あやしの君 かなしの恋 無愛想な私の、恋と勇気の彩り弁当

瀬川月菜

第1話 はじまりのビスク風スープ

岩田果奈は今日も働く1

 何のために働いているのと聞かれたら。

 それは食べるためである、と岩田果奈は答えるだろう。



 でなければこのように報告書を読み上げるだけの意思決定の場とは程遠い時間を、議事録作成担当として過ごしていない。


 毎週水曜日に行われる定例会議は、昼休憩が始まる正午を回ってからようやく終わり、果奈はレジュメから欠席者の名前に横線を引き、メモに不足がないかを確認してノートパソコンを閉じた。


(お腹が空いた……長引くと思ったから間食してきたのに、グミだけでは保たなかった……)


 だが会議は終わった。ようやく待ち焦がれた昼休みだ。


(こうなるだろうとわかっていて昨日しっかりお弁当を仕込んだ私、ぐっじょぶ)


 本日のお弁当は、いなり寿司とだし巻き卵、バター醤油で炒めたレンコン、箸休めにほうれん草のおひたしとミニトマト。スープジャーにはわかめの味噌汁が入っている。


 いなり寿司は三種類。基本の酢飯に塩昆布、わさび、野沢菜を混ぜたもの。


 だし巻き卵は白だしを使用し、バター醤油味のレンコンはさっぱり感を出すために最後にレモン汁を振りかけた。ほうれん草は醤油少々と白胡麻で和え、そこにお弁当の定番といってもいい彩り担当のミニトマトを詰めている。


 スープジャーに入っている味噌汁は顆粒の合わせだしを多めに使った濃い目で、会社に常備されているポットでお湯を注げば温度も味もちょうどよくなるように作ってある。


(いなり寿司弁当はいい……お寿司がお弁当という言葉の響き、お揚げの濃厚な甘塩っぱさ、酢飯に混ぜ込むもののバリエーション。合わせるのはだし巻き卵がマスト。ちょこちょこっとつまめる副菜がたくさん入っていると嬉しい。そして味噌汁。インスタントも美味しいけれど、疲れたときにこそ食べ慣れた味噌の味なんだよ……)


「誰か、後で照明を取り替えておいて」


 お弁当に思いを馳せていると、総務課長の尾田がその場にいた面々に言った。

 ほらあれ、と示されたのは奥の窓際の照明だ。最初からその一画が消灯されていたので節約しているのかと思っていたが、実際は蛍光灯が切れていたらしい。


「言われずとも定期的に見回りくらいしろ。会議室を使うのは俺たちだけじゃないんだぞ。そこで会議かセミナーが行われていたら? 他社の営業と商談をしていたら? メンテナンスを怠ったせいで自分たちの不手際で会社に損失を与えるかもしれないと思わないのか?」


 喋り続けることで興奮し始めたらしい尾田がどんどん怒りの形相になっていく。

 その場に留まった社員たちが気まずそうに、神妙な顔をして黙っているのは、不必要に遮ったり反論したりすれば尾田がますます燃え上がることを知っているからだ。


(これはまずい)


 このままでは最悪の場合、全員が昼休み返上、すなわちお弁当を食いはぐれる。

 危機感を覚えた果奈は可能な限り気配を殺してスマホを取り出し、メッセージアプリから通話モードを立ち上げた。


「だいたい、この前も」

「――もしもし、今田さん? 事務課、岩田です」


 女性ながら低い果奈の静かな声は、尾田の怒鳴り声の響く会議室でよく通った。

 尾田たちの視線から逃れるように背中を向けつつ、同じ事務課の後輩に告げる。


「休憩時間にすみません。倉庫から蛍光灯の替えを一本、いえ、三本出してきておいてもらえますか。会議室と他の部屋も見回って、交換作業に入ります。よろしくお願いします」


 今田の了承を聞いて通話を終え、急いで「休憩の後でいいです」と敢えて口頭で伝えなかった指示を送ると、尾田に向かって勢いよく頭を下げた。


「業務を怠り、誠に申し訳ございません。これから交換と点検作業に入ります。終わりましたらご報告に上がりますので、尾田課長はどうぞ昼食をお召し上がりください。もう休憩時間ですし、これ以上お時間を取らせるわけにはまいりません」


(ああお弁当が遠ざかる……)と嘆く自分がいるが、仕方がない。

 話す間も頭を下げていると、尾田はわずかながら溜飲を下げたらしい。うん、うん、と自身を納得させるような相槌を打った。


「しっかりしているな、岩田さんは。君が男だったらよかったのになあ!」

(セクハラなんだよなあ……)


 戸惑い顔の社員たちは尾田の「早く出なさい」の声に慌ただしく出ていき、「頼んだよ」の言葉を残した尾田を見送った果奈は、しっかり機器の電源や窓の施錠を確認するとノートパソコンと空腹を抱えて事務課に戻る。


 総務部の一部として組織されている事務課は、同じ総務室の一角にデスクの島を作っている。


「岩田さんがいて助かったよ。尾田課長、怒るとしつこいから」


 部屋に入ろうとしたとき、開いたままの扉から先ほどの会議にいた総務部の社員たちの話す声が聞こえてきた。


「だって『無愛想クイーン』だもん。ああいうときに岩田さんみたいな人は得だよね。私たちだとすぐ『へらへらするな!』って言われるもん」

「ああいうときだけって感じだけど」

「…………」


 果奈が黙って総務室に入ると、ぴたっと会話が止まった。そうして誰ともなしにそそくさと財布やお弁当を持って出て行く。


(気まずくなるなら聞こえるところで話さなければいいのに)


 いつも通りの展開ではあるが、やけにずっしりくるのはいまの果奈が空腹だからだろう。


(はあ、お腹すいた……仕方ない、仕方ないんだけどさあ……)


 そうして自分のデスクにパソコンを置いたとき、ふと斜め前の席で入社一ヶ月の後輩が一生懸命手を動かしていることに気付いた。


「今田さん」

「はっ、はいっ」


 声をかけると、全身をびくっと震わせた今田雪乃は、太縁の眼鏡と重めの前髪で隠されていてもわかるくらいに強張った顔をして果奈を見た。

 共用の机の上には、頼んでいた蛍光灯の箱が三つ。後でいいと言ったが早々と用意してくれていたらしい。


「蛍光灯、ありがとうございます。いまは何の作業中ですか?」

「あの、えっと、添え状を作って、います……」

「急ぎでなければその辺りで切り上げて、ちゃんと休憩を取ってください」


 笑顔で、もしくは優しい声が出せればいいのだが、あいにくどちらも不得手な果奈だ。「は、はい……すみません……」と消え入りそうな声で応じた今田にはきっと先輩命令に聞こえたに違いないが、就業規則違反で事務課全体が注意を受けないためには必要な注意だったと思う。


(私が会議に出ている間に今田さんを見るはずの岬さんはどこへ行ったのやら)


 今年度から別部署から配属されてきたもう一人の後輩を思いつつ、ついに堪え切れなかったため息を吐いた。



 岩田果奈(いわたかな)、二十六歳。むすび食品株式会社、総務部事務課社員。

 結べる長さを保つ黒髪に薄化粧、仕事着は一年を通して二色しか変化のないパンツスーツに、走れるかどうかに重きを置いたパンプス。唯一のアクセサリーはアナログの腕時計。


 特徴――顔が怖い。声が低い。態度が素っ気ない。笑顔がなくて無愛想。


 ゆえに小学生の頃からのあだ名は例外なく『岩』『岩ちゃん』。

 生まれつき強面で、クラスメートより少々力持ちだったため率先して荷物を運んだり、鉛筆が転がって笑う彼ら彼女らのなかで一人だけ淡々と手を動かしたりしているような子どもだったので、その厳ついあだ名はぴったりだと言われてきた。


 それは二十歳を過ぎても変わらず、就職した会社でも『無愛想クイーン』かそれを縮めた『クイーン』と呼ばれている。


 そしてその顔の下で考えているのは、ほとんどがお弁当や料理といった食のことであり、それを前にしたときにはわずかに表情が緩むことを、知っている者はほとんどいない。



(とりあえず鬼嶋課長に報告しておくか……)

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