第2話 初恋は初恋のまま

 あんなにも幼い頃のカフェオレの味をまだ忘れられないなんて、自分でも重たいなと思う。


「砂糖とミルクはいる?」

「いらないです」

「了解。夕陽くんも大人になっちゃって」

「もう、からかわないでくださいよ」


 それも、今もこうして千蔭さんに子どものように扱われてからかわれて、いつまでも関係が変わっていないままだからのような気もする。


 時が経って、俺も高校三年生になった。コーヒーはいつの間にかブラックで飲むのが好きになった。

「まあお兄さんとしても、味も香りも伝わりやすいから嬉しいんだけどね?」

「はい。千蔭さんのコーヒーが一番好きです」

 関係も変わらないけれど、一番何も変わっていないのは俺の気持ちかもしれない。今も昔もこうして、俺の言葉で千蔭さんが喜んでくれることが何よりも嬉しい。


 これが恋か憧れかなんてわからない。だって俺は、千蔭さんのことしか好きになったことがない。千蔭さん以上に綺麗だと思える人を知らない。

 千蔭さんの優しくて少しいじわるなところも、美味しいと伝えると子どもみたいに嬉しそうに笑うところも、顔も髪も香りも、全部が大好きで、千蔭さんも同じ気持ちになってくれたらいいのにと思う。



「そういえば、前に千蔭さんが話してた映画見ました」

「あ、覚えてたんだ? どうだった?」

「すごい良かったです。最後のほう、ちゃんと騙されました」

「あは、だよねえ! 僕も初めて見たとき騙されたんだ」

 そんなたわいもない会話をゆったりと楽しんでいる。俺にとっては千蔭さんが何気なく話した映画のことも忘れるはずがない。

 実際、千蔭さんが好きだと話すものは贔屓目なしにとても良いものだった。コーヒーも映画も本も、音楽も町も、ぜんぶを好きになれた。だから、千蔭さんと過ごす時間が好きだった。


「そういえば夕陽くんって受験生? 勉強してる?」

 高校三年生の夏の終わり。千蔭さんから見た俺はそんなに焦って見えてなかったようで、不思議そうに聞いてきた。

「はい、来年大学生ですよ。勉強はまあ、ぼちぼち」

「ぼちぼちかあ、それが一番かもね。もう受けるところは決めてるの?」

「近くのK大が第一志望です。行きたい学科があるので」

「わあ、いいねえ。やりたいことがあるって眩しいなあ」

 千蔭さんはそんな風に時折自分を年寄りみたいに言う。確かに俺とは歳が十二も離れていて、今年十八歳の俺は今年三十になる千蔭さんにとってみれば俺なんて子どもでしかないのだろうと思う。それは、俺にも千蔭さんにもどうしようもないことだから、仕方ない。

 それでも小学生のときに初めて出会った頃と変わらない態度でいられると、複雑なところはある。小さい頃から何も変わらず、俺にとって千蔭さんは『好きな人』だ。もちろん俺と同じように意識してほしいし、ドキドキしてもらいたい。


 でも、今のところはそんなのは夢のまた夢だ。


「K大なんて、結構難関なんじゃないの? 僕はそんなに勉強できないから力になれないけど、頑張ってね」

 応援をしてくれながら、よしよしと優しく頭を撫でられる。これもまた子ども扱いだが、優しく髪に触れてくれることや、笑いかけてくれるその甘さがたまらなく嬉しい自分もいる。

 もしかしたらこの関係が進展しないのは、俺自身にも原因があるのかもしれないと思った。


 *


 季節が移りかわっていくと、受験モードの学校はどんどんと空気が張りつめていく。穏やかで柔らかな【金木犀珈琲店】の雰囲気が恋しくなるけれど、今の自分にはこのぴりぴりとした環境も必要だ。

 かりかりとノートにペンを走らせる微かな音や、ぺらりと参考書のページをめくる紙の擦れる音しか、この図書館の自習室には存在していない。人の出入りさえ、みんな音を殺すように行動している。隣に居る人がライバルかもしれないけれど、決してその人の邪魔をしてはいけない。ただ自分を高めていくことで試験という戦いに勝とうとしている。

 そんなストイックな雰囲気が俺は嫌いじゃなかった。


 勉強は楽しい。進学先で学びたいこともある。何より中学生、高校生、大学生とだんだん自分の肩書が変わっていって、大人に近づいていることを実感できることが嬉しい。

 俺ははやく大人になりたかった。千蔭さんと同じ大人に。


 出会った頃の千蔭さんは大学四年生だった。当時小学生だった俺から見た千蔭さんは、とても大人に見えた。いざ自分がこれから大学生になるという段階になっても、あのときの千蔭さんのような落ち着いた大人になれるだろうかという自信はまだない。

 大学では経営について学びながら、バリスタになるための知識をつけ様々な資格なども取っていたらしい。いつか自分の店を持ちたいと思っていたと話していた。

 あれから時が経って、あの頃は千蔭さんの叔父である松田さんが主に店に立っていたけれど、今は徐々に交代して千蔭さんが店舗管理をしている。松田さんはそろそろ身体がしんどいからと、裏方で千蔭さんのサポートする側に回っているようだった。話を聞くと、始めからそうするつもりで千蔭さんはあの店で働き始めていたらしい。


 だから、千蔭さんはもうほとんど夢を叶えたようなものだった。店を自分のものにしてしまうのではなく、かつての常連さんもそのままに、けれど千蔭さんらしさも活かしたうえで、千蔭さんの店であるという雰囲気が受け入れられている。

 新しくお客さんも増えたけれど、それでもあの店のゆったりとして人と人との距離が近い、あたたかな空間は変わらなかった。それは千蔭さんの力だ。


 そんな風にやわらかに、しなやかに進んでいく千蔭さんは俺の憧れでもある。だから俺は日々こつこつと努力を重ねて、無理せず軽やかに、自分の夢を叶えていきたい。

 そう思える人に出会えたことも、俺にとっては幸福なことだった。

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