幸福ボタンを1億2,600万回押すだけの簡単なお仕事です
戯 一樹
第1話
「どうもはじめまして。幸福ボタンをお届けに参りました」
家の呼び鈴が鳴ったので、てっきりネットで頼んだ荷物が届いたのかと玄関を開けたら、開口一番、黒服を着た狐目の男にそんな事を言われた。
「は? 幸福ボタン?」
「はい。こちらになります」
言って、狐目の男が手提げ鞄から取り出したのは、押しボタン式のリモコンだった。それも三つのボタンとデジタル表示盤のようなものまである。
「なにそれ?」
「幸福ボタンでございます」
「いやそれはさっきも聞いたけどさ、そういう事じゃなくて。これって何かのセールスかって話」
「セールスではございません。この幸福ボタンを押してもらうだけの簡単な仕事を案内させていただきに参りました」
「いや、俺、こんなの頼んでねぇけど?」
無精髭をジョリジョリ撫でながら、今年で三十路になる風太郎は狐目の男に言う。
そもそも、大学を卒業してからずっと無職の怠け者で、すっかり実家の寄生虫と化している自堕落ニートが、こんな仕事めいた事を引き受けるはずがない。おそらくは父親か母親が頼んだものだろう。ろくに仕事をしようとしない探そうともしない息子のために。余計なお世話すぎる
「いえ、あなたで合ってますよ風太郎さん。これは国の政策で、ランダムで決めた国民からこの幸福ボタンのモニターになってもらう決まりなんです。それに選ばれたのですよ、あなたは」
はあ、と風太郎は気の抜けた返事をした。
選ばれたと言われても突然の事だし、そもそもやるとも言っていないのだが。
「それって強制?」
「できる限り国民の皆様による協力をお願いしていますが、どうしてもできないと仰るのであれは、無理強いはいたしません」
ただ、と狐目の男は嘘くさい笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
「詳細を聞いてからでも遅くはないかと」
そりゃまあそうだなと、風太郎は腕を組んで聞く体勢を取った。
「で、その幸福ボタンってなに?」
「はい。このボタンは一度押すだけで、日本国民のだれかひとりが幸福になれるという代物です」
「日本国民のだれか? 俺が幸福になるわけじゃなくてか?」
「いえ、日本国民のだれかひとりです」
「それ、俺になんのメリットがあるわけ?」
「日本国民のだれかが幸福になれるという時点で、喜びを感じませんか?」
「いや全然」
風太郎は即答した。正直、どことも知らん奴が幸せになろうが不幸になろうが微塵も興味はない。
なんていう風太郎の返答に「そうですか」と特に残念がるわけでもなく、狐目の男は相変わらず貼り付けたような笑みを浮かべながら語を継いだ。
「そういう方のために、一度ボタンを押すたびに10円が手に入るというシステムもございます」
は? と風太郎は眉を
ボタンを押しただけで10円が手に入る? そんなバカみたいな話があるものか。
いや、ボタンを押しただけで、どことも知らない人間が幸福になれるという話の時点で、かなり胡散くさくもあるが。
「嘘だと思うのなら、一度試しに中心のボタンを押してみてください。それから右の精算ボタンを押すと10円が手に入るはずですよ」
「押したら最後、モニターを押し付けるってわけじゃないだろうな?」
「いえいえ。あくまでもお試しですから。そんな騙すような真似はいたしません」
ふうんと未だ猜疑の目を向けつつも、風太郎は言われた通りに中心のボタンを押し、それから右のボタンを押してみる。
すると、たちまち何もない宙から瞬間移動でもしてきたかのように10円が手のひらに降ってきた。
「すげぇ! なんだこれ? どうなってんだ?」
「それは守秘義務がありますので、お教えする事はできません。ご了承ください」
「あっそ。まあいいや。で、これ、いくらでも押せるわけ?」
「いえ、日本の総人口である1億2,600万までです」
「なんだ、無限じゃねぇのか」
とはいえ、一回10円という事は最大10億2600万もの大金が手に入る。しかもこのボタンを押すだけで、だ。
「ご興味いただけましたか?」
「おう。けどよ、これってノルマとかあるのか?」
「ノルマはございませんが、長期間ボタンを押さずにいると、今まで押したボタンの分の金額を国に返却しなければならなくなるのでご注意ください」
「げぇ、マジか。じゃあ途中でやめたくなった時はどうしたらいいんだ?」
「その時は左にあるボタンを押してもらうだけで結構です。ただし、その場合も今までボタンを押して幸福にさせた人の分だけの不幸があなたの身に降りかかる事になるので、よくお考えの上で選択してください」
「なんか突飛な話だな」
ボタンを押すだけで金が何もない宙から降ってくるという時点で、かなり摩訶不思議ではあるが。
「どうされますか、風太郎様。幸福ボタンのモニターになりますか、なりませんか?」
「なる」
間髪入れずに答えた。
ボタンを押すだけで金が手に入るなんてそんな夢のような物、手放す理由がない。
唯一懸念する事があるとすれば、先ほどのペナルティーの件だが、ようはボタンを最後まで押し切ればいいだけの話だ。不安視するほどではない。
「ありがとうございます。ただひとつご忠告しておきたい事がありまして、その幸福ボタンはあくまでも風太郎様自身で押さないと反応いたしませんので、どうかご注意ください」
「俺自身? って事は足とか腹で押しても問題ないって事か?」
「その通りです」
そう言って、狐目の男は風太郎に幸福ボタンを手渡した。
「なお、週に一度ボタンが押されているかどうかの確認のために何度か訪問させていただきますので、あらかじめご了承のほどを」
「わかった」
■ ■ ■
幸福ボタンのモニターになってから一週間後。
前に言っていた通り、狐目の男が一週間経ってから風太郎の家を訊ねてきた。
「あれ? 坊主頭にされたのですか?」
「まあな。それよか、ちょっと俺の部屋まで上がってくれよ」
言われた通り、風太郎の部屋に来てみると、そこにはピストン運動する小型の機械のようなものがあり、その土台に幸福ボタンが設置されていた。
それはこうしている間にも稼働しており、約1秒間に1回のスピードでボタンが押され続けていた。
「ほう。これは面白い物をお作りになりましたね。これで風太郎様の代わりにボタンを押してくれているというわけですか」
「なかなか良いアイデアだろ? 俺、工業大の出身だから、こういうのを作るのが得意なんだよ。ほら見てみろよ、カウント数もこれでかなり稼いだんだぜ?」
「なるほど。確かにカウンターが28万もいってますねぇ。一日でどれほど押せているのですか?」
「4万弱だな」
「ちなみに夜中は?」
「うるさいから止めてある。親父やお袋にも文句言われたしな」
つまり一日で40万円も稼いでいる事になる。風太郎自身は何もせずにだ。正直笑いが止まらない。
「しかし、どうやってこれを? 以前にも言いましたが、風太郎様自身でないと、ボタンを押してもカウントされないはずなんですが」
「あんた、俺自身の体なら足でも腹でもいいって言ってたろ? だったら髪の毛でもいいんじゃないかって思ってボタンを押す部分に髪の毛の束を付けてみたら、上手くカウントしてくれたってわけ」
「ああ、それで坊主にされたのですか。発想の転換といいますか、よくこんな物を思い付きましたねえ」
「まさか反則なんて言わないよな?」
「もちろんです。むしろ感心すらしていますよ。こういった形でわたくしどもの予想を裏切られるとは思ってもみませんでした」
「だろ? 我ながら天才だと思ったね。これで親が死んでも一生楽して生きられそうだぜ。がははっ」
と、不謹慎な事を笑いながら言う風太郎に、狐目の男は何も応えず、ただ貼り付けたような笑みだけを浮かべる。
そんな中、風太郎の部屋のテレビから、
『ここ最近、国民の幸福度が急上昇しているのが判明しました。しかしそれに比例するように無気力になる人も増加しており、政府や研究機関が関連性を調べているようです』
というニュースが流れていた。
■ ■ ■
あれから、さらに一か月が過ぎた。
そこは地下にある巨大な研究所だった。そこで狐の男は頭上にあるモニター画面の数字を見ながら「ほほう」と微笑を零した。
「どうやら、あれからもちゃんと押し続けているようですねえ。これも欲のなせる技とでも言ったところでしょうか」
などと独り言を呟いていると、横の廊下から「お疲れさまです」と眼鏡の男が狐目の男に歩み寄りながら声を掛けてきた。
「どうですか、そちらの被験者の様子は」
「順調ですよ。ああしてカウント数も日に日に増えていますし」
モニター画面のカウント数を見ると、すでに1500万を超えていた。このまま行けば、日本の総人口に辿り着くのに一年と掛からないだろう。
「確か被験者の風太郎はニートでしたっけ。今頃、遊んで暮らしているんでしょうね」
「ええ。見るからに堕落した人間でしたよ。悪知恵は働くようですが」
「幸福ボタンを自動的に押してくれる機械を作った方でしたよね? その人、よっぽど楽してお金が欲しかったんでしょうね」
「ええ。まあこちらから誘導した部分もありますが」
あれだけヒントを出せば、工業大出身の彼ならば何かしらの機械を作り出すだろうという算段はあった。その目論み通りになったというわけだ。
「しかし、未だによく幸福ボタンを押し続けてられているものですよね。僕の担当であるフランスの被験者は、数が100万を超えたあたりで中止ボタンを押しましたよ。だんだんと堕落していくフランス国民の様子を見ていて怖くなったとかで」
「幸福ボタンはただ永続的に幸福な気分になれるだけで、特段裕福になれるわけでもなければ願い事が叶うわけでもありませんからねえ。しかも何もしなくても幸福な気分になれるのですから、無気力な人間が増えるのも当然の理でしょうね」
言わば麻薬のようなものだ。しかも麻薬のように効果が切れる事なく幸福な気分を味わえる。本人が望むにしろ望むまいにしろ。
「ちなみに、そのフランスの方はその後どうなりましたか? 途中でやめたという事は、当然ペナルティーが発生したはずですよね?」
「ああ、あの人間なら首を吊って死にましたよ。なにせ100万人分の不幸ですからね。死ぬ前は全財産を無くして、友人や恋人を無くして、果ては家族にも見放された状態でしたよ」
「100万人分の不幸、ですか。それだけ聞くと100万回の不幸が降りかかるようにも思えますが、不幸とは結局のところ断続的なものですからねぇ。100万回で済まないどころか、永遠に続いたとしても不思議ではないんですよね」
それこそ、死ぬ以外に解放される道が無いくらいには。
「幸福ボタンを途中でやめた者の末路が死しかないってのは、ほんと救いようがないですよね」
「ええ。もっとも、幸福ボタンの対象になった者もそれなりに悲惨な最期を送っているようですけれど。自殺を強要されても反論もせずにすぐ実行に移す者や、殺されそうになっても無抵抗な者までいるそうですから。今の日本はそんな方ばかりの状態ですよ」
「そう考えると、幸福というのも考えものですよね。あんな無気力人間になるくらいなら、ちょっとの幸せで充分ですよ僕は」
「幸せになるためならいくらでも努力する人はいますが、反面、いざ幸せを手にすると現状維持で満足してしまう人も存外多いですからねえ。たとえ幸福だとしても、さらにその先を見据えている方は、幸福ボタンの対象になったとしても自堕落な人生を送る事はないんですけれどね」
「地球の人間って愚かですよねえ。進化も成長もやめた生物に生きる価値なんてあるのでしょうか?」
「それを見定めるために、こうして我々が実験しているんですよ。はるばる数万光年離れた宇宙からね」
少なくとも、自分が担当している日本はそう遠くない日に瓦解しそうではありますが。
そう続けた狐目の男に、眼鏡の男は「どうやらそのようですね」と相槌を打った。
「確か、近々隣国が攻めてくるんでしたっけ? それでその隣国を歓迎する日本国民が大勢いるとか」
「『偉大なる皇帝様が日本を救ってくださるとは、なんて幸福なんだ』『皇帝様の領地拡大バンザイ』『これで私達も皇帝様の民になれる。光栄だ』と喜んでいる方がたくさんいるそうですよ。その大半は幸福ボタンで幸福になった人間なのですが、中には幸福ボタンの影響を受けていないはずの国民まで侵略を歓迎している者がいて、実に興味深いです」
「変な日本人もいるもんですよね。前にも外国人に参政権を与える法律とか外国人に対する人権侵害を厳しく取り締まる法律ができたばかりでしたっけ。日本人は自分達よりも外国人の方が大切なのでしょうか?」
「自分がこんなに親切にしているのだから、相手もきっと親切にしてくれるに違いないと思い込んでいる方が多いのでしょう」
もっとも、単なる利権絡みとか外国人スパイによる工作という線も考えられるが。
まして今はや、幸福ボタンの影響ですべてを肯定的に捉える日本人で溢れ返ようとしている。これほど内部から壊しやすい国も他にないだろう。
今となっては、どれだけの数のスパイが日本政府の中枢に紛れ込んで、どれほど日本という国を壊すための工作を練っているのやら。
「……まあ、日本人でもなければ地球人でもない私にとっては、単なる観察対象でしかないので何の感情もわきませんが」
「? 何か言いましたか?」
「なんでもありませんよ。ただの独り言です」
「そうですか。ところで例の風太郎とかいう被験者はその後どうしているのですか? やはり幸福ボタンで得たお金で豪遊とか?」
「彼なら今ごろ東南アジアのとある国で悠々自適な生活を送っていますよ」
「東南アジアですか? 日本ではなく?」
「ええ。幸福ボタンの影響で日本がだんだんとおかしくなっていると気付いて、早々に海外へ逃げたようです」
「うわ、自分だけ安全圏に逃げたんですか? とんでもない奴ですね」
「典型的な自分さえ良ければそれでいいっていう人間でしたからねぇ。東南アジアなら円の紙幣価値も高くなりますし、今は夜中も幸福ボタンを押す機械を稼働させているみたいで、笑いが止まらないといった様子でしたよ」
「地球人の中でも一際クズな奴ですね、そいつ」
と、吐き捨てるように言う眼鏡の男に、そうですねと同意しつつ狐目の男は今も増え続けているモニター画面のカウンター数を見ながら、皮肉混じりに口を開いた。
「ただ、ああいう無神経で身勝手で自己中心的で、だれに嫌われようと恨まれようと憎まれようとも、自分が良い思いをするためなら平気で他人を蹴落とせる人の方が、ある意味一番幸福と言えるのかもしれませんね」
幸福ボタンを1億2,600万回押すだけの簡単なお仕事です 戯 一樹 @1603
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