第3話 会いたいな
暑かった夏ももう終わるのだと思わせる、少し涼しい風が吹いた頃。しばらく千蔭さんには会えていなかった。
いつものように自習室の机にかじりついたままで固まった肩と首をゆっくりと回すと、ばきばきとひどい音がする。
(ああ、ちょっと疲れたな)
そう心の中で思うと、自然と千蔭さんの顔が浮かんでくる。会いたいな。もうどれくらい、会ってないんだっけ。時間を確認すると、まだ店は開いている時間だけれど、ちょっとぎりぎりだった。
どうしようか、と悩んだのはわずかな数秒だけだった。思い立ったらすぐに荷物をまとめて、図書館を出る。店に向かう俺は、少し足早に、弾むような足取りだった。
「いらっしゃいま……夕陽くん!」
「こんばんは。今日はまだ大丈夫ですか?」
店のドアを開くと、久しぶりの千蔭さんのいらっしゃいませの声が聞けると思ったら、千蔭さんは言葉の途中で俺の顔を見るなり、少し驚いたように目をぱっと見開いて、名前を呼んでくれた。なんだかそのリアクションに、俺は嬉しくなってしまう。
「もちろん、座って座って」
「ありがとうございます」
閉店時間も近づいてきている店内は他の客がおそらく友人同士で来ている二組ほどで、みんな和やかにおしゃべりをしたりしていて、今日は千蔭さんを独占できそうだ。
「久しぶりだからびっくりしちゃった。忙しかったの?」
「忙しかったというか、まあ、一応受験生なんで。でも今日は、なんだか千蔭さんに会いたくなっちゃって……」
「……! ふふ、そっか。会いに来てくれてありがとう」
「今日はラテにしようかな。お願いします」
「はーい、かしこまりました」
会いたくなったと話すと嬉しそうに目を細めるのを見て、ああ、やっぱり好きだなあと思う。
なんだかいつもよりも千蔭さんが楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。俺が会いたかったって言ったからだなんて、勘違いしてしまいそうなほどに、その笑顔がきれいでかわいい。
注文するとラテの準備を始める千蔭さん。大好きなコーヒーに向き合っているときの姿が一番好きだ。いつもニコニコと笑っている顔がふと真剣なまなざしになって、けれど柔らかな空気感は変わらなくて。ぴんと伸びた背筋も動くたびにふわりと揺れる長い髪も、手元を見つめるのに伏せられたまつげの影も、食器や器具にていねいに触れる白い指先も、全部がきれいでひとつの芸術品みたいだ。
しばらく真面目に勉強していて会いに来ていなかったけれど、こうして眺めているとどうして会えずにいられたのだろうと不思議に思う。それほどまでに、千蔭さんのことが好きだ。好き、大好き。
そんな想いをちゃんと伝えられたら、どんなにいいだろう。俺はそんなことを夢見る。
それなりに時間はかかっているはずだけれど、千蔭さんのことを見ていたらラテができあがるのはあっという間だった。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます。わ、かわいい」
目の前に差し出されたラテにはきれいな曲線を描く模様と、かわいい犬のイラストが入ったデザインのラテアートが施されていた。
「最近上達したんだよ、ラテアート」
「すごいです、なんだか飲むのがもったいない…」
「あはは、美味しく淹れたから見るのも飲むのも楽しんで」
「写真撮っておこう…」
美人な千蔭さんにはちょっとミスマッチなとてもかわいらしいイラストに心が和むと同時になんだか感激してしまって、スマホでぱしゃぱしゃと写真に残した。
コーヒーの苦みと香りで頭がすっきりとしていき、ミルクのまろやかさでほっとする。千蔭さんの淹れてくれるコーヒーは後味の切れがよくて、口の中に豆の香ばしい香りだけが残る。
「いつもここで買った豆でコーヒーは淹れてますけど、やっぱり千蔭さんが淹れたものは全然違いますね」
「ほんと? そう言ってもらえると、お兄さん頑張ったかいがあるなあ」
「俺も母さんも頑張ってみてはいるんですけどね。道具も凝り始めるときりがないし」
「あはは、わかる。僕もお気に入り見つけるまで結構お金使っちゃったよ」
そんな何気ない話も二人でしていたら楽しい。試験のために、肩に力を入れすぎずに頑張っていたつもりだったけれど、いつの間にか自分もぴりついてしまっていたことに気づいた。千蔭さんとの穏やかな時間で、張りつめていた心がほどけていくみたいだった。
それでも、のんびりしているばかりではいられない。今日の俺は、密かに心に決めていることを伝えにきたのだ。
十九時。他のお客さんはみんな閉店だからと帰っていき、店には俺と千蔭さんのふたりきりになった。
「ごめんね、手伝ってもらっちゃって」
「いいえ。最近できてなかったけど、前もよくお手伝いさせてもらってましたよね」
「ふふ、夕陽くんが俺もやりたい!って言うものだから」
食器を戻したりテーブルを拭いたりと、簡単な閉店作業の手伝いをさせてもらう。その間に千蔭さんはレジのお金関係のことをやっている。その時間は俺にとってはただのお客さんと店員さんの関係ではなくなる、ちょっとだけ特別な時間だった。
「ありがとう、おかげで今日ははやく終われたよ」
「俺がやりたくてやってるんで。千蔭さんの役に立ててよかったです」
店のエプロンを外してラフな私服に着替えた千蔭さんを見られるのも、こんな時だけだから役得だ。お店に立ってるときよりも、表情がゆるむのも見ていて幸せだった。
そんなお客さんと店員さんの関係から少し外れた今なら切り出せると思った俺は、勇気を出して話し始める。
「あの、千蔭さん。来週の水曜日、暇ですか」
「来週? うん、定休日だし、特に予定は入れてないけど……」
「あ、あの。一緒にで、……出掛けませんか。ふたりで」
「へ……?」
千蔭さんは、驚いて目をまんまるにしている。きれいな唇も、少し開いたままになってしまっている。
そんなリアクションになるのも無理はないのかもしれない。デートなんて言葉は言えなかったけれど、これは間違いなくデートの誘いだ。
好きだって気持ちを隠せているつもりはない。きっとバレバレだと思う。これまでは千蔭さんもからかったりしてきていたけど、俺がいざ本気で行動を起こそうとしたのは初めてだったから、きっと驚いている。
引いたかな。今まで見てるだけで満足みたいな顔してきたから、急に距離を詰めようとしたら、嫌がられても仕方がないのかもしれない。でも、どうにか、俺に望みはないのだろうか?
「……いいよ」
「!? ほんとですか?」
千蔭さんが少し考えて黙っていた時間は、きっと数字で示せばほんのわずかな秒数だったのだと思う。けれどその返事を待つ時間は俺にとって、ものすごく長い時間に感じた。
だからこそ信じられなかった。千蔭さんが、いいよと言ってくれた。
「僕も夕陽くんと話し足りないなって思ってたから」
「う、うれしいです。その、千蔭さんに教えてもらった古い映画が今度、昔のやつ上映してる映画館でやるらしくて」
「え? そうなんだ。スクリーンで見れるってこと?」
「はい。だから、一緒に行けたら楽しいかなって」
「知らなかった。それは楽しみだな」
映画のことは口実だけれど、本当にこのタイミングでリバイバル上映することにしてくれて映画館の方ありがとうございますと思った。
本当はその前の週の土曜日が、俺の十八歳の誕生日なのだ。土日は千蔭さんもお店が忙しいから、そこは外したうえで、成人して大人になった俺で、千蔭さんに告白したい。
それは子どもの頃から決めていたことだった。千蔭さんの隣に並んで歩けるくらいの大人になったら、絶対にそうする。
ずっと、心の中で決めていた。
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