第12話 いざ、寒川家へ

 俺はほたるの連れが住んでいるという、「寒川」という家を訪れていた。花を渡すために。

 見も知らぬ俺を快く招き入れてくれたのは、ほたるの連れのようだ。ほたるの知り合いだというと、懐かしいものを見たような表情をした。

「何だ?」

「いえね……あの人をほたると呼ぶのなんて、あんまりいないからね……懐かしくなっちゃって」

 家の中は暖かかった。暖房が効いているのだろう。俺はほりごたつが好きだが、空気そのものが暖かいというのもまた乙なものかもしれない。

「そういえば、あんさんのお名前はなんて?」

「ケイと言います。さとしとも読む字です」

「あらあら、螢さんと同じ読みだったのね。なるほど、それでほたる、と」

「ええ。同じ名前だとややこしいですから」

 お線香と花をあげ、俺は寒川夫人と談笑した。大抵はほたるとののろけ話。のろけられる程度にはほたるはこの連れを大切にしていたらしい。

 それから、しょうもない世間話。相変わらず縁野は商売が上手いとか、スーパーで新しい商品が出たとか。ほとんどくだらない話だった。

 けれど、話の大半は、ほたるが追い続けた「かっぱ」の話だった。

「あの人は本当、かっぱのことになると意地っ張りでねぇ。こんな時期とか、雪は降らずとも、地面が凍ることがあるでしょう? 危ないから今日はおやめになって、といっても聞かなくて」

「ほたるは死ぬまで池に通い続けたようですね」

「ええ、本当に呆れたものです。何回か滑って転んでいるのに。自転車に乗り慣れていなかった頃は、しょっちゅう転んで、そこかしこ擦り傷だらけにして……ほたるさんは本当、お転婆さんなんだから」

 俺はその呼び方にはっとした。偶然だろうか。

 すると、夫人はあらやだ、と上品に口元に手を当て、笑った。

「昔のくせが出ちゃったわ。私もね、ほたるさんと呼んでいたの。あなたの呼び方を聞いて懐かしくなって、つい」

 ……呆れた。まさかこれが結婚の理由じゃなかろうな?

 ほたるは存外、「ほたる」という渾名を気にいっていた節がある。俺が「ほたる」と呼んでやるたびに満面の笑みを見せたものだ。その人懐こい笑顔にやられて、つい何回も呼んでしまうのだが。きっとこの奥方も同じなのだろう。「ほたる」と呼んでやったときのほたるのような喜びの目と……慈しみの感じられる光を宿していた。

「それじゃあ、螢さんと呼ぶようになってからは寂しがられたんじゃないですか?」

「さてねぇ。あの人の眼中には、もしかしたら私なんてなくて、かっぱ池にいたっていうかっぱさんしかなかったんじゃないかしら?」

 ほたるならあり得ることだ。だが、ここでそれを肯定してしまうのもどうかと思う。

「そんなことはないんじゃないですか? 少なくとも俺は、いいお連れさんができたという報告は受けましたよ」

「まあ」

 上品に笑う人だ。笑い方に嫌らしさがない。ほたると似た笑い方をする人だ。

 お茶のおかわりを無言で注いでくれた。縁野家のお茶より味は薄いが、淹れ方が上手い。ほたるもいい嫁をもらったものだ。

「なんだかんだ言って、いつも帰りを待ってくれる人がいたんだから、ほたるは幸せ者ですね」

「ケイさんにはそういう方はいらっしゃらないの?」

「いませんね」

 奇化しものだから、というのは言いとどめておいた。この人はきっと、「普通」の人だから。かっぱがどうのと晩年まで言い止まなかったほたるなんぞに付き添った変わり者だが、それでもほたるを「普通」の世界の中に留めてくれた人だ。

 そうでなければ、ほたるは俺が見えなくなった瞬間から、脱け殻になっていたかもしれない。友人が多かったのだ。ほたるには、かっぱの話を聞いてくれるいい友人が。おそらくこの奥方もその一人だったのだろう。

「かっぱ池の畔で死んでしまうなんて、あの人らしいわ。案外、あっちでかっぱさんに会えたりして、喜んでいるのかしら? ふふ」

 それはないだろう。ほたるは人生を全うし、悔いを残さなかった。俺に会えなくても、会うための努力は十全にした。池にはほたるの霊は発生しなかったから。

 ところで、と奥方は首を傾げる。

「ケイさんはあの人がなんでかっぱのことが好きなのかご存知?」

「そういえば、聞いたことがなかったですね」

 考えたこともなかった。最初に会ったのは子どものほたるだったから、単なる好奇心がつらつらと年嵩を重ねていったのだろう、と思っていたが、違うのだろうか?

 ちょっと待っていてくださいね、というと、夫人は奥へ引っ込んだ。何やら部屋で探し物をしていたようで、ほどなくして、あったあった、という嬉しげな声と共に戻ってきた。

 その手に携えられていたのは古びた絵本だった。人間が幼少の折に読むものだ。俺の頃は……どうだったかな。お伽噺は伝わっていたが、紙で作られたものは少なかった。だが、ほたるは俺のところで学校の課題などをしていたため、教科書や辞書なんてものも見せられた。漫画と呼ばれる絵本も。

 夫人が見せてきた絵本の題目には「かっぱの雨乞い」という文字が並んでいた。

「あの人が好きで読んでいた本よ。子どもでもないのに、いつまでも大事にして、と笑われても手放さなかったわ。内容はご存知?」

「ええ、聞いたことがあります」

 人に何かと悪戯をするかっぱがいた。そのかっぱに村の者が手を焼いていたところ、お坊さんがそこを通りかかった。

 かっぱの話を聞いたお坊さんはかっぱの住む池に行き、かっぱと実際に会って、かっぱを諭した。何故悪戯ばかりするのか、と。

 かっぱは人間になりたかったのだという。自分ばかり醜い容姿に生まれたばっかりに、人間から爪弾きにされ、人間たちの集まりが羨ましくてちょっかいをかけているのだ、と。

 どうすれば人間になれるのか尋ねたかっぱにお坊さんが、善行を積めば、人間に生まれ変わることもできるだろうと説いた。

 それからしばらくして、村は干魃に襲われて、村総出で雨乞いをするほどになった。そこへ不意に件のかっぱが現れ、自分にも雨乞いをさせてくれ、というのだ。

 それから六日ほど祈り通して、村に恵の雨が降るも、見るとかっぱは力尽きていたとか……

「……切ない話ですよね」

「ええ。あの人はこれに出てくるかっぱが憐れで、かっぱに固執したんじゃないかしら」

 俺はほたるからそんなに憐れみを向けられたことはないが……

「かっぱは醜くなんかない! と」

「そっちですか」

「本当、そうよねぇ。あの人、どこかずれているの。だから、かっぱさんが見えたのかしら?」

 あながち間違っていない。「普通」の人間からすれば、無垢なる者は「ずれた」存在でしかない。人間がそもそも「世界」からずれた存在だとは知らないから。

 無垢なる者はずれに気づかないうちは無垢でいられる。知恵を与えたことで人間は無垢ではなくなってしまった。けれど、知恵がなければ人間は文明を築けなかっただろう。だからこそこういった「お伽噺」は存在し、かっぱなどの奇化しものも「お伽噺」──別「世界」の存在として人間の中に納められたのだ。

「だとしたら、私に今、あなたが見えているのは、私もずれ始めているからなのかしら。ねぇ、『かっぱのケイ』さん」

「!!」

 何故、気づいた? 俺は今人間の姿をしているはずだ。この夫人からは縁野の当主のような力はないはずでは……?

「ふふっ、当たりですね。実は最初からわかっていましたのよ? あの人をほたるとかっぱさんが呼ぶのは、あの人から聞いていましたし」

 どうやら鎌をかけられたらしい。どちらかというとそれは奇化しものの専売特許だというのにしてやられた。……と片付けるには確信に近いものがあったようだが。

「だってあの人、毎日毎日かっぱさんの話しかしないんですもの。私が生返事で聞いていると、『本当にかっぱはいるんだぞ。名前も知ってる。ケイっていうんだ』って。私が嫁に来たというのに、寝ても覚めてもかっぱさんのお話ばかり。最初は呆れていたけれどね……駄目ね、惚れた方の負けよ。かっぱさんの話をしているあの人が、きらきらしていて仕方なかったの」

「きらきら?」

「そう。輝いて見えたの。この人はこれが生き甲斐なんだって思ったら、応援したくなっちゃってねぇ」

 自分の幸せより夫の生き甲斐を優先するとは、奇特なもんだ。ほたるもいい人と巡り会えたんだな、と思うと感慨深い。

「それにね、あの人の話を聞いていたら、かっぱさんは悪い人には思えなかったの」

「それはどうして?」

「女の勘を舐めちゃなりませんわ」

 よくわからないが。

「それで、あの人がかっぱ池で死んで、それを悼む人はいたけれど、幼なじみばっかりよ。だからあの人の葬式、老人会みたいになっちゃって。そんなあの人にこんな若い友人が、なんて、かっぱが化けたと考えたって、おかしくはないでしょう?」

 見抜かれている。きっと、俺がほたるをそう思ったように、ほたるも俺を大事に思っていたのだろう。

「……ほたるについて、聞かないんですね」

「きっと魚肉ソーセージをあげた話くらいしかないでしょう?」

 それもそうだが。

「あいつは子どもの頃から俺が見えた。まあ、人間に化けた姿じゃないが……それでも長い付き合いだった。気にならないのか?」

 すると、夫人はくすくす笑う。

「私、耳にたこができるほど、あなたとのお話は聞かされておりますのよ?」

「そうか」

 聞いてくれる嫁でよかったな、ほたる。

「残念です。もっと早くに人間に化けられれば、貴女も交えて、ほたると話せたのに」

「あら、またいらしてくださいな」

 俺は苦笑いした。

「残念ですが、それはできないんです」

 あいつの願いを叶えるために、俺は──

「あら、残念ねぇ……じゃあ、来世で会えるといいわね」

「前世とか来世とか、信じているんですか?」

 すると、夫人はとんとん、と「かっぱの雨乞い」を示した。

「私もこの話、好きなんですよ。あなたもいいかっぱさんだから、きっと来世には人間になれるわ」

「はは、ありがとうございます」

 ではそろそろ、と俺はお暇した。


 これから、めぐみに会うまでの二日間、俺のやることはとんでもなくくだらなく、無意味無駄と笑われるかもしれない。

 けれど、俺は成し遂げたい。

 俺も「かっぱの雨乞い」の話は好きだから。

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