第9話 いざ、縁野家へ

「どうして死んじゃったの……? 恵叔母ちゃん……」

 その小さな囁きが耳に入り、俺の記憶を刺激した。

 メグミ。俺が知っているメグミはこいつ以外にもう一人いる。そいつも読みだけならこいつと同じ「ユカリノメグミ」だった。このメグミは俺の友人だったメグミの姪らしい。似ているとは思ったが、まさか血縁関係があるとは思わなかった。

 恵はこいつと似ていて、あまり快活な感じではなかった。けれど、無垢なる目を持ち、奇化しものである俺を見ることができた。もう無垢なる目が霞んで俺が見えなくなったほたるのことを憐れんでいた。けれど、俺がいることをついぞ恵はほたるに伝えることはしなかった。恵はそういう気の回るやつだった。

 わざとほたるがいる時間をずらして俺に会いに来ていたのがぷつりと途切れたと思ったが、死んだとは知らなかった。思い返せば、メグミは叔母のことを全て過去形で語っていた。そもそも叔母の十三回忌とか言っていただろうか。

 力の抜けた体をそっと抱き締める。泣きじゃくって、最後に恵の名を呟いたこいつは、今の俺のように恵との思い出を思い出していたのだろうか。俺の存在が恵を想起させたのなら、悪いことをしてしまった。ブッシュ・ド・ノエルの話のときは恵はかなり流暢に話していたからな。たぶん姪のこいつにも色々話したんだろう。

 ひとまず、メグミは気を失ってしまった。唯一の僥倖はメグミが縁野の家の子ということを聞き出していたことだろう。人間化は滅多にしないが、さして力の消費もしない。こいつを送り届けるまでの間くらいなら余裕だろう。

 ふと、恵のことを思い出す。そういえば、恵にはよく、縁野の家に来ないか、と誘われていた。

 縁野の家には代々、奇化しものが見える者が生まれる傾向があるからな。交流できる人間が何人かいるかもしれない、という配慮だったんだろう。そのときは人間と関わる気はなかったから断ったが、あのとき行っておけばよかった。

 ちょいと悪いが、メグミの財布を借りて、バスで縁野の家に向かうとしよう。バス停の時刻表を見ると、縁野の屋敷近くであろうバス停の名前があったから、帰れるはずだ。

 それにほたるはお隣さんだと言っていた。あいつの家に行ったことはないが、話は何度も聞いているから、それを基準に行けばいいだろう。

 俺はメグミを背負いながら、先程の駅前というバス停に向かった。縁野経由という路線に乗ればいいのだろう。

 バスの中に入ると、乗客が眠っているメグミに驚いているようだった。メグミを寝かせるのに、二人がけの席に座り、ほう、と息を吐く。

「ブッシュ・ド・ノエルがクリスマスのケーキとはな。通りで冬になると恵がよく話していたわけだ」

 俺はバスに揺られる間、あらゆることを回想することにした。


「わっ、かっぱだ!」

 それはもう何十年も前の出来事。ほたるがまだ子どもだった頃のことだ。ほたるはいつもきらきらした純真無垢な目をしていた。奇化しものの俺を奇異の目で見ることはなく、友人と話すようなくだらない話をするような仲だった。

「かっぱってさ、きゅうりが好きなイメージあるけど、他のものも食えるのか?」

 もきゅもきゅと魚肉ソーセージを食べながら、ほたるはそんなことを聞いてきた。試したことがないのでわからんと答えたら、魚肉ソーセージを食ってみろ、と差し出されたので、俺は未だかつて口にしたことのないそれをぱくりと一口頬張った。

 俺は俺がいつ死んだかは知らないが、初めて食べた魚肉ソーセージは前世では味わったことがないほど衝撃的な味で、一言で言うなら美味かった。きゅうりの瑞々しさとは違う口の中に満たされていく旨味に、俺はあっという間に魚肉ソーセージの虜になったのを覚えている。

 それからとっかえひっかえ色々な会社の魚肉ソーセージを試し食いさせてきたほたるはかなり面白いやつだと思った。俺は魚肉ソーセージをほたると頬張る時間がくだらなくて仕方がなかったけれど、楽しくもあったんだ。

 そんな日々は唐突に終わった。

 ある日突然、ほたるは俺が見えなくなった。ほたると話したかった。けれど……奇化しものに執着したばかりに人間関係が上手くいかなくなることがあるのを俺は知っていた。だから、その日から、一人魚肉ソーセージを持って俺を待つほたるを眺める日々が続いた。

 本当は話しかけたかった。でも、俺が見えなくなることで、ほたるはようやく普通の人間の普通の人生を歩めるようになるんだ、と思うと、声をかけるなんてとてもできなかった。この声が聞こえてしまったら、見えないのに聞こえたら、それなのに話し続けたら……今度こそ、ほたるは誰とも関われなくなる。ほたるはいいやつなんだ。だから認められるべきなんだ。だから、だから、だから……

 ほたるの人生の中に俺はいるべきじゃない、と俺はほたるをただただ眺めた。ほたるが死ぬそのときまで、声一つこぼさなかった。

 それでもほたるは諦めなかった。俺がいることを知っているから、俺はどこかに隠れているだけなんだ、と信じ続けた。

 それは嫁ができても変わらなかった。

「なあ、ケイよ。わし、嫁さんもらうことになった。……聞いてっかわかんねぇけども、親友のお前に報告しねえで誰にすんだって思ってなぁ。厚かましいが、祝っとくれ」

 そんなの、祝わないわけがない。けれど、俺は「おめでとう」も言ってやれなかった。臆病者だ。

「だけども! お前のことも諦めねえからな! 嫁さんにもちゃぁんと話してあるけ。懲りずに毎日来るぞ」

 思わずもう来るな、と言いそうになった。だが、俺が何と言おうと、ほたるの意思は変わらなかったのだろう。

 半年前。

「聞こえとるか? ケイ。……ははっ、おかしな話じゃがの、わしゃわしの声すらもう遠いんよ。だから、最後に一目でいいから、姿を見せてくれ。わしの信じるお前さんはここにいると……わしにだけでいい。証明しとくれ……」

 ほたるは自分の寿命を悟っていたんだろう。晩年はもはや命を削る勢いで俺のところに来ていた。俺は呆れより、痛ましくなって、けれど、涙も出ない己の薄情さを呪った。

 ふらふらと、地面に崩れていくほたるを見て、俺は思わず手を伸ばし、ほたるを抱き止めた。気づけば、無意識に前世の姿になっていた。

 ほたるは目を真ん丸に見開いてそれから笑った。

「姿は違えど、わかっぞ。お前さん、ケイだな? ……やっと見つけた」

「……ほたる」

 けれど、邂逅はその一瞬で終わった。


 あのときの胸の苦しさを俺はよく覚えている。人間はいずれ死ぬ。八十年以上生きたほたるは大往生といって差し支えない。

 けれど、死んで「仕方ない」では済ませられなかった。

 きっと、メグミにとっての恵もそうなのだろう。

 恵はほたるとは違った意味で不思議なやつだった。


 恵と出会ったのは、ほたるが結婚した後だ。恵は傷も何もない小綺麗な格好をしているのに、死んだような目をした女の子だった。

 どうやら俺が見えるようだったが、目を合わせることはあっても、話しかけてくることはなかった。おそらく、見えることへの弊害に思い悩み、疲れていたのだろう。

 けれどある日、彼女の方から話しかけてきた。木陰で一人俺を求めて魚肉ソーセージをゆらゆらさせていたほたるが帰った後のことだった。

「貴方って、不思議な奇化しものね」

「……」

 奇化しもの。その単語ですぐ、彼女が縁野の者であることがわかった。妖怪や幽霊を「奇化しもの」なんて特殊な呼び方をするなんて、縁野家以外にいないのだ。この辺には。

「おじさんに話しかけてあげないの?」

「そうしたら、あいつがせっかく手に入れた『普通』がなくなってしまう」

「奇化しものなのに、人間が普通であるために尽くすの? 聞いたことがないわ」

「いいだろう? そんな奇化しものがいたって。大体、お前が言うそういう類の『奇化しもの』ってのは、『妖怪』のことだろう? かっぱはただの妖怪じゃない」

「……ああ、昔話で聞いたことがあるわ。そっか、貴方は『妖怪』であるだけではないわけね」

「そういうことだ」

 大人びていて、やけに物分かりのいい子どもだった。けれど、仕草や言葉の一つ一つに「自分への皮肉」が入り交じっているように感じた。

 それは気のせいではなかった。彼女が地元の中学の制服を着るようになった頃には、彼女は頻繁に俺の元を尋ね、色々なことを語った。

「私はね、縁野の一族の末子なの。だから、後継なんて一切気にする必要がない、気楽な存在のはずだった。なのにね……」

 縁野恵と名乗った少女は明かした。

「私は今代の縁野の人間で唯一『見える』から、縁野家の次期当主にならなくちゃいけないんだって」

 知らなかった。縁野家の秘密。縁野家だけが妖怪や幽霊を「奇化しもの」と呼ぶ謎。それは縁野には奇化しものが古来より多く存在し、縁野の「見える」人間が奇化しものと交流を図るために血を繋いできたということ。

 俺はこの池から動いたことがなかったから、知らなかった。縁野には他にも奇化しものが存在することを。俺がいたよりずっとずっと昔にも、この池にはかっぱがいたらしい。文献に載っていた、と恵は淡々と語った。

「……跡継ぎとやらになるのが嫌なのか?」

「そうよ。決められたレールを敷かれた人生なんて嫌。誰もがそういうわ。でもそれには実感が伴っていない。だって今時、そんな体験をすることの方が稀ですもの。私は……自由でいたかった。もちろん、縁野は好きよ。家には可愛い座敷わらしもいるし。かっぱおじさんみたいな優しい人も多い。でもね、縁野家を背負うっていうことはこの街の全部を背負うようなものよ。そんなこと、こんな子どもに託されたって……」

 本当は、どこかで聞いた物語のように、「親に敷かれたレールの上なんてまっぴらごめん」と言えたらよかったのだろうが……恵の心はそれを言い切るには柔すぎた。

「幸姉が羨ましいわ。なんでもかんでも好きに自分の意見を言えて。私もあんな風になってみたい」

「なればいいじゃないか」

「簡単になれたらここで嘆いていないわよ」

 苦笑していたが、俯き加減の顔はとても明るいとは言えなかった。

「……なんでそんなことを俺に話すんだ? 家にいる座敷わらしでもいいんじゃないか? 座敷わらしは妖怪というより神霊の類に近いと聞く。俺よりはお前の力になれるんじゃないか?」

「家の人が見てるから駄目よ」

 それに、と恵は付け足した。

「貴方みたいな変わった奇化しものに聞いてもらいたかったの。あんなにおじさんと話したそうにしているのに、それでもおじさんのためって話しかけるの我慢してる……そう、どうしようもない者同士だから、話せるの」

 「どうしようもない者同士」。どんな思いで中学生の恵がそう言ったのか、俺にはわからない。けれど一つ確かなのは、嫌だ嫌だと言いながらも、覚悟はできているということ。不思議なやつだ。

「どうしようもない、か。確かにそうかもな。俺はほたると違って諦めることを知っている」

「私もよ」

 そんな会話で、笑い合った。

 高校に入ってからは完全に諦めたようで、他愛のないことを話すようになった。

 その頃だったか。恵は菓子作りに没頭し始めたのは。冬に今年は手作りのケーキを家族に振る舞うんだと意気込んでいた。そのとき、「ブッシュ・ド・ノエル」を作るのだと聞いた。兄弟が恵以外大食らいで困る、とこぼしてもいたか。

 辛そうな顔はしても、泣かないやつだった。

 最後に会ったのは、いつだっただろうか。……そうだ、駆け落ちした姉を心配する話をしていた。

「幸姉、私がいなくて大丈夫かな……」


 思えば、それは何かのサインだったのかもしれない。

 それからふっつり、恵は来なくなった。しばらくして、ほたるがこぼしたのを聞いたんだ。

「勘当された幸ちゃんが戻ってきたのは嬉しいけんども、恵ちゃんが亡くなっちまうとはなあ……」

 俺があのとき、恵の話をよく聞いていれば、


 恵は自殺なんてしなかったかもしれない。


 どうしようもないから、と恵が選んだ逃げるための一手。一生に一度しか使えない、自爆業だった。


 バスの中で運転手の声が「次は縁野」と告げる。それは縁野の地主、縁野家の屋敷前を指すらしい。俺はメグミがそうしていたように、ボタンを押して、降りる準備をした。メグミはまだ寝ている。

 初めて訪れる場所だ。こいつらに何を言ってやろうか。

 メグミを背負って降りた俺は真っ直ぐに屋敷に向かった。

 ──恵の家族に、初めて会った。

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