高嶺の花の綾本さん【後編】


「綾本」


 数日後の朝、教室に入ると佐々鈴蘭がいつもの不敵な笑みを携えて近づいてきた。


「今日もいい子にしてるよ。俺、けっこうがんばってるでしょ?」


 にこにこしている彼に一瞥をくれ、「ええ、まあね」と返し、理衣子は自分の座席につく。最近、彼はいやに礼儀正しくて品行方正にしていて、若干気味が悪い。


 観察の日数は一週間を越えた。佐々と斉藤の間にあったバトルなどまるでなかったかのように、日々は平穏に過ぎていった。それというのも佐々が大人し過ぎて、すべてが嵐の前の静けさのような気がするのだ。今度は何を企んでいるのやら。


 梗のところに相談に行こうとしたが、近頃の彼女はとてもよそよそしく、こちらが話しかけても上の空のように曖昧な返事しか返さない。およそ梗らしくない、集中力の削がれ方だった。


 彼女が自分に告白しようとしたなんて、ただの幻ではないのか。


 理衣子はあの日の事件をいまだ信じられない気持ちで受け止めていた。やはりあれは告白ではなく、からかいの一種だったのではと。


 ここ数日、誰と話しても孤独感が拭えず、理衣子は次第に寂しい気持ちになってきていた。




 気分が沈んだまま、いつものように昼休みを迎える。

 理衣子はとぼとぼと職員室へ向かっていた。


 もう佐々鈴蘭は大人しくなったのだ。今さら自分が見張る必要もないだろう。

 学年主任の郡上に佐々の観察を辞退する旨を伝えるため、理衣子は職員室の扉をノックした。


 ちょうどその時、ドアの向こうから教師たちの話し声が聞こえた。


 盗み聞きの趣味はないのだが、突如出てきた「綾本」の名前に身体がびくりとする。自分のことだろうか。同じ名字の、別の誰かだろうか。


 ここのドアの壁は見た目よりも薄いようだ。人の話し声がわずかに耳に届く。話題に出されたのが気にかかり、理衣子はその場で動けなくなってしまう。


「――綾本は、優秀な生徒なのですが」


 斉藤の声がする。やはり、自分を話に出している。

 理衣子はドキドキと扉の前で突っ立っていた。


「正直、学年で三位というのは、それほどすごい数字ではないんですよ」

(え……)


 心臓がザクリと何かで傷つけられるような痛み。

 心拍数が上がり、目の前が滲むような悲しみが襲ってきた。


「僕としては、――君の方が、将来性がありますね。いや、贔屓するわけではないんですが、頭の良さという点では――」


 ドアの向こうの斉藤の声は、楽しく弾んでいた。他の教師から生徒の評価を聞かれて、忌避なく答えた純粋な回答という風に聞こえた。斉藤は嘘をついているわけでも、嫌味を言っているつもりでもなく、心から「綾本理衣子の成績はたいしたことない」と伝えているのだ。


 唐突な喪失感と虚無感が、理衣子の心を覆った。


 斉藤は、自分を買ってなどいなかったのだ。

 自分だけ教師ウケを狙って、優等生ぶって、馬鹿みたいだ。

 大人からすれば、子どもの打算など、たかが知れてる。


 理衣子は泣きたくなるのをこらえて、足早に職員室から離れていった。




 どこへ向かうとも知れず、理衣子は校舎をうろうろした。もはや行きたい場所などない。梗とは気まずい状態が続いているし、一人でいると心が張り裂けそうだ。


 無心になれる居場所を探して、足が赴くままに歩いていると、いつの間にか西校舎の図書室の前まで来ていた。


「……どうして、図書室なんだろう」


 理衣子は一人つぶやいた。昔から、傷ついた時には図書室に逃げていた。最近、本からは遠ざかっていたけれど、何かに呼ばれるようにここにたどり着いてしまった。


 懐かしいな、と感傷に浸り始めた時、ガラス扉の向こうに見知った人影が見えた。


「……佐々君」


 なぜか今、彼を見るとひどく安心した。なぜかはわからない。ただ、打ちひしがれている自分の代わりに、佐々が怒ってくれるのではという期待が膨らんだのだ。


 理衣子は扉を開けた。

 佐々と目が合うまで、あと数秒後。




「お前まで本借りなくてもよかったのに」


 昼下がりの西校舎の廊下を、理衣子と佐々は並んで歩く。彼の手に収まっている二冊の文庫本を見て、理衣子も衝動的に一冊、単行本を手に取り、気づけば図書委員の座る受付カウンターに並んでいた。


「ううん、借りたい気分だったの。久しぶりに」


 実際、本の手触りを確かめると、不思議と心が凪いだ。先ほどの荒れた感情が嘘みたいだ。


「本、好きだったんだ」

「これでも文芸部よ」

「そうか」


 理衣子は職員室での斉藤の発言を佐々に話した。すると彼は期待以上に怒りの感情を露わにしてくれ、舌打ちを盛大に鳴らしてくれた。


「あいつ、贔屓にしてる生徒がいて、そいつのすぐ下の順位にお前が入ったから脅威に感じてるんだよ。この前もお前の悪口言ってたからさ」

「……そうだったんだ」


 しゅんとした理衣子を見て、佐々はますます腹を立ててくれたらしい。「あいつはお前の思った通りの大人じゃないさ」と忌々しそうに斉藤を標的にする。


「もう斉藤に媚び売る必要ないぜ。俺があいつを嫌う理由がわかっただろ」

「うん……」


 そう返しつつも、教師からああいう言葉を聞くのは、やはり傷つく。理衣子はこう見えて小心者だ。しっかりしていると言われながら、その内でプレッシャーを感じやすい。


 誰かが代わりに怒ってくれるのは、何てありがたいことだろう。

 と、ここまで考えて、理衣子は彼の本心に気づき、はっと振り返った。


「じゃあ、斉藤先生の授業を邪魔していたのは」


 ――私のため?


 言いかけたとたん、身体中にむずがゆい気持ちがほとばしり、自分の顔が真っ赤になっていくのを自覚した。これは、もう、何ていうのか、完敗である。まさかこんなカウンター攻撃を食らうとは思っていなかった。


 佐々も理衣子に負けず劣らず赤い顔をしている。悔しそうに口を尖らせ「何だよ」と憎まれ口を叩いてくる。


 理衣子は思わず彼の肩をちょっと小突いた。「うわっ、何!?」とあわてる彼に返事はせず、赤い顔のままそそくさと離れ、無言で廊下を立ち去ろうとした。

 歩き始めた理衣子の後ろを佐々がついてくる。


「言っとくけど、これは貸しだからな? 次はちゃんと俺のこと助けろよ!?」

「や、約束はしません!」

「何で! 強情なやつだなあ」


 佐々鈴蘭とは、生意気で腹黒くて小賢しくて、そしてとっても漢気あふれる人間であった。


 理衣子はまだのぼせているかのような熱をもったまま、そばにいる佐々の存在をぐっと噛みしめていた。


 ――神崎梗とのトライアングルが始まるまで、あと数日。



   了



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

高嶺の花の綾本さん 泉花凜 IZUMI KARIN @hana-hana5

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ