お試し回の結果

 食器をシンクに運ぶのだけは手伝ってテーブルに戻る。「姉さんがちょっと無理だから」と言いながら鬼嶋が出してくれたのはコーヒーや緑茶ではなく常温の麦茶だった。


「それで姉さん、これからどうする?」

「果奈ちゃんさえよければ、食事を作りにきてほしいと思っているわ」


 綾子の真っ直ぐな視線に果奈はこくりと息を呑み下した。


「時間や回数は果奈ちゃんの無理のない範囲でいいし、その分のお給料と交通費、材料費はもちろんお支払いするわ。それ以外の用事を頼むことがあればお給料は別、急に呼び出すことがあれば時間外料金込みで支払います。期間は少なくとも私が出産のために入院するまで。……どうかしら?」


 真っ向から見返したものの、綾子の美しさと滲み出る迫力に気圧されそうで、内心そわそわと落ち着かない。全面降伏すれば楽だろうと気弱なことを思ってしまう。


「質問、よろしいでしょうか」

「どうぞ」

「先ほど私の作ったものを召し上がったことで症状が改善されたのであれば、プロの家事代行業者に依頼する方がよいかと存じます」

「無理ね。さっき食べていてわかったけれど、私が食べたいものはただの料理じゃないみたいだから」


 ちょっとよくわからない話になってきた予感に、果奈は愛想のない顔をさらに固くするように眉を寄せた。


「失礼ですが、意味がよく……」


「どう言ったらいいかなあ」と綾子は視線を上に投げる。


「まず、果奈ちゃんに特殊能力があるわけじゃない。料理に特別な仕掛けがあるのでもない。でもなんというか……気、の相性? みたいなものだと思うんだけど」

「あやしの、ですか」


 果奈に馴染みのない話は、少しだけ見えている世界の異なる人たちのことだと経験上知っている。その指摘は正しかったようで、そうそう、と綾子は手を打った。


「私たちって状況を予測したり相性を感じ取ったりする力が強いんだけど、この第六感が強すぎると生きづらいのよね。人の多い都会だと、特に。だからあやしの格が高い人や、力をコントロールできない子どものうちはど田舎で暮らすのが常識」


 それを聞いて、祖父母の家のことを思い出した。

 車がなければスーパーに行けない、テレビのチャンネル数が片手もない、都会の騒がしさとは違う、心地よい自然の賑やかさが感じられる場所。時代を遡れば神様やあやかしも当たり前のように歩いていただろうと思わせるところだ。


「だから仮説はこうよ――私の力とお腹の子の第六感が過剰反応して、相性が悪いものを徹底的に排除する体質に変化した。果奈ちゃんとは相性がよくて、手料理は果奈ちゃんの気を帯びるから食べられる……って思うんだけど、どう?」

「スピリチュアルすぎてよくわからない」

(完全に同意です)


 鬼嶋がいてくれて助かった。心の中で大きく頷く。果奈だけだととても理解できないと言い出せななかった。

 だがそれが現実だ。あやしの人たちのことは、本人たちもよくわかっていない。病院がかれらを受け入れたがらないのは、医学の知識とは常識とは異なる何かが働くからだ。


「仮説の実証はさておいて、姉さんは岩田さんじゃないとだめなんだな?」

「うん。果奈ちゃんがいい」


 美女にじっと見つめられて、心が揺れない人間はいないだろう。ぐらぐらする自分を感じつつ、せめてもの抵抗で言ってみる。


「これを申し上げるのは自意識過剰だと思うのですが、鬼嶋課長に悪い噂が立つ可能性があります。いえ、社内では『男だったらよかったのに』と言われているくらいなので噂になったところで、とは思うのですが、ただでさえお忙しい課長をわずらわせるわけには、」

「――は?」


 地を這う声がした。

 反射的に姿勢を正した果奈は美女が般若に変わる瞬間を目撃した。


「『男だったら』って誰が言ったの? こいつ?」

「ち、違います! 尾田課長です」


 名前を出したところで綾子にわかるはずもないが、このときは必死すぎて考えが及ばなかった。隣で「へえ、尾田さんが……」と鬼嶋が黒い気配を滲ませて呟いたことにも気付かない。


「あのね、果奈ちゃん」

「はい……」

「あなたがあなた以外の何かだったらよかったのに、なんてことを言うやつがいたら、その場ですぐにぶっ飛ばしなさい」

「え」

「痛い目を見たことがないからそういうことが平気で言えるの。だから二度とそんな口がきけないよう痛めつけなさい、物理で」


 それは、暴力だ。

 できるわけがない、と言葉を失う果奈に、綾子はにっこりと綺麗な笑顔を浮かべた。


「心が死ぬくらいなら、相手を殴れ」


『はい』以外の返答は許されない圧だった。


「できないなら、恥をかかせてやりなさい。そうね……きっと明日、かしら? 尾田があなたに『男だったら』って言ってくるはずだから、こう言い返しておやりなさい」


 果奈は半ば呆然としながら粛々と綾子の指示を聞く。

 鬼嶋との通話や初対面からして強烈だったが、やっぱり色々ととんでもない人のようだった。「岩田さん、時間は大丈夫?」と鬼嶋が声をかけてくれなければ、何を言われても頷くだけの人形になっていたかもしれない。


 腕時計を見ると午後八時過ぎだった。上司の家だと考えれば、九時になる前に出た方がいいだろう。


「今回は突然だったし、このままだと姉のペースに巻き込まれるから、一度家に帰ってゆっくり考えた方がいいと思う。返事は後日でいいから」

「後日となると、綾子さんが困りませんか?」

「困る!」

「綾子、うるさい。……何も食べられないわけじゃないから大丈夫。仮説を証明するいい機会だと思うし、岩田さんは気にしなくていい」

(気にしないわけにはいかないのですが……)


 果奈がそう考えていることを察している鬼嶋は、けれど何も言わない。果奈の決断を後押ししたり、何に悩んでいるか聞き出したり、解決方法を提案したりもしなかった。


 よく考えて、自分で決めてほしい。

 そう思っているのだと感じて、考えなしのまま返答することはできなかった。


「持ち帰って、検討させていただきます……申し訳ありません」

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