第4話 いざ、かっぱ池へ

 その日記は、かっぱおじさんの代名詞とも言うべきその一言で始まっていた。

「わしは今日、かっぱを見た。川池の池でだ。かっぱなんぞおとぎ話の産物だと思っとった。だが違った。かっぱはおったんじゃ」

 そこからよほどかっぱに興味を持ったのだろう。ページをめくればかっぱのことばかり書いている。まるで取り憑かれたかのような執着ぶりだ。

「かっぱはきゅうりが好きだと伝わっているが、わしの会ったかっぱ曰く、なんでもいいらしい。人間の食べるものは物珍しいから食べるのだという」

「今日、わしは魚肉ソーセージなるものを持っていった。普通の肉でソーセージを作ると値が張るらしいからな。わしも初めて見たときは面妖なものだと思ったものだが、かっぱは更に驚いておった。こんなに美味いもんを食べたのは初めてだ、と感動しておった。今度から手土産は魚肉ソーセージにしてやろう」

「魚肉ソーセージも時代と共に変化した。チーズ入りなるものが出たのだ。小遣いはたいてチーズ入りの魚肉ソーセージをかっぱに持っていった。そしたらかっぱは目ん玉ひんむいて驚いとったなぁ。だが、チーズは口に合わんかったらしい。明日はいつものにせい、と言われた。

 よく考えると、今日は初めてかっぱから好みを聞けたかもしれん」

 なんというか、一言で言うとすごい。魚肉ソーセージでここまで話を書ける人はなかなかいないのではないか。かっぱと魚肉ソーセージについて語り合う日記って、世界中探してもたぶんこれだけだぞ。

 かっぱは魚肉ソーセージならなんでも食べたらしいが、若かりしおじさんは様々な会社の魚肉ソーセージを持っていって食べ比べをさせたらしい。好奇心もここまで凄まじいと呆れを通り越して感心してしまう。

「色々食べさせてみたが、かっぱはいっちゃん最初に持ってきた魚肉ソーセージがいい、と言った。だからわしはそれからその魚肉ソーセージを持っていくことにした。他の食べ物も食わしてみたが、第一印象が強かったんか、魚肉ソーセージが一番好きらしい。かっぱはきゅうり以外も食べるんだな。発見の毎日で嬉しいぞ」

 かっぱを釣るのに魚肉ソーセージを使っていたのにもちゃんと訳があったというわけだ。おじさんの勝手な思い込みだと思っていたが、そうでもないらしい。文体が生き生きしており、かっぱとおじさんの和気藹々とした交流が読み取れる。

 だが、私は引っ掛かりを感じた。こんなにもナチュラルにかっぱと接していたおじさんは何故、「魚肉ソーセージでかっぱを釣る」なんて行動を取っていたのか。この日記を見た限りだと、川池に行くだけでかっぱに会えていたようではないか。わざわざ釣る必要なんてないはずである。

 そんな疑問を抱えながら読んでいくと、だんだんと話が見えてきた。ある日を境に、おじさんとかっぱの交流の様相が変わっていったのだ。

「今日はかっぱに会えんかった。せっかく魚肉ソーセージを持ってきたのに」

「新発売のピリ辛魚肉ソーセージというのを買ってきたんだが、かっぱは姿を現さない。辛いのは苦手なんじゃろうか」

「最近かっぱに会えない。つまらん」

「かっぱに会えんから、どこかに隠れているんじゃろうと思って、わしは釣りをすることにした。かっぱは池の中に隠れているのかもしれん」

「今日もかっぱが釣れんかった」

「かっぱはわしを嫌いになったんじゃろうか」

「いるのはわかっているんじゃ。諦めるものか」

 ……あの名物のかっぱ釣りにこんな深いわけがあるなんて、誰が考えるだろうか。やはり、ここを調べたのは正解だったようだ。

 一つ奇妙なのは、ある日を境におじさんの前にかっぱが姿を見せなくなったということ。毎日好物を持ってきてくれる人物を嫌う、なんてあり得るのだろうか。まあ、これは人間的な感覚から言っていることだから、奇化しものであるかっぱの常識には通用しないのかもしれないが、おじさんの日記を見た限りでは、かっぱはだいぶ人間寄りの感覚をしている。おじさんを嫌ってしまったから姿を現さなくなった、なんてあるのだろうか。

 おじさんが死ぬまで毎日川池に通っていたことから察するに、かっぱと再会することは叶わなかったのだろう。

 それから私は本棚に向かった。おじさんはかっぱ池に行っている印象しかないから、そんな勤勉な印象はなかったけれど……かっぱについて、色々調べていた。けれど、ジャンルをかっぱだけに絞りすぎて手詰まりになったのか、妖怪や奇化しものといった広義のものも調べていたようだ。縁野風土記なるものがある。

 風土記とは社会で習った気がするが、土地に関する日記のようなものだったはず。そんなものまで読んでいるなんて。

 私も少し興味があったので、手に取ってみた。

 風土記というだけあって、難しい言葉の羅列……と思いきや、わりと現代語で書かれており、古文より読みやすかった。

 何のテーマを重きに置いているかと思えば、奇化しもののことだった。どうやら、この変わった呼び名から察していた通り、「縁野」と「奇化しもの」は関係が深いらしい。

 遥か昔から、縁野には奇化しもの──普通の人間には見えないものが見えるという人物が多かったらしい。そのせいで法螺吹き呼ばわりされることなど茶飯事。だから縁野の人々は見える者同士で結託して、徐々に縁野という地を作っていったのだという。

 だから縁野は土地が狭くても人同士の繋がりは強い。そんなことが書かれていた。

 結局、かなり険悪だった母と祖母が和解したのも、同じ縁野を故郷に持つからだろうか。叔母が手助けしてくれたのも。それに縁野の人々には色々お世話になった。縁野で生まれたわけでもない私まで。かつて迫害された分、人に優しくあるように努めているのだろう。

 風土記を読み進めていくと、気になる文があった。奇化しものが見える者に関する記述だ。

「所謂、奇化しものが見える者というのは、科学では語れない非科学的位置に存在する者であるとされる。が、科学的とは言えないまでも、奇化しものを見る者にもある一定の特性がある。

 例えば、一生その体質のままの者もいれば、ある時期を過ぎてから見えなくなる者もいる。あるいは特定の奇化しものしか見えないといった事象も縁野では確認されている。

 見える者、と一括りにしても色々いるのだ」

 これってもしかして、と私はおじさんの日記を思い出した。ある日を境にかっぱの姿を見なくなったおじさん。それがもし、「見えなくなった」のだとしたら……

 ……おじさんはこの事実を踏まえて尚、かっぱに会いたかったのだろうか。もしかしたら、自分は特定の奇化しもの……おじさんの場合はかっぱ、だけは見える。そう確信したかったから……

 だとしたら、おじさんへの手向けとして私が与えられるものがある。私が奇化しものを見えるからこそ。

「母さん、私、川池に行ってくる」

「ええっ、さっき行ってきたばかりでしょう?」

「かっぱ池に花をお供えに行く。じゃないとおじさん可哀想じゃない」

「……わかったわよ。お母さんには言っておくから、夕飯までには帰ってくるのよ?」

「うん」

 言うが早いか、私はおじさんの家を飛び出した。記憶が正しければ、まだバスに間に合うはず。

 私は確信している。あの池にはかっぱがいると。

 だから会いに行くのだ。

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