金木犀の馨る頃

@shirayu_sui

第1話 金木犀珈琲店

 あたたかな日差しが磨りガラスの窓から入り込み、受けたキャラメル色の長い髪が柔らかにその光を反射する。

 香ばしい豆の香りが漂うなかで、その人の伏せられたまつ毛にふわふわとたちのぼる湯気が重なるのを眺めるのが好きだった。


 そうそれは、ずっと昔からそうだったんだ。



 *



 少し町外れにある【金木犀珈琲店】は、母の友人のおじさんがやっているお店だった。

 基本的にはコーヒー豆とちょっとしたお菓子を売っていて、奥には少ないけれど席もあり、店主のおじさんが淹れてくれるコーヒーを楽しめる、そんなお店だ。

 母はそこの珈琲と焼き菓子が大好きで、よく俺を連れたまま豆とクッキーを買いに行っていた。落ち着いた大人な雰囲気のそこに入れるとき、俺はほんの少し大人になれた気分になって嬉しかった。奥の席で店主の優しいおじさんと和やかに話したりしている常連さんたちを見て、いつか自分がそこの一員になれたら、と思っていたのだ。



 ある日の俺は、母にいつもの豆を買ってくるようお使いを頼まれた。店は家からそれほど離れていないし、もう何度も行ったことのある場所だから、小学生の初めてのおつかいにも無理のない場所だ。

「この紙に書いてある豆だけでいいからね。お菓子はおばあちゃんから貰ってるのがあるから」

「うん、わかった」

 母はきちんと買う豆の種類とグラム数をメモに書いて渡し、必要な分のお金を持たせてくれた。


 店に向かう足取りは、なんだか落ち着きがなくて、そわそわした。一人だけであのお店に行くなんて、少し緊張している。嬉しいような、怖いような。


 小さな子供には重たいドアを開くと、コロンコロン、とドアベルの優しい音が響く。

「こんにちは」

 恐る恐る、けれどもなるべくハキハキと、いつも通り挨拶をしながら店に入る。


「いらっしゃいませ」

 返ってきたのは、いつものおじさんの声ではない、知らない人の声だった。


 どきん、と心臓が高く鳴ったのを、よく覚えている。

 顔を声のしたほうへ向けると、そこには今まで見たことがないような、とても綺麗な人が立っていた。


「おや、ずいぶん小さなお客さんだ。こんにちは」


 笑いかけてくれたその人に、俺は何も言葉を返せなかった。知らない人に驚いていたからだけではない。

 その柔らかな笑みを作って細められた瞳が、やけに紅くつややかに色づく唇が、動きに合わせて揺れる髪が、あまりにも綺麗だったから。



 一目惚れ。

 それが本当にあるものなのだと、俺は小学四年生にして知る。



「おや、花村さんところの子だね。こんにちは」

「あ、おじさん、こんにちは」

 時間にしてみればきっとほんの少しの時間、その人を見つめてしまっていたその後すぐに、いつもの店主のおじさんがカウンターの奥から顔を出した。俺はなんとなく、それにほっとする。

「今日はひとりかい?」

「はい、おつかいを頼まれて」

「おお、えらいねえ」

 おじさんは奥で何か別の仕事をしていたらしく、手を洗いながら話していた。


「この子も、常連さんなんですか?」

「そうだよ。私の古い友人の子でね。よくその子に連れられて来るのさ」

「花村、夕陽です。おねえさんは、ここで働いてるの?」

 俺の問いに、その人は目を丸くした。今考えれば、それはそうだろうと思う。

「ふふ、僕、女の人に見えたかな? 実はお兄さんなんだ」

「えっ、えっ? そう、なの? ごめんなさい」

「いいよ。ちょっと驚いただけ」

「チカちゃんは美人さんだからなあ、間違えてもおかしくはないよ」

「もう、叔父さんったら」

 女の人に間違えられても気を悪くしたりはせず、どこか品のある仕草でころころと笑うその人はやっぱり綺麗で、笑顔が可愛くて。


「昨日からここで働きはじめた、沢木千蔭っていいます。よろしくね」

「ちかげさん……」

「はい、夕陽くん」

 一目惚れした人が男の人だって知っても、全然ショックなんかじゃなくて。


 だって、そんなこと気にならないくらいに、千蔭さんは綺麗だったんだ。



「あれ、今日は粉で買っていくのかい?」

 俺に渡されたおつかいメモを見たおじさんが、そう聞いてきた。

「はい。ミルが壊れちゃったって」

「ああ、それでか。わかったよ。じゃあ挽いて詰めてあげるから、ちょっと待ってね。そこ座ってな」

「いいの?」

 おじさんは俺に、座って待っていろと奥の席を指差した。そこは俺の憧れの席で、まだ子供なのに一人でそこに座れるなんてドキドキした。

「ああ、今はほかにお客さんも居ないしね」

「一人でおつかいに来れたご褒美に、お菓子でも食べていったらいいよ。クッキー、好き?」

「そ、そんな、お菓子は……」

「子供が遠慮なんてするもんじゃないよ。いつもチョコチップのを買っていくだろ」

「そうなんだ。じゃあ一緒に食べよ?お兄さんもちょうど食べたかったから、つまみ食いに付き合ってほしいなあ」

 あれよあれよと言う間に俺は奥の窓際の席に座らされて、洒落たお皿に好物のクッキーを並べられる。


「夕陽くん、コーヒーは飲めるの?」

「……コーヒーは、まだ、にがくて」

 素直にそう答えると、千蔭さんはそうだよね、と微笑んでくれた。

「ミルクたっぷりの、甘いのだったらどうかな?」

「…! 飲んでみたい」

「よしきた」

 にっこりと笑った千蔭さんは、腕まくりをしてカフェオレの準備をしてくれた。

 コーヒー屋さんで飲むコーヒーに憧れてはいたけれど、小学生の俺はまだコーヒーの苦味を美味しく感じるような味覚は持ち合わせていなかった。母の飲むコーヒーをこっそりとほんの少し、舐めるくらいにしか飲んだことがなかったけれど、苦くて渋くて酸っぱくて無理だった。


 でも、千蔭さんが淹れてくれるコーヒーは、飲んでみたいと思ってしまった。

 初めての一杯を好きな人の手で、なんてことに頭が回っていたわけではないけれど、素直にそう思ったのだ。


 ケトルから、しゅ、しゅ、と微かな音を立てながら湯気がのぼる。その横ではミルクもあたためられていて、コーヒーの香りの中にほんわりと甘い香りも混ざっていく。

 じっくりと温度を見ながら丁寧にハンドドリップをする千蔭さんの瞳は真剣そのもので。けれどどこか柔らかで穏やかな雰囲気はそのままだ。

 その姿を見ただけでも、千蔭さんはコーヒーがとても好きなんだろうということが子供ながらに理解できた。まっすぐな、そして愛おしそうな視線。それを少し離れた席から眺めて、その視線が心の底から、欲しくなった。


 もちろんそんな気持ち、そのときは自分自身で理解なんてできていなかったけれど。

 その目で俺を見てくれたらいいのに、なんて、そんなことがふと頭の中を過った。



「どうぞ」

 千蔭さんがそう言いながらふわりと笑って、目の前に置いてくれたカフェオレ。それが俺にとって、はじめての喫茶店で飲むコーヒー。

 今にして思えば、それはコーヒーというよりもホットミルクにほんの少しコーヒーを足したようなものだった。

「…っ、おいしい」

「ほんと? 良かった」

 けれどその僅かなほろ苦さを甘くミルクでやわらかく包んだようなやさしい味が、すごく美味しかったんだ。


 俺は今でもその味と、おいしいと言う俺を見て嬉しそうに笑うその笑顔を、ずっと覚えている。

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