中を探した。そうしたらその女の嫌がらせがたくさん出てきたわ。もちろん、あんたと姉が写った写真もね」
「俺のことを知っていて近づいたのか」
「じゃなきゃ誰があんたみたいなおっさんを相手にするのよ。今まであたし以外の女に言い寄られたことある?浮気しようと思っても、あたし以外に相手してくれる女がいなかったでしょ。そういうことよ。あんたが思ってるより、あんたに魅力ないから」
智くん、と呼んでいたあの愛らしい美沙はどこへ行ったのか、ずっとあんた呼びだ。
「あんたを見つけるのは簡単だったわ。姉の友人に聞いたら名前、大学、就職先なんてすぐに分かった」
何を言っているのだ。
出会いは偶然ではなかったのか。
美沙の話に気が遠くなる。
「じゃ、じゃあ俺の職場で働いてたのも...」
「あんたに近づくためよ」
あっさりとした回答だった。
偶然ではなかったのだ。
美沙が仕組んだ、故意的なものだった。
何故そんなことをしたのか。そんなことは分かりきっている。
復讐だ。
智之に近づき、不倫をすることで家庭をぶち壊そうと考えた。
美沙の望み通り、パパ活が琴音に知られて信用を失い、美沙との浮気で今こうして崖に立たされている。
「俺のことは、好きじゃなかったのか」
「あったり前でしょ。あんたのどこに魅力があるっていうの。姉と付き合っている時に浮気して、結婚しても浮気して。そんな男の何に惚れろっていうのよ」
「そ、そんな…」
「あぁ、そういえばあのパパ活の写真だけど、あたしがやったの。夫婦仲を掻きまわしてやろうと思って。なんで知ってたかって?あんたの携帯、チェックしてたからよ。気づかなかったの?」
「美沙…」
「送り主を必死に探す姿が間抜けで面白かったわ」
ハッと鼻で笑う美沙が別人のようだ。智之の知っている美沙ではない。
美沙はそこに居るだけで癒しになり、愛らしく、可愛い。
今目の前にいるのは感情のない濁った瞳で嘲笑う、悪魔みたいな女。
脱力して背もたれに体重を預ける。琴音が先程から黙り込んだままなので、どうしているか横顔を確認すると、放心していた。
時折蓮に視線を向けている。
琴音は智之と美沙の浮気より、美沙と蓮との交際について気になるようだった。
「本当に、俺のこと好きじゃないのか」
「しつこい。なんで三十半ばの妻子持ちのおっさんに惚れると思ってんの。あんたが若くて可愛い女を好きなように、あたしだって若いイケメンが好きなの」
その若いイケメンが蓮だ。
蓮と智之を比較したとき、智之が勝っているのは経済面だけ。
容姿は完敗だ。
中身で勝負しても、浮気三昧の智之と無口で不愛想な蓮。どちらがいいかなんて考えなくても分かる。
「どういうことよ」
黙って聞いていた琴音が口を挟む。
「若くて顔がいいから、だから蓮と付き合ってるの?たったそれだけで?」
「それだけじゃないけど。あんたに言う義理なくない?」
ぎろりと睨みつける琴音と、白けた目で見つめる美沙。
「あんた、蓮の何を知ってるのよ。顔だけじゃないのよ蓮は。あんたが付き合っていいような男じゃないの!蓮も!なんでこの女なの!こんな女よりも、こんな女よりも!」
強く拳を握り、爪が食い込む。
智之の浮気よりも、そっちが許せない。
静観していた蓮は琴音に侮蔑の眼差しを向け、言った。
「こんな女よりも、私の方が良い女なのに。って?」
琴音は息を呑んで止まった。
眼球だけを動かし、蓮の機嫌を窺うようにゆらゆらと焦点を合わせる。
「いい加減キモいんだよババア。弟相手に恋愛しようとすんじゃねえ」
その一言で場が凍った。
琴音は顔色を変え、かちかちと小さく歯を鳴らす。
「弟相手に恋愛って、何?」
美沙が堪らず尋ねた。
その様子から、二人は深い話し合いをしていないのかと智之は安堵した。
話し合いをしていないということは、気まずい空気の中一夜を過ごしたに違いない。
蓮の発言に驚きながらも、智之は美沙のことを考えていた。
「俺に惚れてんだよこのババア。旦那も子どももいるっていうのに、まだ俺のこと好きなのか。気持ち悪い」
誰にも知られていないと思っていた琴音は、いっそのこと意識を手放したくなる。
「俺が知らないとでも思ったのか?あんだけ迫られて、気づかない方がおかしいだろ」
琴音は、弟の蓮に恋している。
その事実が美沙と智之に衝撃を与えた。
智之に至ってはもう訳が分からない。
琴音は近親相姦を望んでいたのか。
蓮の反応を見るに、蓮にその気はない。
琴音の一方的な愛だ。
美沙は汚物を見るように、琴音に対して「うわー」と呟いた。
智之も、同じ気持ちだった。
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